其の六 異形の右腕
それは膨張と収縮を繰り返す存在。ぐちゃぐちゃとした不快であり、どこか冒涜的な音を鳴らす形の定まらい夢をみた結果なのか、何度でも黄泉帰るようになった俺は、数回の死闘を繰り広げても疲れを感じていなかった。まあ、あれだ。どれだけ肉体的な疲労を感じづらくなっていようとも精神は別なのだ。最初の死の前と比べて感情が希薄になっているとはいえ、俺は俺自身のままである。
「だから休憩したい」
「また? ……仕方ないわね。分かったわ」
片方の眉をあげたリリスに息を吐かれてしまったが、俺が座り込んだところを狙うようにアルラウネが近寄ってくる。軽く押すように人差し指で撫でてやり、左肩に乗せる俺をみたリリスが呆れ返っていた。何かまた、アルラウネがいったのだろう。ほんの少し仰け反るような姿勢を取ったあとに鼻で笑ったリリスは、カバンからコップを取り出して河の水を掬って寄越してくれた。礼のひと言を口にして飲み干す。ひどく喉が渇いていたから、とても美味く感じる。赤紫にはもう慣れた。コップを地に置きながらリリスを見上げる。微笑みか。
「もうちょっと休みたい」
「体力的には大丈夫なんでしょ? あんまり進んでないわよ」
「そうはいってもな。戦うってのは疲れる」
俺が相手をしたキラーマンティスは全部で二十三体だ。たった一体を相手するので精一杯の俺には荷が勝ちすぎている。辛勝が続いているのだ。リリスが間引きをしてくれていなければ、簡単に殺されていたのだろう。身体が再生して傷を治したり、黄泉帰ったりしていなければ勝てる道理もなく、戦術すらもない。ただひたすら自爆特攻である。元は一般人だからな。戦闘技術なんて学んでいないのだ。せいぜい殴り合いのケンカぐらいの経験者。それでも、辛うじて戦いと呼べているのは異形の右腕の存在だろう。
「役に立っているようでなによりね」
「助かってはいる。まだまだ慣れたとはいえんがな」
左手で頭をかきながら右手を眼前にやる。ゆっくりと開き、握り締める。自在に動く右腕の掌の内側は柔く、手の甲は強固だ。だからこそ固めた拳で殴ることにしていたわけだが……。
「その爪で刺しちゃえば早いのに。引っ掻くのでもいいわよ」
「そりゃまあ。分かってはいるが……こう、感触がありそうでな」
いくら鈍い触感とはいえ、自分から抉りたいとは思わない。音がな。ものすごく生々しいうえに、精神的にくるものがある。異世界に慣れつつはあっても、戦闘に対応できるようになってきても、まだまだ殺戮に慣れてはいない。
「別にいいんじゃない? 慣れなくても、あたしが守るわ」
「俺が納得できないからな。リリスが強いのは知っているし、理解している。それでもな。背中を守れるぐらいの相方にはなりたいのさ」
「そう」
リリスが眼を逸らし、アルラウネが俺の頬を突く。和やかな風がリリスの髪を靡かせるなか、俺の右腕が疼きはじめた。右腕のなかの筋をひとつひとつ掻くような刺激が走り、水がこぼれているコップが視界に入った。左頬がざらつく……そうか。俺は今、倒れているのか。
「シュウ? シュウ!」
音が聞こえる。あの夢の音が……耳朶を、脳髄を殴りつける音が────。
「────リリ、ス」
「シュウ? ねぇ、シュウ。あたしが分かる?」
後頭部にある柔らかな感触と俺を見下ろすリリスがいた。鎖骨に乗っているのはアルラウネか。どうやら、また死んだようだが……リリスの様子がおかしい。
「リリス。俺は死んだはずだが」
「ちょっと違ったの。落ち着いて聞いてね。右腕がシュウを殴りつけて、心臓を貫いたの。あたしにも何だか分からなくって」
「あ? ……どうなってるやがる? リリスが造った右腕だろうが」
「そうなんだけど……そうじゃない状態になっているのよ」
ますます意味が分からない。濃い褐色の右腕を脈打つ血管のような線が緑色に変化していた。肩当て、肘当てのようなモノが付き、手の甲には緑の瞳があるのだ。何なんだ、いったい。手の甲を顔に寄せると、一度だけ瞬きをして閉じてしまう。左手で叩いても反応しない。確かに今、目があったよな? 想定外にも程があるだろうが。起き上がった俺をみるリリスが涙を落とした。そうか、心配をさせていたようだ。
「どうにかなるさ。まだ死んじゃいない」
「バカ……死んでたのよ、シュウは」
「そういや、そうか。……まあ、あれだ。死亡じゃない。黄泉帰ったわけだからな」
「もう」
「少し休んだら、先を急ごう」
「分かったわ。本当に大丈夫そうなのね? 信じるわよ」
「悪魔だろ? そう簡単に信じるなよ」
「悪魔でも下僕なのよ。シュウは信じるの。そう決めたのよ、あたしは」
思わず苦笑する。盲目的とまではいかないが、俺を注意深く観察したリリスは満足気に頷いてみせた。こんな状況と状態だ。信じるといわれて嬉しくないわけがない。少し強引だが、リリスを抱き寄せた。程好い温もり。か細い声で名を呼ぶリリスを強く抱く。抱き返してくれたリリスの体温を感じていたら、アルラウネに嫉妬されてしまった。リリスが笑う。転げ落とされたうえに仲間外れはイヤだってと。
「すまんかった。お前も抱いてやろうか」
「アルラウネを抱き締めたら死んじゃうわよ。握り潰すつもり? シュウの力ね、強くなってるわよ」
「マジか。……マジでか。また、いちから慣れる作業か」
「マジよ。頑張ってね。これでまた一歩、死亡から遠くなったわけね」
「楽しそうにいいやがって」
一緒にいられるからね。微笑むリリスに目を奪われた。左足に絡めて登ってくるアルラウネを忘れたわけじゃないんだ。いくらなだめてみても、頬を突くから困る。リリスはリリスで笑っているしね。そんな雰囲気をぶち壊す魔獣に呆れてしまった。魚臭い顔と胴体に生やした短足、えっちらおっちらと口ずさむ、じゃない、鳴きながら歩く秋刀魚に似た魔獣が三匹か。今日の昼食もこいつらだな。
「ちょうどいいわね。シュウ? 食事にするからね、殺ってみて?」
「俺が? まあ、試してみる……かっ」
────ぐちゃ。
「潰れたわね」
「潰れたな」
先頭の一匹を右手で掴んだだけなのだが。えらく簡単に握り潰してしまった。これはまずい。かなり練習しないといけないな。
「残りはあたしが殺っておくから、シュウはアルラウネと遊んでなさい」
「すまん、リリス。アルラウネも頼むわ。これじゃあ、アルラウネも潰しかねん」
「それもそうか。分かったわ。任せて」
「ありがとう。助かるよ」
周囲に眼をやり、手頃な樹木でも物色しよう。右手で抉るように倒木して左手で掴む。リリスのいう通り、身体能力があがっていた。右手はもちろんのこと、左手で担ぎ上げた木が軽い。感覚的には摘まみ上げだ。下手にアルラウネを触ると傷つく可能性が高くなったな。
「ねぇ、シュウ。この魔獣の名前は?」
「秋刀魚だ。それでいいだろ」
「分かったわ、『サンマダ』ね」
あれ? ちょっと違うぞ、リリス……まあ、いいか。俺らの世界と区別できる。それならあれは『マグロダ』にしておこう。昼は二種類だな。魚類は全部に『ダ』をつけておけば分かりやすいか。物事は単純、シンプルなほうがいい。サンマダにマグロダね。
「お? 危ないから近寄るなよ」
アルラウネに注意を促しても離れていかない。リリスを呼ぼうかと少しだけ悩んだが、料理をしてくれているのだ。あんまり邪魔するわけにもいかないだろう。右手に乗るように差し出せば、震えながら慎重に乗ってくる姿が可笑しかった。そのまま左肩に移動させようかと思ったけれど、今から動くわけだからと頭に乗せてみる。俺を呼びにきたリリスの反応が楽しみになってきたな。笑うか、驚くか。それとも呆れ返るのかね。今の俺は白髪のうえに蒼い華を咲かせてるわけだ。俺なら近寄らない。
「とんでもない変態だわな。コートしか着てないし」
「ちょっとシュウ。何をひとりでぶつぶつ……なにそれ?」
「咲かせてみた」
「呆れた。意外と似合ってるわよ。焼き終わったからね」
納得いかんなあ。そうやって流すから、しょうもないことをしたくなるんだけどね。アルラウネにお願いして、俺の頭のうえで揺れてもらおう。リリスが吹き出したら、醤油を多めに分けてやる。この合図は了解か。茎で二回、頭を叩いてきた。
「なあ、アルラウネ。はいなら一回。いいえは二回だ。それ以外は三回だ。いいか? 頼んだぞ」
強めの一回だな。これは頼りになる。リリスの背後からにじり寄ってみるとすぐに振り向かれた。揺れる俺とアルラウネをみたリリスに白い目で睨まれてしまったね。男がバカやると、女性の反応は大概がこうだな。呆れて物も言えん。そんな顔だ。
「まったく、その通りね」
「盛大に頷かれてしまった。この作戦は失敗だ。すまないな、アルラウネ。醤油はなしだ」
二回、二回、二回。強めの『いいえ』がきたわけだが、失敗は失敗だから諦めろ。あんまり痛くないけど、うっとうしい。そんなに叩かれたらどっちか分からなくなるぞ。
「はいはい。今回はシュウが悪いわ。分けてあげなさい」
「マジか……了解、分けるよ。あ、リリス。今の俺は手加減ができん。醤油のボトルから適当に分けてあげてくれ」
「分かったわ。うまくいってないの?」
「いや、途中でアルラウネが来たから練習になってない」
「もう。ダメじゃないの。邪魔したら」
項垂れるアルラウネが可愛い。
「まあ、そんなに怒るな」
「シュウもシュウよ。なんで、きちんと注意させないの」
「あ、うん。悪い」
「だいたいシュウは────」
こら、アルラウネ。お前も巻き添えだ。こっそり食べようとしてんじゃ────え、あ、はい。もちろん。聴いておりますとも。ええ。
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