第四章 霧の世界を振り払って

第三十二話 少女の幸せ


 この世の何も信じられない。信じられなかった。

 何もかも否定されて、なぜ生きているのかわからなかった。

 縋るものがなければ生きていけないと幼心に知っていた。

 だから否定され、拒絶され続けていた時間は意味を成さなかった。

 だから受け入れられたとき、生きている時間は意味を成した。

 認められなければいけない。縋っていなければ、存在できない。


 何を置いても、私の全てをあの人に捧げる。

 あの人以外は何の価値もないのだから。

 私自身さえも、価値はないのだから。


 世界は、時間は、あの人の為だけにあって。

 私はあの人の為だけにある。


 それが、私が私である為のたった一つの意味。


 誰にも邪魔はできない。否定できない。

 未来の見えないその場所で、私の存在意義はまるで霧がかっている。


◇◆◇


「ねえ、先生? 私ね、クリムの弟って人に会ったわ」


 暗い、暗い部屋の中。奥行もわからないほどの闇に、ともすれば自身の姿さえ確認することも難しい。

 その中でモネの声が嬉しそうに語られる。

 桃色の長い髪を黒のリボンでツインテールにし、黒のフリルがふんだんに盛り込まれた髪と同色のワンピースというお気に入りの恰好。

 あまりの暗さにその恰好を確認できないが、お馴染みの姿は何度も鏡で認識しているので、すでに己の脳裏に焼き付いている。

 眼差しが向けられる先に人影を確認することは出来ないが、確かに存在だけは感じられる。だから見えていなくてもモネは気にせず話し続ける。

 どんなことを差し置いても、この時間が一番の幸せだから。


「意外とかっこよかったわ。気に入っちゃった! だからね、アガサスと一緒にクリムも連れてきてもいいかしら?」


 くすくす、と見えない相手に微笑みながらモネは一際甘えた声を出した。

 先日出会ったフラマという少年に、本来の目的よりも思わず興味を持ってしまったのは事実だ。つり目がちな目元に端正な顔立ちが脳裏に浮かぶ。頬に口づけた瞬間、しかめっ面が驚きに変わった様はなんとも見ものだった。

 ふと、奥の方で微かな息遣いが聞こえる。


「……いいよ、モネ。君の好きにするといい。その代り……わかっているね?」


 低く落ち着いた声に、モネは聞き入る。たったそれだけの言葉でも、声が向けられていることに心が満たされ、悦に浸れるのだ。


「ありがとうございます! 必ず、連れてきますわ。……全ては先生の為に」


 モネは目を細めて自身の指に嵌められている指輪をそっと撫でる。

 暗闇の中、指輪についている大きな赤い石だけが妖しく輝いていた。

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