第二十九話 鳥とボートと湖と


 目の前に広がるのは対岸が確認出来ないほどの大きな湖である。太陽の光が水面に反射し、きらきらと光を放つ。湖の周囲は木々に囲まれており、テルマの街から馬車と徒歩で二時間弱。途中の街道までは馬車で送ってもらえたが、湖に続く道のりは整備されたものではないので徒歩で行くしかなかった。


「うーん……思っていたよりもずっと大きいね」


 壮大な眺めに目を細め、イリスは感嘆の声を上げる。共にいるフラマやヴァンも同じように頷いたのだが、ヴァンだけがすぐに不満そうな表情を作った。

 その様子を見てフラマはため息をつく。


「いつまでむくれてるんだよ、ヴァン」

「むくれてなんて、いません」


 そう反論しながらもその表情と声から読み取ることは容易い。隠すことが苦手なところはまだまだ子どもなのだと思い知らされる。


「あはは。まだ拗ねてるの、ヴァン。ごめんね、次は置いて行かないよ」


 夜遅く街に繰り出したとき、ぐっすりと就寝中のヴァンを宿に残した。その間にアガサスとのやり取りがあり、次に宿に戻ってきたのは夜も更けに更けきった時間帯である。

 すっかり疲れきってしまった二人だが、宿に帰ると部屋の前でいじけたように立ち尽くしているヴァンの姿があった。

 どうやらアガサスが引き起こした騒ぎのせいで目が覚めたらしく、どこにもフラマとイリスの姿が見当たらないことに置いて行かれたと気づいたらしい。

 宥めるように状況を説明し、とりあえず就寝したのだが、朝になってもヴァンの機嫌は良くなっていなかった。


「だって、置いて行かれたのかと思ったんです……」


 口を尖らせて呟くヴァンの頭をイリスは優しく撫でてやる。彼が言う『置いて行かれた』とは、旅自体のことを指しているのだろう。そんなつもりは二人に端からないのだが、どうしても不安が募ってしまい、落ち込んでしまっていたのが手に取るようにわかった。


「安心しろ、ヴァンを置いて行ったりしないさ」

「……本当ですか?」

「ああ、約束する。だからいつまでもそんな顔するなよ」


 困ったように笑うフラマにヴァンも同じように笑いながら頷いた。ヴァン自身も自分の態度が子ども染みていると頭では理解していたのだが、どうしても隠すことが出来なかったのだ。

 そんな光景が微笑ましくて、イリスも自然と優しく微笑む。

 その時、甲高い鳥の鳴き声と羽音が周囲に響いた。

 驚いて見上げると一羽の大きな鳥がこちらにやってき、降り立った。見たこともない赤茶色の鳥で、灰色の瞳はあのアガサスを連想させる。小柄なヴァンよりもさらに一回り小さくしたような大きさだが、鳥の中ではかなり大きい方だろう。

 三人の前に降りた鳥は一鳴きして首を下げ、嘴を己の足元に向けた。そこには一つの文が括りつけられている。

 イリスがその文を取り広げると、少ない文が書かれている。その文字は薄っすらと輝いていた。それに驚きながらもその一文を口に出して読む。


「『ここから少し先にボートがあるから、それに乗っておいで。その子が案内してくれるよ。』……だって」

「その子って、この鳥のことですかね?」


 ヴァンが恐る恐る大きな鳥に触ろうとしたところで、再び一鳴きされ飛び立ってしまった。同時にイリスの手にある紙の文字も輝きを強くして消えてしまった。残ったのは白紙だけである。


「……え、今のなんですか?」


 鳥の鳴き声にも、文字が消えたことにも驚いてヴァンは慌てた。フラマは鳥の行先を確認したあと、平然としているイリスに説明を求めるような目を向ける。


「まあ、察してはいると思うけど……これも魔法の一種だよ。戦争があった時代に情報が漏れないよう使われていたものらしいよ。あのアガサスって人、相当器用だよね」


 証拠を残さず連絡を取るために使用されていた魔法である。目的の人物が文字を読み取るとその文字が消滅してしまうのだが、これはとても難しい。戦時ならまだしも、現代において使える人も、実際に使用している人も限られてくる。


「魔法って凄いんですね」


 そんな感想を漏らすヴァンにイリスは曖昧に笑った。確かに凄いが誰にでも出来ることではないのだ。


「とりあえず、そのボートだな。あっちに行けばいいってことなのか」


 文に書かれていたボートは見える範囲にはない。ということは少し湖の周りを歩く必要があるのだろう。フラマは鳥が飛んで行った方角を見つめた。

 そして暫く湖に沿って歩いているとボートが端に浮かんでいるのを見つけた。

 それは三人がギリギリ乗れるぐらいの小さな古いボートで、これに乗るのかと思うと少し躊躇ってしまう。しかし上空にいた先ほどの鳥がボートの端に止まり、まるで催促するかのように一鳴きされると渋々乗り込むしかなかった。


「本当に器用だよね」


 自動で進むボートに乗りながらイリスは感心する。

 ボートは三人が乗るのを見計らったように、勝手に動き出したのだ。

 これは遠くのものを近くに動かすという基礎魔法を応用したものだとイリスは推測するのだが、フラマはそれがどういう仕組みなのか確認するのも面倒なので口にはしなかった。

 ボートの先端には相変わらず大きな鳥が止まったままである。

 結構なスピードで動いているのだが、鳥は微動だにしなかった。

 湖を真っ直ぐ進んでいるとやがて岸が見えてきた。振り返ってみてもやはり対岸を確認することは出来ない。

 岸の前でボートは静かに停止し、先端に止まっていた鳥も羽ばたいて前方に広がる木々の中に消えていった。


「……これはこの先に行けってことだよね」

「まあ、そうだな」


 木々は鬱蒼としており、先を隠している。美しいはずの湖も心なしか怪しく見えてしまうものだ。


「……行くしかないか」


 決して乗り気にはなれないが他に選択もないので鳥が羽ばたいていった方へと歩みを進めた。

 道が分からない木々の中を、どこまで行けばいいのかと不安になる前に目的の場所が見えてきた。

 ぽっかりと拓けた場所に古びた建物がある。何かの施設だったであろう形をしているが、その壁には蔓が這うよに伸びており怪しい雰囲気が漂っていた。


「なんか出てきそうだね……」

「そうだな。そういえばこの辺りに戦時中の施設があるとか言っていたけど、これのことか?」


 イリスは建物を見上げて顔を曇らせる。

 ジャックやマリーにアガサスとのやり取りを話したあと、湖の周辺には廃墟になってしまった建物がいくつかあると教えてくれた。ほとんどが戦時中のもので、終戦後放置されたままなのだと言う。以前は一昔前の建物を確認し、事によっては国で管理しようと調査員が足を運んでいたこともあったらしい。しかし特別重要性がないと判断され、後回しとなり現在まで放置される始末である。


「価値のない廃墟を訪れる物好きはいないって言ってたよね……でも絶好の隠れ蓑にはなるんじゃないのかなあ」

「その辺の事には興味なさそうだったな」


 研究者の大半が己の研究内容に関わること以外に興味をほとんど抱かない。

 実際ジャックなんかはそうだ。出会ったときもほとんど興味を示さなかった。逆にマリーのように親しげにしてくる方が珍しいのだ。

 研究者のそういう性質のせいか、盗まれた研究資料については躍起になっていたがアガサスの居場所については今一な反応だったのだ。

 アガサスに『取りに来たら返す』と言われたことを伝えると快く見送られ、フラマとイリスは少し複雑な気持ちになった。


「さてと、中はどうなっているのか」


 フラマが錆び付いた扉を押すと嫌な音をたてて開いた。

 入り口付近は窓から射し込む光以外なく、薄暗い。

 慎重に奥へ進むと燭台が灯されており、建物の構造が分かるぐらいに明るくなっている。

 真っ直ぐに奥へと続く廊下と左右の壁には扉が二つずつある。

 手近な部屋に入るべきか奥に進むべきか悩んだところで、奥の方から一際明るい光が数回点滅した。

 不思議に思い三人はとりあえず奥に進むことにする。

 予想以上に長い通路を歩き、突き当たりまで来た。大きな扉は開かれており、部屋の中からまた光が点滅する。

 そのまま中に入るとだだっ広い部屋の中央に大きなテーブルといくつかの椅子があった。

 そしていくつかある椅子の一つにアガサスが座っていた。

 テーブルには沢山の紙を広げ、その手には紙とペンを持っている。

 周囲には小さな光の玉が四つ浮いており、時折点滅をしていた。


「やあ、待っていたよ。ちょうど僕の作業も一段落ついたところなんだ」


 扉の前で立つ三人を見てアガサスは笑顔で出迎えた。


「盗んだもの、返してもらいますよ」

「だから借りただけだって。資料はここにあるからお好きどうぞ。それよりもっと違う話がしたいんじゃない?」


 テーブルの端に積み重なっている紙の束がある。それが研究資料なのだろう。

 目的の一つはそれで間違いないのだが、もう一つの目的を果たすために話をする必要があった。


「立ち話もなんだし、ここに座ってゆっくり話そうよ。まあ、なんのおもてなしも出来ないけどね」


 そう言ってアガサスはテーブルの前にある椅子を勧めた。

 その言葉に逆らう理由もないので、大人しく腰かけると、アガサスは満足そうに頷くのだった。


「じゃあ何から話そうか」


 広い空間に嬉々とした声が広がった。

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