第19話 一つ目の願い
「では君の願いをおさらいしよう。叔父上、叔母上のところへ行って、わたしが君と結婚すると信じ込ませればよいのだな」
永遠は頷いた。
「そう。そして私はスコットランドへ行くからしばらくは、少なくとも数年は会えないと思わせるの」
本当はもう二度と会えないわけだけれど、彼らは私が遠い異国の地で生きていると、そう考えることになる。それも当然だろう。病気のことは伝えていないし、彼らが天寿をまっとうするまでは、クリスチャンが毎年一通のポストカードを送ると約束してくれたのだから。
テーブルの上に積まれたポストカードに目をやった。カードには一枚一枚スコットランドでの思い出を綴った。クリスチャンと過ごす愛と喜びに満ちた日々。だが決して私が手に入れることの出来ない日々を。
その視線を追ってクリスチャンが手を重ねてきた。
「約束する」
私がカードがちゃんと届けられるかを心配していると思ったのだろうか。彼が約束を守る人だということはわかっている。一度だって嘘をついたことはなかったのだから。
彼が私を変化させる気はないといったとき、裏切られたような気がしたけれど、それは私が勝手に思い込んでいただけのこと。彼とずっといられるのではないか、と。
彼は嘘をつかなかった。その方がどちらにとっても、ずっと楽だとわかっていても。
苦い思いを払いのけるようにゆっくりと頭を振った。手を裏返して彼の手をぎゅっと握り返した。
「ありがとう」
ふさわしい言葉が見つからず、けっきょくありきたりな言葉に落ち着いた。
叔父夫婦は家にいるだろうか。
今、彼らが家にいる方が嬉しいのか、それとも再会のときを引き伸ばせる方がありがたいのか心を決めかねた。
いや、大変なことはさっさと済ませてしまうに限る。永遠はブリスに繋いだリードを握り締めた。
「お願いだから大人しくしててね」
ブリスを見下ろして囁いた。
言葉をなくした彼は同意のしるしに頷いた。ブリスには狼の姿になってもらうことにした。人間の姿のままではあまりにも人目を引きすぎる。髪の色や変わった目のせいだけでなく、その整いきった顔立ちで、蜂を集める芳しい花のように女を惹きつけてしまうだろう。
頷き返し、両親の家よりも長く暮らした家を見上げた。
成長を見守ってくれたという意味でいえば、確かにここは私の家だ。だが心の拠り所としていうなれば、ここは他人の家。ただそこにあるだけ。なんの感情も抱かせない、風景の一部でしかないもの。
クリスチャンが安心させるように手を握ってくれた。本当なら彼のほうが緊張しているはずなのに。
「あなたには怖いものはないの?」
答えがかえってくるとは思っていなかったから、彼の返事には驚かされた。
「あるさ。怖いものくらい」
「なに?」
ただの好奇心から聞いた。彼は不死身だから、恐れるものなどないのだと思っていた。
クリスチャンは疑わしそうに、見下ろしてきた。
「聞いてどうする。それでわたしを脅すつもりか?」
「そんなことしない」
まあいいというように彼は肩をすくめた。
「まずは君の怒りだろう。君が怒ると怖いのなんの―」
永遠はリードを握った手でクリスチャンをこづいた。
「私、怒ったりしない。いつ怒ったっていうの?」
彼は意味ありげな目つきで見つめたが、気づかないふりをすることにした。
「それでほかには?」
「一番怖いのは君が―」
ブリスが小さく唸ったために彼が言葉を切った。
「ええ、そうね。こんなことしてる場合じゃない」
また気をそがれてしまう前にチャイムを押した。
軽い音が家の中を駆けるのがわかる。いつものように叔母が慌てて走り、サンダルを突っかけてドアを―。
「まあ、永遠じゃないの!」
はにかんだ笑みを浮かべた。
「こんにちは、叔母さん」
叔母は目を丸くして立っていたがドアを大きく開くと、中に入りなさいといって私たちを招き入れた。
「いったいどうしたの? あなたからやってくるなんて―いえ、いつでも来てくれていいのよ」
彼女はいつも通りだった。健康そうで、機関銃のようにまくし立てて―不意に懐かしさがこみ上げてきた。
「叔母さん、私―」
「どうしたんだ?」
叔父が騒ぎを聞きつけて玄関口にやってきた。
「おお、永遠じゃないか。元気にしてるか?」
ブリスが視線をよこすのを見るというよりは感じた。
「ええ、叔父さん」
「彼らは?」
叔父は胡散臭そうにクリスチャンとブリスを見ていた。
「あなた、こんなところで話してないで、上がってもらいましょうよ」
答えを返す前に叔母が口を挟んだ。
「ああ―それは犬か?」
叔父がブリスに目を留めて聞いたが、その口調には疑わしさがたっぷりと混ざりこんでいた。
「半分、狼なの」
今度は嘘ではないから気が咎めることもなかった。
「ここにいさせてもいいでしょう? 外は寒いから」
ここも温かくはないが、外にいることを考えればまだましだろう。それにブリスは毛皮を着込んでいるし。
「ああ、かまわんが」
「さあさあ、早く上がってコタツに入りなさい」
叔母はそそくさといなくなった。きっと私たちをもてなす準備をしに行ったのだろう。
振り返ると伏せをしたブリスは、だらりと舌を垂らして従順な犬を真似ていた。だが目が合うと、いたずらっ子のように大きな口でニヤっとした。
昔よりもずっと居間は暖かかった。
心は目に見えないのに、どうして気持ちひとつでなにもかも違うのだろう。
「どうかしたか?」
永遠の感情の変化を敏感に感じ取ったクリスチャンが耳元で囁いた。
「いいえ。ただ、ありがとう」
彼は眉をひそめたが、叔父が近くにいるので追求されることはなかった。
クリスチャンと並んでコタツに入り、叔父と向かい合った。彼はコタツという存在にまごつかなかったから過去に入ったことがあるのだろう。叔母はキッチンにいたのでその間私たちは沈黙を守っていた。
だが耐え切れなくなった叔父が沈黙を破った。
「これはそういうことなのか? その、お前たちは―」
「あなた、野暮ですよ。いきなりそんなこと。さあ、入りましたよ」
叔母がお茶とお煎餅を持ってきた。叔父の隣に席を占め、クリスチャンにお茶を勧めた。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
クリスチャンがそういうと、叔母は少しの間だけ言葉をなくした。
「外国の方よね? 完璧な日本語だわ。たくさん勉強されたんでしょうね」
クリスチャンはヴァンパイアの笑みを浮かべた。
「ええ、まあ。時間だけはいくらでもありましたから」
世間話に業を煮やした叔父が手を振って私たちの注意を集めた。
「永遠、誰なんだ?」
「彼はクリスチャン・ベルナールというの」
叔父は苛立たしそうに舌を鳴らした。
「ちがう。名前などどうでもいいんだ。ああ―」
クリスチャンの方に手を振って続けた。
「この人はなぜここにいるんだ?」
コタツの陰でクリスチャンが手を握ってきた。
『わたしから話す』
永遠も握り返し、わかったと伝えた。
「申し遅れましたことをお許しください。わたしは永遠と結婚する旨をお伝えに参りました」
叔母は胸に手を当て、叔父は眉を吊り上げた。
「なんて、まあ。永遠もそんな歳になったのね。いいじゃないの、あなた。ベルナールさんは素敵な方よ」
「おまえ、なにを馬鹿なことを。永遠はまだ十八なんだぞ。駄目に決まっているじゃないか。認めないぞ、永遠」
茶番ではあっても許可を貰えず残念でならなかった。
「認めてもらえないのは残念だけど、私たちは結婚するの。誰になんといわれようと」
「そんなことできるはずがない。おまえはまだ未成年だ。親の承諾なしには―」
頭を振った。
「いいえ。私たちスコットランドに行くの。向こうでは結婚を誓い合えば認められる。誰の承諾もなしに。自分たちの意思だけで」
「学校はどうするんだ?」
「辞めたわ」
余命宣告された日に学校は辞めていた。通ったところで卒業できるわけでもなかったし、それにあの時は全てがどうでもよかった。
「―なんだと!」
叔父の顔は赤黒く染まっていた。いがみ合うためにきたわけじゃなかったのに。
コタツを回ってきた叔父に腕を掴まれ、乱暴に引っ張りあげられた。
衝撃を感じた。だが痛みは感じなかった。頬に手を当てて、人事のようにあたりの動きを観察していた。クリスチャンは叔父の手が頬に触れると同時に立ち上がり、叔父を押しのけて私を抱きしめた。
叔母は小さく悲鳴を上げてキッチンに走った。
クリスチャンが押さえていた手をそっと離させ、頬を調べているところに叔母が濡らしたタオルを持ってきた。クリスチャンが受け取ったタオルで冷やしてくれている間も、呆然としたまま尻もちをついた叔父を見つめていた。
小さいころにこんな叔父を見たことがあっただろうか。叔母がおしゃべりな分、その代わりというように寡黙だった叔父。感情をあらわにするのを見たことは数えるほどしかない。
実際に体験しなければ、怒りに我を忘れた姿なんて想像も出来なかっただろう。
クリスチャンが叔母に帰るといっているのが聞こえた。腰に回されたクリスチャンの腕に促され玄関に向かっていた。
不意に狭い廊下の先を行く叔母が心配そうに振り返った。
「永遠…結婚を急ぐのは、子どものためなの?」
打たれたのは頬なのに唇がしびれていた。
「いいえ。でも、私のためでもなかった」
「ごめんね」
永遠ははにかんだ笑みを浮かべていた。
クリスチャンは不首尾に終わった結婚の挨拶を心の中で反芻しながら横を歩いていた。
彼女の謝罪はなにを指したものだろう。喧嘩別れになってしまったことか、成果を得られず無駄足を踏ませてしまったと考えているのか。
「なぜ君が謝るんだ」
彼女はリードの先に目を落とした。
「叔父の、あなたに対する態度がひどかったから」
わたしに対する態度…。
なかば髪に隠された赤みの残る頬をじっくりと検分した。
ヒリヒリするだろうが痣にはならないだろう。
ゆっくりと息を吐き出してからいった。
「たいしたことではない。そうだろう?」
永遠は揺れる銀の尾を目で追っていた。リードを握ってはいるが引く必要はないために、二人の間で紐にはたるみができていた。家を出る前は不穏な雰囲気を察して、牙をむき出し唸っていたがブリスの機嫌も直ったようだ。
「そうね」
永遠は無意識に手に巻いたリードを親指でさすっていた。また彼女の心に暗雲が立ちこめているのだろうか。
「私、手をあげられたことがなかったの」
唐突な告白に少々面食らった。永遠は悩みを心の中に留めておいて、一人のときに取り出しては人知れず解決しようとするタイプだからだ。
太陽に温められた髪をそっと撫でてやると、子猫のようにすり寄ってきた。
「叱られたこともほとんどなかった―父さんや母さんが生きてた頃は別だけど。私、大人しい方じゃなかったから」
いたずらっぽく付け足された瞬間、永遠は年相応に見えた。
普段は彼女が十八才だということを忘れてしまう。痛みや孤独を同じ歳の者よりもよく知っている分、彼女には成熟した雰囲気があった。
「あなたもぶたれたことある?」
「ある。幼い子どもは親を万能の神のように見ているだろう? どんなときも自分を守り、慈しんでくれると」
前方に飼い主と散歩中のダックスフントが見えた。
「あなたもそう思ってた?」
肩をすくめた。
「忘れた。もうずっと昔のことだ」
犬はブリスが近づいてくるのに気づいている。尻尾を足の間に垂らし、飼い主の後ろに隠れた。
「だが親は子どもをしつけるために手をあげることもあると気づくと、子の幻想は打ち砕かれる。ぶたれる痛みよりそっちの痛みの方が大きいから、一度目はこたえるが、それ以降は慣れがあるし、いたずらの魅力を妨げるほどの罰ではなくなる」
ブリスは怯える犬の前を悠々と通り過ぎた。
「だが君に二度目はない。わたしが許しはしない」
永遠が腫れた頬に触れた。痛いだろうに、その手つきは感情を交えずじっくりと状況を検分する医者のそれだ。
「最初はびっくりしたけど、でも―」
適切な言葉が見つからないというように空に視線を彷徨わせた。
「嬉しかった」
けっきょく言葉に恵まれず、そこに落ち着いたようだ。
「嬉しい? 悲しいやつらいではなくてか? 腹立たしいや屈辱的はどうだ。殺してやりたいというのもあるぞ」
彼女は首を振った。
「あなたが薬を取ってきてくれた日、私はいったわよね。望んでもいないのに壊れ物のように扱われるんだって。いつもどこか違うなって感じてたの。二人と私とは、やっぱり他人なんだって」
「ああ」
「だけど今日、叔父はやっと私が壊れたりしないって気づいてくれたんだと思う」
彼女の叔父が怒りに我を忘れたのではなく、彼女のいうように思っていたのか、はなはだ疑問ではあったが頷いた。
本来ならば今の永遠にこそ優しくしてやるべきなのだが。
「それで嬉しいと?」
「親が子どもを叱るのはなんでだと思う?」
「子どものしていることが気に食わないからだろう」
永遠は笑った。
「違うわよ。愛してるから。自分がいなくなった後も、ちゃんと生きていてほしいから」
「つまり叱るのは愛しているからで、叱られないのはその逆だからだというのか?」
「まあそういうことね」
さっきのおかしそうな表情とうってかわり、彼女が目を細めてこちらを向いた。
「でも私が親になったら、子どもには絶対に手をあげない。だってすごく痛かったもの!」
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