魔王・イン・ザ・コンテスト後編

 例えばの話。


 その日が彼らにとって、何か特別な日であったというわけでははない。


 いつも通りに外は厳粛たる冬の空気に満ちており、いつも通りぴんと乾いた寒気が、道行く人を駆り立てている。最近では、ロシア方面から南下してきた特大の寒波によって、各地に例外的な大雪が降ったりもした。


 そんないつもと変わらぬ平凡な日常の中で、唯一いつもと違う点があったとすれば、本日はかねてから入念に準備を進めてきた、ある企画の開催日であるということだ。他のメンバーはいざ知らず、少なくとも歩美にとって、今日という日は間違いなく特別な一日だった。


 第一回、都内カフェコンテスト。


 元々、これは歩美の提案した企画だった。


 昨今では書籍などによる『飯テロ』という言葉が流行っており、美味しい食べ物への需要が高まる一方で、長引く不況のせいか外食率が落ちている。今回の企画はそういった背景の元に、顧客を増やしたい飲食店と経済を活気づかせたい行政の利害が一致した結果のイベントだ。コンセプトは『ようこそ。あなたを待つもう一つの「我が家」へ』。


 都内の各地域で、それぞれの街にあるちょっとした非日常を演出できる店を紹介していく。この場合の『非日常』というのは、何も大げさなものではない。


 たとえば、誰でも家で焼けるパンケーキを、ふんわり、分厚く丁寧に焼き上げたり。


 たとえば、インスタントであればお湯を注いですぐ飲めるコーヒーを、あえて豆の焙煎から初めて、じっくりと丹念に抽出してゆく。


 そうやって丁寧に手のかけられた食べ物や飲み物は、手早く自宅で作るものとは違い、本当に『嗜好品』としての価値がある。


 疲れた時に、あるいは少し気分転換をしたい時に。いつもとは違う空間で、ちょっとした贅沢をしてみませんか?


 そんなキャッチフレーズとともに、発案されたイベント。数々のプロジェクトを押しのけ、彼女の企画が採用されたのは、まさしく奇跡だった。本当に、夢のように嬉しかった。 


 昔から食べ歩きが趣味で、同じぐらい作ることにも興味があった。そういった知識面も評価されたのかもしれない。メンバーの中では若手の、しかも女性であるにも関わらず、今回の企画ではなんとチーフに抜擢された。


 絶対に、絶対に、成功させなきゃ。


 口にこそ出しはしないものの、それは参加者全員の総意だろう。しかし、歩美のその思いは中でも人一倍強かった。


 とはいえ、一口に都内と言っても範囲は広い。正確には、土地そのものは全国の都道府県別にみても相当狭いが、その狭い土地にひしめき合っている人数は世界でも頂上決戦をできるレベルでぶっちぎりに多い。


 ゆえに、都内にはカフェに限らず飲食店がたくさんある。それはもう、本当にたくさん。そんな玉石混交と化した戦場の中で『真に価値のあるお店』を発掘し、世に広く紹介していくのが、今回の目的だ。せっかくの名店であれ、埋もれてしまっていては意味がないし勿体ない。経済を潤滑に動かすためにも、市場価値のある店舗には、もっと日の当たる場所にいて貰わなくては。


 予定としては、最低でも二三区ごとに一店舗は紹介できる店をピックアップするつもりだ。それとは別に高位成績者にはそれぞれ覇王、その下に四天王、更に十勇士の称号を贈る。出来れば継続もの企画として毎年、王位簒奪戦を繰り広げて欲しい。今日のイベントは、そのための第一歩なのだ。


 応募店舗数は二七三。最初にしては大盛況というべきか、もう少し頑張って欲しかったというべきか。ここからさらに、書類審査、筆記テスト(マークシート方式)、WEB面接を済ませ、無事潜り抜けたものだけが、今日の本選に参加出来る。その数、およそ五十人。


 いや、正確には四十九人とその他一名、というべきだろうか。


 ぜ、絶対に……絶対に、成功、させなきゃ……!


 歩美は汲めども尽きぬ泉の如く溢れかえる動揺を必死の思いで押し殺しながら、司会としての使命を果たすべく、マイクに向かって震える声を吐き出した。


「い、以上でエントリ―№41『カフェ・ド・ジェルボー』より田中大樹さんのご紹介を終わります。ありがとうございました。つ……次は、次はその……え、エントリー№42、ま……『真夜中カフェ(元)魔王』より、ま、ま、魔王陛下のご登場です」


 しまった。本来ならば名前にさん付けにしなければならないところを、ついうっかり威圧感に魂が敗北して陛下付けしてしまった。


 しかし無理もあるまい。その証拠に、歩美がその名を読み上げた瞬間、会場の空気がざわり、とざわめいた。


 比喩ではなく。


 本当に、空気がざわっと音を立ててざわめいた。


 誰が発したわけでもない。本来ならば常人にはけっして感じ取れぬ潮騒のごとき感情のさざ波を、だけど歩美はこの時、確かにはっきりと知覚していた。


 審査員や参加者のみならず、観客までもが一致団結し、水を打ったように静まり返る中で、そこに広がる動揺だけが、ただ静かに空気を震わせる。


 人と人は、たとえ言葉を交わさなくても心で理解しあえるものなんだ。人同士であれば、心で繋がれるものなんだ。


 そのことを生まれて初めて、痛烈に実感した瞬間だった。


 あるいはそれは歩美だけでなく。心によって繋がり合った、会場に居る全ての人類が共有していた感情かもしれないが。


 ――たった一人、いや一名の存在を除いては。


 そう、例えば。


 ――魔王とか。


 ざわり。


 宵闇のごとき艶やかな髪。そこからにゅっと伸びた、ぐるりと渦を巻く邪悪な角。血色を宿した瞳は、さながら研ぎ澄まされた刃の如く、怜悧な白貌は人知など到底及ばぬ完璧な造作を誇っている。それこそ、神の御業かあるいは悪魔の悪戯のように。人には到底辿り着くことの出来ぬ、断絶された美貌。


 人ではない魔王は、人の心を理解せぬがゆえに、周囲の動揺など気にも留めなかった。あるいは、それこそが王者の風格という奴なのかもしれない。並みいる出席者の中で、もう名前を呼ばれる前から明らかにダントツで異彩を放っていた彼(彼?)は、その呼び声に応えるように、すっと音もなく立ちあがった。


 さながら王のような貫禄で。玉座ではなく、ごく普通のパイプ椅子から、すっと音もなく立ち上がった。


 威風堂々。まさしく、その文字をそのまま体現するかの如くして。


 カツン、カツン、カツン、カツン――と。


 魔王が優雅に歩き出す。息を飲むような周囲の眼差しをものともせず、息の詰まるような会場の沈黙をものともせずに、ゆったりと、堂々と。規則的に響き渡るその足音は、さながら廷吏のノックの音にも聞こえた。


 誰もが沈黙してその一挙一動に釘付けとなる中、魔王本人はそんな視線などなにするものぞとばかりに、顔色一つ変えることなく所定の位置に来ると足を止めた。所定の位置――つまり、より具体的に言うならば、司会である歩美の真横まで来て、その足を止めた。それまでの参加者たちと同じように。


 本来であれば。


 本来であれば。ここで彼女が簡単な店舗紹介をして、ついでに一言二言参加者に話しかけたりして、参加者の緊張を軽くほぐした後で、審査員一同にメニューを振舞って貰う予定だった。本来であれば。そのために、舞台上にはキッチンも用意されている。冷蔵庫や水回りだけでなく、メニューによってはオーブンなども使うことを想定して、かなり本格的なものを準備した。しかしコンベクションオーブンの準備までは想定出来ても、出場者の中にリストに魔王陛下が紛れている可能性までは想定していなかった。想定なんか出来る筈もなかった!


 無論のこと、歩美とて素人ではない。この業界で働く以上、多少のイレギュラーには慣れっこである。どんなに入念に準備をしても、トラブルが起きるときは起きるものだし、それを慌てず丁寧に対処する先輩たちの姿も見てきた。だけど。


 けどこれはないだろう……!?


 命綱のようにぎゅっとマイクを握りしめて。歩美は胸中でこっそりと悲鳴を上げた。涙は堪えきった。嗚咽も我慢した。だけどやっぱりこれはない。


 うっかり都知事が見学に来るぐらいなら想定出来ても、うっかり魔王が参加してくる可能性なんて、夢の中ですら想像も出来なかった。そもそも、魔王が現世に実在するという可能性すら考えたこともなった。そんな現実は知りたくなかったし、そもそも知るつもりもなかった。


 知らなかった……知らなかったんだ! 世界がこんなに広いだなんて!


 しかし、未知の現実に遭遇したからと言って、ここでパニくるわけにはいかない。たとえ現実が如何に苦しかろうと、目の前に(正確には隣に)角の生えた魔王が立っていようと、絶対に逃げ出すわけにはいかない。自分はこの企画の立案者であり、チーフとしての初仕事でもあるのだ。


 ぜ……ぜ、絶対に、ぜったいに、成功、させなきゃ……!


 既に決意という段階を通り超えて、自己暗示のようになってきた言葉を繰り返すことで、なんとかギリギリ正気を保つ。まあ、正気うんぬんの話を言い出してしまうと、魔王の横で呑気にマイク片手に司会なんぞを務めているという状況を理性が受け入れている時点で、すでにとっくに正気を失っているんじゃないかという可能性もあるが。その辺を言い出してしまうと、現実と認識の狭間を永遠に迷う可能性があるので考えない。別に現実逃避とかじゃなく。


「え、ええっと……魔王さ……様。本日は、当コンテストにお越しくださり、誠にありがとうございま……まする」


 ナチュラルにさん付けで呼びかけようとしたところ、すんでのところで思い留まり様に変換した。


 イベントチーフとしてあらゆるイラギュラーは想定していても、人外の王にマイクを向ける可能性までは想定していなかったので、なにから語尾までおかしくなった。咄嗟に引き出せた参考資料が、某八代目将軍ドラマの江戸城における一幕だったのがまずかったかもしれない。不敬罪で魂を引き抜かれたりしないだろうか。


 不足の事態に備えてのトラブルシューティングはかなり積み重ねたつもりだが、所詮つもりでしかなかったらしい。少なくとも、会社で学んだマニュアル集に、魔王への接し方は書いてなかった。 


 別に歩美とて、マニュアル集を全て暗記しているわけではないけど、それだけは間違いなく断言出来る。絶対確実にどこにも書いてなかった。このイベントが無事終わったら、今後のために対魔王マニュアルを作っておこう。そうしよう。


 未来へと続く目標をたてた事により、目の前の死亡フラグを粉砕すると、歩美はあらん限りの勇気を振り絞って魔王に向き直った。もしも勇者というのが勇気ある者に授けられる称号だとするならば、この時の彼女は間違いなく勇者であった。


「ご…ご存知の通り、当コンテストでは各参加者さんに一品ずつ、お店の看板メニューを作っていただき、審査員の評価で順位を競うものです。味は勿論のこと、提供までの時間、作り方、盛り付けなどの総合的な部分も評価の対象となりますので、ご注意ください。なお、盛り付けなど料理の見た目とかは評価対象になりますが、参加者の種族等による外見での減点制度などはございませんので、その点に関しましてはどうぞご安心ください」


 当初の規定でそんな決まりはなかったが、大事なことなのでチーフ権限で付け足しておく。そもそも、これはカフェコンテストであり、人外差別を助長するものではない。魔王であっても人間であっても、その存在に貴賤はない。評価はあくまで公平に行われるべきであり、決して種族的な差別があってはならない。


 ……ならない、はずだ。多分。


「で、では! 魔王さ……様には、早速調理に入っていただきましょう! 制限時間は二十分。メニューは六人分。 メニューの種類は問いません。軽食でもデザートでも、飲み物でも結構です。それでは、よろしくお願い致します!」


 一世一代の勇気を振り絞って、それでも目を合わせる勇気だけはやっぱりなくて、目線をやや下方向、魔王の首元あたりに設定しながら告げる彼女に。


 魔王(元)は緊張の片鱗も伺えぬ落ち着き払った低音で、たった一言。鷹揚に頷いた。




「――よかろう」


 ***

 

~魔王カフェ特別メニュー~


 誰でも一度は憧れちゃう!自家製の厚切りローストビーフを、クレソンと一緒に贅沢にたっぷりとのせたオープンサンド!


 低温のオーブンでじっくり焼き上げたローストビーフの、蕩けるような柔らかさはまさに絶品! 焼きたてパンの上にお肉をどっさり乗せたなら、大きく口を開けて、そのままがぶりっ、と大胆にかぶりついちゃおう!


 口の中で蕩けるほどに柔らかな牛肉を、ふんだんに使いました。普段はもちろん、ちょっと気取った記念日にでも。お腹も心も満足させてくれるゴージャスな一品です。


~作り方~


 牛(件)の赤身、塊肉を用意する。ただし、この魔物は予知能力を持っているため、捕獲が非常に難しい。具体的なコツとして、定められた運命を覆す勢いでなんとかすると、意外となんとかなります。


 ローストビーフを作る際は、肉質だけでなくその形も重要。形や厚み、総グラム数によって、加熱時間が変わってくるため、肉はなるべく全体が均一の、厚みのものを選ぶこと。適度にサシが入っているとなお良い。その点でも件の肉ならオススメ! 彼の魔物は、その予知能力を駆使して、百年先まで自分の健康管理を行っているので、いつでも安心安全安定で、三つの嬉しい保証つき!


 肉に下味をつけず、代わりに表面に牛脂(あるいは豚の背脂)を塗りたくる。そうすることで、肉の表面から水分の蒸発を防ぎ、しっとりと焼きあがる。


 二、三時間常温に戻した肉を、一二〇℃のオーブンでじっくり、丁寧に焼き上げる。理想温度は、肉に鉄串を刺し、それを頬に触れさせたときに、やや熱いと感じるぐらい。具体的な数値で言えば六十度。ローストビーフに必要なのは肉との対話だ。けっしてここで手を抜かないこと!


 焼きあがった肉に塩をまぶしたら、さらにアルミホイルでくまなく包んで余熱で最後まで火を通す。こうしてじんわり時間をかけて熱を通すことで肉が硬くならず、ほぼ生に近いジューシーなお肉に仕上がります!


 自家製のグレービーソースをたっぷりかけて、焼きたてパンにのせたら、クレソンと一緒に召し上がれ!


 ***


「此度、余が用意したメニューはローストビーフのオープンサンドである」


 レンタルホールに響きわたる、迫力ある重低音。どっしりと腰にくるそれは、威厳に満ちているがしかし同時に酷く耳に良い。聞くだけで反射的に、魂が恭順を誓いそうになる魔性の声音。


 あるいは魔王ヴォイスには、それだけで耐魔能力のない人間を魅了する能力が備わっているのかもしれない。現に歩美は、腰砕けを通り越してもう跪きそうになる自分と必死に戦っていた。一方で、当の魔王はそんな人間の葛藤など露知らず、淡々と説明を続けている。


「すでに語るまでもない通り、ローストビーフの真髄とは即ち肉との対話である。単純に余熱したオーブンに放り込んで放置すれは、はい出来上がり、という簡単なものではない。時に天地を入れ替え、時に位置を替え、鉄串を刺して肉の中心部が常に人肌よりやや上を保つよう、細心の火加減で焼き付けた。最新ではなく細心の火加減であるゆえ、そのあたりは誤解なきよう細心の注意を払って貰いたい」


 深く低く――朗々たるそれは、唄のようにも聞こえた。冷徹な眼差しの中に、驚くほどの熱を込めて、王は語る。滔々と、自慢のメニューを。


「先に高熱で焼き目をつけると、急激な温度変化によって肉が硬くなってしまうため、まずは常温に戻し、次いで低温オーブンでじっくり焼き、全体の温度をじんわりとあげていったあと、最後に表面のみをさっと炙った。これにより、完全な生ではなく、しかし生肉が持つ特有の肉肉しさを失わぬ、という絶妙な焼き加減をキープ出来たと自負しておる。余をして、珠玉の逸品を言わざるを得ない出来栄えよ」


 言われてみるとなるほど、噛み切れるか否かというギリギリのラインで、それでも市販のローストビーフなど比較にならないほどの厚さにカットされた肉は、実に綺麗なピンク色をしていた。生とも生焼けとも違う、きちんと熱の通ったピンク色。


「また、通常であれば肉を焼く際に滴り落ちた油をソースに利用するものだが、あれには意外と大量のアクも含まれているため、余はあえて使わず、代わりに肉をカットした際に溢れる肉汁をベースにソースを作った。ソースは他にもハニーマスタードの二種類を用意したので、好きな方をかけて食べるがよい」


 色味の濃い木製のトレイに、バケットがのせられており、その間には溢れるほどにぎっしりと、魔王謹製ご自慢のローストビーフが挟まれている。丁寧に焼き上げた肉の綺麗なピンク色と、添えられたクレソンの緑。鮮やかな色の対比が目にも美しい。トレイの上にはそれだけでなく、小さなミルクピッチャーが二つのっており、それぞれに味の異なるソースが入っていた。ハニーマスタードとグレービーソース。どちらでもお好きな方をお好みで。


 一人前をシェアするのではなく、最初から半人前を十人前用意する。いうは易いが時間制限と衆人の注目が(そりゃあもう、あらゆる意味での注目が)ある中で、それだけの作業をするのは並ではない。だが同時に、最初から『半人前』として用意するのであれば、試食の際にも見た目を損なうことなく全員に配れる。


 規定上では反則ではない。人によっては確かに、小賢しい点数稼ぎと感じるものもいるかもしれないが。歩美はそうは思わなかった。その裏にあるのは、どこまでも食べる人の事を考えた、限りなく細やかな心遣いだ。


 評価点、プラス一。


 心の審査評にしっかりと書き加えて、歩美はさっそく目の前のサンドイッチに手を伸ばした。さんざん悩みまくった末、ソースはグレービーの方を選んだ。


 おままごとのように小さなピッチャーから、そっとソースをかける。確かに、一般的に見かけるグレービーソースとは違い、油分が少なくさらさらしていた。女性には好まれそうだが、反面、肉の力強さに負けないのかが心配だ。


 ぱくり。


(う、わ……!)


 美味しい。すごく美味しい。


 審査とか。評価とか。


 そんな小難しいことは一切関係なく、そんな小賢しいことは関係なく、まず真っ先に思い浮かんだ感想はそれだった。


 パンはシンプルなバケット。ハード系だが黒パンのように酸味はない。皮はパリパリなのに、中はふんわりしっとりと柔らかく、噛みしめるとそれだけで甘い小麦の味が口いっぱいに広がった。美味しい。


 すでにこのパンだけで十二分に美味しい。下手なパン屋さんよりも美味しいのではないだろうか? どこかから仕入れているのだろうか?大会が終わったら、是非教えて――ではなく、ご教示して頂こう。質問をお許し頂ければ、の話だが。


 そしてそのパンに負けず劣らず――いや、それ以上の力を持っていたのは肉だ。魔王謹製のローストビーフ。


 ジューシー。


 まさに、その一言に尽きる。


 口の中で肉が蕩ける。その言葉の意味を、歩美はこの時、身をもって初めて知った。


 比喩ではなく。


 本当に、噛むまでもなく千切れるほどに柔らかい肉というものを、彼女は生まれて初めて食べた。


 決して生ではない。しかし熱が通り切っているわけではない。低温でじっくりと焼き上げた肉だけが持つ、絶妙な柔らかさ。適度にサシの入った肉は、噛みしめるごとに、肉の旨みと肉汁と、それから脂がじんわりと滲んでくる。しかし、しつこさはまったくない。添えられたクレソンが肉の脂を程よく中和し、加えてそのほろ苦さがアクセントとなっている。


 驚くほど濃厚なグレービーソースも、しかし脂っこさはまるでない。味はぎゅっと濃縮されているが、あくまで上品に仕上がっている。カフェで出す品とは到底思えない。どこか、都内の一流のホテルで出されても、充分に納得出来る味だった。


 たった一口だけなのが惜しい。惜しまれて惜しまれて堪らない。せめてこの至福を精一杯に味わおうと、歩美は何度もゆっくりと咀嚼した。


 もぎゅっ、もぎゅっとよぉく噛む。筋がまるでない肉は、子供でも老人でも苦もなく噛み切れそうだ。


 あっと言う間になくなってしまったのが、本当に残念なほどに。


 他の審査員も、概ね同じ感想だったらしい。皆、うっとりと恍惚の色を浮かべている。それが魔王という人外の王が施す、なにやら人智を超えた呪いによるものなのか、単純に料理の腕前によるものなのかは知らないが。


 少なくとも、歩美にとってこの幸せの瞬間が、魔王の作る料理によってもたらされたことだけは間違いがなかった。だから、それでいい。


 既に料理の披露を終えた魔王は、戦場を統べる王の如き眼差しで、静かに会場を睥睨している。静かに、しかし隠しようもなく嬉しそうな眼差しで。切れ味抜群そうな深紅の瞳は、にやりと邪悪に歪んでおり、鋭い牙の覗く口元が、愉悦に弧を描いている。審査員一同の反応に、明らかにご機嫌麗しくなってるご様子だった。尻尾を振る犬よりも分かりやすい。立ち昇る喜悦のオーラが、後光となって視認出来そうなぐらい、極めて明快に分かりやすい。


 心なし頬まで上気している陛下のお慶びに水を差すのはあれだったが、生憎と悠久の時を生きていそうな魔王とは違い、人の生は有限であり、ついでにホールのレンタル時間も有限である。


 歩美は不敬罪でお手打ちにされるかもしれぬ恐怖と戦いながら、それでも企画責任者として、チーフとしての責任を果たすべく、震える声を紡ぎだした。


「い、以上でエントリ―№42『真夜中カフェ(元)魔王』のご紹介を終了となります。ありがとうございました! 魔王陛下、御退席です!」


 ざっ――と。


 別に号令をかけたわけでもないのに、歩美のその一言をきっかけにして、観客審査員ついでに他の参加者含めた会場の全ての人類が、打ち合わせたように一斉に立ち上がる。立ち上がってそして、全員が揃って最敬礼の姿勢を取る。


 かつてないスタンディングオベーションを受けた魔王はしかし、その反応に緊張するでもなく謙遜するでもなく、王者としての余裕をもって鷹揚に答礼でこたえ、静かにご退席なさり、元のパイプ椅子に座った。


 その隣で、エントリー№43の選手が、一人泣きそうな顔をしていた。



 ◇◆◇◆◇◆◇◆



「――で、結局優勝は逃しちゃったんスか」

「うむ」


 その日が彼らにとって、何か特別な日であったというわけでもはない。


 いつもの店、いつもの魔王、そしていつものサードアイ。いつもと変わらず魔王は邪悪で、いつも通りに友也は友也は目つきが悪くて態度が軽くて言葉使いが悪く、ずけずけと慣れ慣れしい。現に今も、仮にも雇用関係にある相手に対して遠慮会釈もなく、触れてほしくない話題にあえてピンポイントで突撃している。場合によってはモラハラともとられかねない案件だが、魔王が怒りを示すことはない。店名と営業時間と店主の属性とは違い、魔王カフェは意外とホワイトな職場なのだ。


 本人(魔王)としてもローストビーフサンドの出来にはかなりの自信があったらしく、いささか落ち込んでいるようだった。外見表情には一切変化ないが、友也が額に抱くサードアイには、悲しみに染まる魔王のオーラ色がしっかりと映っていた。


「まあ、敗因は別に味じゃなかったんだし、いいじゃないですか。たとえ結果が出なくても、もともと店長はこの世界でのオンリーワンですよ。あらゆる意味でオンリーワンですよもう間違いなく」


 今回のコンテストでは、評価対象となるのは味だけではない。料理の値段、立地環境、試食以外の部分も対象となる。店長の人種は問わないが。魔王カフェが優勝を逃した最大の理由は、一つに深夜のみというその営業時間。そしてもう一つが――


「それにしても、まさか『美味すぎる』からって理由で優勝を逃すことになるってのは、予想外でしたねー。さすがに」


 そう。今回の最大の敗因はそれだった。


 コンテストの目的はあくまで『知名度の低い名店の紹介』と『それに伴う地域の活性化及び経済効果』である。求められているのは、満点ではなく平均点の少し上。その点において、魔王は少々『やりすぎた』。


「むぅ……しかし、納得がいかぬ。確かに件の肉は、魔界の中でも最高級に属するもの。平素であれば、魔界の民草でもおいそれと口には出来ぬSランク高級食材。しかし、それはあくまで件の捕獲難易度によるものだ。逆に言えば捕獲数が少ないため、わりとその辺に一杯いる。最近では繁殖しすぎて害獣認定され、役所に持っていくと報奨金まで出るレベルだ。その点、余の術をもって仕留めるに容易く、討伐証明部位を持っていけば報奨金まで出る。つまりは、原価的に非常にお得な素材でもあるのだ。ゆえに、割とお得な値段でお客様にも提供出来る。いくら余の料理が美味すぎるからとはいえ、それだけで一概に高級料理と決めつけられるのは、誠に遺憾の意である」


 マーケットとしてのターゲット層はあくまで『一般市民』なのだ。間違っても『白銀や代官山でオシャレなランチしている奥様軍団』とかではない。高級素材に頼って味だけの勝負となると、優勝のために無理をする店舗が現れて、結果的にマイナス効果となりかねない。


「アンタにとってはお手軽素材かもしれないけど、それってめちゃめちゃ物理力と魔力をフル行使した結果じゃないっすか。言い換えれば、店長以外には間違いなく高級食材ってことじゃないっすか。んな高級肉でローストビーフ作るとか、もう勇者がはじまりの村でスライム相手に、いきなり聖剣で挑むようなもんじゃないっすか。そりゃチート扱いにもなるでしょうよ」


 正確には、勇者ではなく魔王だが。


 スペック的には間違いなくチート級勇者にも匹敵するであろうチート級の魔王は、無念かつ極めて不満そうに、歎息を漏らした。


「しかし……それでも納得がゆかぬ。いくら高級な肉とはいえ、ローストビーフはただ焼けばいいというわけでもない。一番大事なのは調理にあたり、どれだけの心を籠められるか――つまり、愛だ。真の愛情なくしてはいかな素材とて引き立たず、逆説的に、手間暇と愛情を惜しまなければ、どんな安い材料でも最高級の料理となる」


「いやだからアンタ、材料自体もめちゃくちゃ最高級の使ってたじゃないっすか」


 真顔で愛について演説する魔王という、世界で最も希少なものを目の前にしながら、しかし友也は容赦なく突っ込んだ。心の中では『なんでこのひとジョブが魔王だったんだろう。中身こんなキャラなのに』とか思っていたが、それでも容赦なく突っ込んだ。魔王の威厳に誤魔化されたりなどしない。こう見えて、彼の『モノを視る眼』は、人類の誰よりも確かなのである。


「けど大丈夫っすよ。確かに今回、優勝は逃しちゃったけど、大切なのは心なんでしょ? ナンバーワンよりもっともっと特別なオンリーワンですよ。少なくともあの会場の反応を視る限り、一番心を掴んだのは間違いなく店長だったと思いますよ。俺は」


 安心させるように、にっかりと三白眼(自前)を細める。ちなみに、当日会場にいなかった友也がなぜ『視てきたかのように』状況を詳しく語れるのかというと、実際に遠視で視ていたからである。最近では、自宅にいながら映画が見られるようになってきた。慣れると結構便利である。


「料理に大切なのが心ってんなら、順位なんてどうだっていいじゃないっすか。少なくとも、店長の料理にちゃんと真心が籠ってるのは、俺が間違いなく保証しますよ。アンタの料理を一度でも食べた奴になら、絶対それは伝わります。それで充分じゃないっすか」


 そう。それだけは絶対に間違いない。


 だからこそ。俺はかつてこの人(魔王)の料理に救われたのだから。


「誰がなんと言おうと、俺にとって店長の料理はこの世界でのオンリーワンです。他のどんな飯よりも価値のあるオンリーワン。なので、そんなにいつまでも黒々していないで、ホラ。さっさと仕込みに入りましょう。」


「……うむ」 


 友也の説得に、果たして効果があったのか否かは分からないが。


 下僕の言葉の内にある『真心』に気づいたか、魔王は少しだけ不満そうに、それでも最初よりは少しだけ上向きになった機嫌で、不承不承に頷いた。


 そうして彼らはまた、いつもの日常に戻っていく。いつもの店、いつもの魔王、いつも通り、真心をこめた美味しい料理でお客をもてなす、暖かな魔王カフェ。暗がりに潜む真夜中のお店へと。



  ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆



 なお後日、それでもやっぱり納得のいかなかった魔王は、最終的に特別賞として『魔王賞』を貰った。


 他の受賞者も覇王・四天王・十勇士から勇者・四賢者・十英雄に名を改め、これが後に日本でもっとも権威あるカフェコンテスト『魔王VS勇者! 頂上決定戦!』幻の第一回として、業界で長く語り継がれることとなる。


 魔王出場時の対応マニュアルと共に。

 

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