第一章 黄泉帰る男

其の参 麗らかな異世界

 いやあ、実にいい天気だな。肌に粘りつく湿気、地上に押しつけるような暑さ、灰褐色の大地が視界に飛び込んできた。異世界はこうでなくっちゃ────なんていえるわけがねぇ。


「なに項垂れてんの? 気持ちいい天気じゃない」


 視界の左側で踊る草花は墨色で、俺の身長を軽く越えており、茎や根を手足のように動かしている。視界の右側にある巨大な木々は重低音を吐きながら蠢き、数十メートルはあるのだろうか。森林の基調となるはずの緑はどこにも見当たらない。黒ずんだ紫色をしている木々の先に、大地を割る河らしきものが遠目にみえた。それが赤紫色だがなっ。


 あゝ。雲ひとつない大空は碧く、照りつける朱色の太陽が禍々しい、耳朶じだをうつのは羽音ばかりである。


 ────俺が思っていた異世界と違う。


「なあ、リリス。ここは魔界だろ? もっと普通なとこに転移してくれ」

「なにをいってるの? ここがそうよ。比較的まともな場所なの」

「マジか。……マジでか。本気で勘弁してくれよ」


 俺らの世界にも現れていた魔獣が、こちらの世界ではポピュラーなのだろうか。あの羽音だけは区別できるほどに殺られたからな。覚えているぞ。ギチギチと鳴らしながら現れたのは背後だっ────。


「また死んだわね。段々と生き返るのが早くなってない?」

「俺に訊かれても分からんよ。視界がブチッと切れる感覚だからな。気づいたら元に戻ってる」

「そして全裸なのね。コートが無事なのが救いかしら?」

「お? マジか、ラッキー」


 コートを着ながらリリスに訊いてみたら、首を切り飛ばされていたらしい。その一瞬の隙を突いたリリスが倒したようだ。できれば殺される前に助けて欲しかったな。あと、魔獣の腹部を引き裂きながら話さないでくれ。黄泉帰ったことより、具合が悪くなりそうな光景だからな。


「それにしても、不思議よね。なんで死なないのかしら?」

「俺が訊きたいわ。首を飛ばされても死なないとはね……いったい、どうやったら死ぬんだか」

「さあ? 一応、頭を踏み潰して心臓を抉り出してみたの。もちろん、握り潰したわ。でも、無駄だったのよ」

「話し合おう。今すぐにだ」

「ちょっと汚れたわね。さ、シュウ。行きましょう」


 確かに、俺の目的はにあるが、実験動物のような扱いを笑って許すほど寛容じゃないぞ。俺の抗議をさらりと無視したリリスが首を傾げ、怖いことを教えてくれた。黄泉帰るさい、俺の肉体はになり、徐々にされていったのだという。リリスでさえ、そのような状態に類似した生命体を知らないといい、とても面白そうに笑われた。遺憾である。


「頼むから、俺で実験なんてしないでくれよ」

「失礼ね。そんな楽しそうなことしないわよ。それよりも、そろそろ河に着くから水浴びしない? あたし、汗かいちゃったの」

「ほんと、楽しそうだなあ。あの河か? あれが河なのか? 赤紫色の河なんて初めてみたぞ」

「そういえば、シュウの世界の水は透明なのよね。こっちでは、あれがのよ」


 まるで異世界だな……いや、異世界だったな。本当に常識が噛み合わない。リリスと話し合わないとまずいだろうなあ。こちらの常識がひとつも役立たない可能性さえ出てきた。デパートで手に入れた物を詰めたカバンを持ってくれているリリスには悪いが、その中にあるバスタオルを出してもらい、水浴びを……河と睨めっこでもしてようか。


「はい。それじゃ脱いでみて」

「なにいってんだ? 入るのは俺じゃなくてリリスだろ」

「一緒に入るわよ。肉体に不具合がないのか。いろいろとみてみたいの」

「不具合って、リリス。不安感を煽るなあ」


 手際よく脱ぎ捨てたリリスが近場にいた草花に声をかけている。どうやら荷物の見張りを頼んでいるらしい。そのなかでも目立つのがだ。音を発する器官がないのか、頭上のような大輪を上下させている。満面の笑みで「これでいいわね。すぐに頷いてくれてよかったわ。そうじゃなきゃ、殺すところだったもの」とかいうリリスが河に飛び込んでいく。割と物騒だが、大輪を俺に向ける蒼い花に声でもかけたほうがいいのかね。


「すまんが、俺のも頼む。なにかお礼したほうがいいのか」


 仰け反るような動きをみせたあと、大輪を激しく上下に動かすことから喜んでいると思っておこう。あとで、リリスに提案しておくが、俺の言葉も理解しているようだな。不思議なもんだ。リリスの言葉はだと思うが、俺のはだぞ。先程のリリスの言葉はとしか分からないのに、俺の言葉も同じように聞こえているのかね? 本当にリリスに訊きたいことが山ほど出てくるから困る。


「なにをやってるのよ。早く入りましょう」

「はいはい。分かったよ」


 コートを脱いで畳み、慎重に河の水をすくう。やはり赤紫色をしており、これといった匂いはない。味わいは深く、かつての記憶にある、湧き水の美味しさを思い出した。まったくもって納得ができない。とても遺憾である。


「どう? 美味しいでしょ?」

「自慢気な顔が腹立つ。美味いな、この河」

「気に入ってくれてよかったわ。ちょっと心配だったもの」

「まったく。……本当に助かってる。感謝しているさ、リリスにはな」

「あら? 嬉しいこといってくれるじゃない」

「話はかわるが、俺の扱いに関しては納得してない。ちょっと話し合おうじゃないか」


 瞬きをしたリリスが水飛沫みずしぶきをあげて河のなかに潜ってしまった。さらりと無視された俺はどうしたらいいんですかね? 赤紫の河は広い。大河と呼んでもいいのかもしれないなあ。俺の足を避ける魚が、さかな? 魚だな。人面魚ってやつか。そうかここも異世界だったな。他の魚は……両足が生えた魚に頭痛がする。こいつ、歩くんですかねぇ。


「その魔獣も美味しいわよ」

「おまっ、これも食べる魔獣か。魚類に分類したくないんだが」

でしょ? 安心して。から。ほら、噂をすればね」


 ハッとさせられ見上げた空に、蛇のような胴体に四対の羽を生やし、二本の鋭い鉤爪がある足をもった化け物が旋回していた。俺が知っている魚類じゃない。鶏のような顔についた嘴から不快な鳴き声をあげて河へ舞い降りる。獲物であろう人面魚を掴み、飛び去っていくさまは鷹などの猛禽類を想起させた。俺自身の息を呑む音が聞こえる。マジに異世界だ。


「なに驚いてるの。シュウからしたら異世界だっていったじゃない」

「リリス、お前なあ。これが驚かずにいられるか」

「ついでにいうと、あれが魚類で魔獣じゃないから気をつけてね。言葉を理解する知性があるから、魔獣なんていったら怒りだすわ」

「マジか。マジでか」

「マジ? 確か本当よね。覚えたわ。それじゃ、肉体の確認ね」


 どこか自慢気な顔をしたリリスが俺の身体を触りまくる。不具合とやらはないそうだ。入念に右肩を調べていたから俺は不安だったよ。河からあがったリリスはバスタオルを手にしたまま、蒼い花と話し合っている。リリスが驚いた声をあげているが、適当に身体を拭いてからコートを羽織ろう。ワークブーツは死んだからなあ。このコートが一張羅いっちょうらになるのかね。なんだか物悲しい気分になるわ。


「おい、リリス。俺にもバスタオルをくれよ」

「ちょっとシュウ。このになんていったの? 一緒に連れて行って欲しいとかいってるわよ」

「おい待て。意味が分からん。どうしてそうなった?」


 この蒼い花は『』という種族になるらしく、俺がお礼をするといった言葉が嬉しかったようだ。リリスがどう説得しても大輪を左右に振る。殺すと脅しても態度が変わらない蒼い花に負けたのか、リリスが深い息を吐いて頷いたあと、注意事項を押しつける母親のように口煩い。またしても、蒼い花の大輪が左右に振られている。お前も同じ気持ちなのかね。


「────だからいってるじゃないっ。あたしのいうことを聞きなさい!」

「それぐらいでいいだろ? ケンカすんな。お前も分かったか? できる限り、リリスの言葉には従え。それが連れて行く条件だ」

「ほらみなさい。あたしが正しいのよ」


 リリスが胸を張ると、蒼い花が大輪を下げる。それは項垂れているのかね。


「リリスもだ。頭ごなしの命令だけじゃなくて、理解し合う姿勢のある言葉を使え。それがなければ反感を買うだけだろ」

「ちょっとシュウ? 反省しろってこと?」

「その通りだ」


 大輪が激しく上下に動いている。また、器用なことで。茎を動かして真似ている姿はリリスだろう。先程と逆の立場になったからか、機嫌を悪くしたリリスが雑に服を着始めた。なだめないといけないな。こういうときは、同じ飯を食うのが手っ取り早いんだが、その食い物がなあ。


「ちょっとシュウ? この妖精、ファサファサして煩いんだけど、殺してもいいわよね」

「やめとけ。無意味すぎる。ただの八つ当たりになるだろうが。それよりさ。インスタントだがラーメンがあるんだ。食べてみたくないか?」

「え? いんすたんとだがらーめん? ……確か、そっちの世界でいう、即席の麺料理のことよね? 食べてみたいわ」

「なら準備するから、適当に仲良くしててくれ」

「こいつと? ────残念でしたあ。あんたが食べれるような物じゃないのよ。どう? 羨ましいでしょ」


 実は仲良いだろ、こいつら。楽しそうにケンカしている二人は放置して、身体を拭いてコートを着よう。そんで、アウトドア用の電気コンロで水を沸騰させ、させて……デパートに水は無かったからなあ。物色で手に入れたのは粉末のタイプばかりで、飲料水ぐらいはこっちの世界でと考えた俺が甘かったわけだ。こればかりは仕方がない。ちょっと勇気がいるが、河の水を使おう。見た目はアレだけど味はいいから大丈夫だ。もしかして、お湯にしたら味が変化するとかいわないよな。本気で頼むぞ。袋のラーメンを作るだけでこんなに不安になるとは考えてなかったなあ。この先もある。挑戦しないわけにはいかない。きっと大丈夫だ。俺を信じろ。河を信じるんだっ。


 ────お湯だっ!


「おう、リリス。その辺にして食べるぞ。出来上がったからな」


 まあ、味見では旨い。お湯に感動させられる日がくるとは思ってなかったぞ。見た目が濃い紫色じゃなければ何の心配もないが、不安を煽る色彩にためらう必要のないリリスなら大丈夫だろう。こっちじゃ飲料水になるからな。こんなお湯が普通なんだろうよ。


「ね。シュウ。あたし、そのハシ? 使えないんだけど?」

「なら、フォークは?」

「それなら大丈夫ね。では、いただくわ……なによ? 汁だけでも? やるわけないでしょ。これはあたしのよ」

「こいつに、かけりゃあいいのか? 汁を」


 めちゃくちゃ喜んでる。振り回す大輪がうるさい。そういえば、どうやれば一緒に行けるんだ? その踊る根っこで歩くんですかねぇ。もはや、なんでもアリだな。この世界。


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