こわいおはなし

そこにある否定

　小百合が帰宅すると、エレベータの点検が行われていた。終了予定時刻までまだ一時間半もある。

　小百合は両手に提げたずっしり重い買い物袋を見下ろしてため息をつき、階段へ向かった。

　小百合の家は七階で、今まで一度も階段を使ったことがない。エレベータホールのすぐ隣の階段室に入ると窓はなく、踊り場に蛍光灯がぽつんと一つついているだけで薄暗く、ヒビの入ったコンクリートの壁は寒々としていた。

　重い荷物を抱えて薄暗い階段を上っていく。三階に上るだけで息がきれた。重い荷物と運動不足を嘆く。しばらく三階の踊り場で立ち止まり息を整える。

　ふとコンクリートの壁に落書きがあるのに気づいた。黒のマジックペンでぐちゃぐちゃと、何かを塗りつぶしてある。近くに寄って顔を近づけて見た。下に書いてある顔の絵らしきものはなんとか見えたが、どうやら落書きらしく、ぐちゃぐちゃの線と同じマジックペンで書かれているらしい。

　書いた絵を塗りつぶす。それも執拗に、何度も線を重ねて。いったい、それほどまでに消し去りたいものとはなんだろう。薄暗い階段室で何を考えていたんだろう。

　蛍光灯が明滅した。

　壁の落書きが息をしたように感じ、ぞっとした小百合は階段を駆け上がった。

　七階についたころには息切れで動けなくなった。それでも階段室にはいたくなくて重い足を引きずって明るい廊下へ出た。

　翌朝、小百合はいつものようにエレベータに乗った。七階から降りていき、エレベータは三階で止まった。

　ガラス窓の向こう、エレベータの前には誰もいない。扉が開き、小百合は首をだして左右を見てみた。誰もいない。右を見ると、階段の踊り場が見える。蛍光灯はやはり明滅している。明るい朝の光の中では、昨日怖がったのがなんとなく恥ずかしくなり、エレベータの閉まるボタンを押した。

　翌朝、またエレベータは三階で止まった。扉の向こうには誰もいない。次の日も、次の日も、エレベータは三階に止まる。そのたび小百合は左右を見てみるが、やはり誰もいない。

　故障かと管理人に話してみた。管理人は曖昧な微笑を浮かべ、調べておきますと返事をした。

　それからもエレベータは必ず三階で止まった。

　ある日帰宅すると、一階のエレベータホールに顔見知りの主婦がいた。挨拶をし、気候の話などしてみて、小百合はふとエレベータのことを聞いてみた。主婦は曖昧な微笑を浮かべ、壊れているんじゃないの？ とだけ答えた。小百合は階段の落書きのことも聞いてみた。主婦は青ざめ、ここだけの話だけど、と前置きして語った。

　小百合が引っ越してくる前、ビルに空き巣が入ったことがあった。一人の幼児が犯人を見たと言ったが、幼すぎる子供の証言は取り上げられなかった。幼児は犯人の似顔絵をいたるところに落書きし、母親がそれを消して回った。

　ある日、幼児が二階の階段の踊り場に倒れているのが発見された。三階の階段から落ちたらしく、即死だった。

　三階の踊り場には幼児が書いたらしい落書きを消したあとがあった。空き巣が、幼児が書いた似顔絵を消したのではないかと噂がたったが、真相はわからないまま、落書きだけが残った。

　翌朝もエレベータは三階で止まった。小百合はいつものように顔を出し、階段室をのぞいた。そこに見知らぬ男が座り込み、ぐちゃぐちゃと線が重ねられている落書きを、さらに黒く塗りつぶしていた。男はふいに振り返った。小百合と目が合う。

　この男だ。

　小百合が直感したことに男も気づいた。

　小百合はエレベータの閉まるボタンを何度も押した。男が走り寄り扉に手をかけようとした寸前に扉は閉まった。

　エレベータは一階に降り、扉の外には息を切らした男が立っていた。

　扉が開き、小百合に向かって男が伸ばした手には、真っ黒な絵が書いてある。つたない線で描かれた似顔絵。男の特徴を見事にとらえた子供の絵。小百合の視線に気づいた男が自分の手を見る。

　見る間に男は青ざめ、悲鳴をあげてエレベータから転がりでた。閉まるエレベータの扉の隙間から、怯えきった男の顔が見えた。男は手から絵を払い落そうとするように振りながら駆けだした。

　エレベータホールから走り出た男はビルの前の道路に飛び出し走ってきた車にはねられ、死んでしまった。即死だった。

　その日から、エレベータが三階で止まることはなくなった。