第20話 二つ目の願い

 部屋は野菜や肉が煮える食欲をそそる温かな匂いに満ちていた。すでに野菜には火が通っている。あとはカレー粉を入れれば完成だ。

 買い出しをかってでたクリスチャンが戻ってこなければ、今夜の夕食はポトフになりそうだが。

 「ねえ、ブリスって兄弟はいるの?」

 ブリスは眉を上げた。

 「なんだよ、急に」

 永遠は鍋をかき混ぜながら顔だけブリスの方を向いた。

 「だってあなた、自分のことはなんにもいわないじゃない」

 「どうでもいいだろ。俺のことなんて」

 ブリスがキッチンテーブルに乗ったウサギの頭を気だるげにかいてやると、耳を寝かせ、気持ちよさそうに鼻を動かした。

 「そんなことないわ。心配してる人がいるなら電話した方がいいわ。長いこと会ってないんじゃない?」

 「…いねぇよ」

 永遠は火を止めて体ごとふりかえった。

 「亡くなったの?」

 「そんな話、聞きたくねぇって」

 寂しそうな横顔。強がっていても満たされない愛情を求めている、思いやり深いウェアウルフ。

 「話して。力になりたいの」

 肩がゆっくり上がって下がった。深呼吸しているのだろうか。

 「家族はいない。母さんが死んでいなくなった」

 「そう」

 ブリスの前の席に腰を下ろした。

 親を亡くす気持ちは体験した者にしかわからないだろう。どんな言葉をかけられても、心の穴はふさがらない。時がその記憶を薄めてくれるのを待つしかない。

 黙ったままブリスが話すのを待った。

 「なにも聞かないんだな。だから聞きたくねぇっていっただろ」

 テーブルにあったブリスの手を握った。

 「あなたは話したくなかった?」

 ブリスはじっと繋がれた手を見つめた。

 「永遠になら…話せる。聞きたいなら」

 手にぎゅっと力を込める。

 「ええ」

 「俺、友達がいなかった。目が…変だから」

 彼は親指で永遠の手の甲をなでている。

 変なんかじゃない。綺麗だといいたくて口がむずむずした。

 「いっつもほかのウェアウルフが遊んでんのを隠れて見てた。頭の中では俺は人気者だったんだ」

 ブリスの口角が馬鹿にしたように上がった。だが目は悲しみに翳っている。

 「ある日、ついに空想が現実になった。一緒に遊ぼうって向こうから誘ってくれたんだ。俺、嬉しくてたまらなかった。だからかくれんぼをするとき、俺に探す役をやらせてくれるなんて夢のようだと思ったんだ。隠れんのはその他大勢でも、鬼はたった一人、特別なんだから」

 話の結末がわかって目に涙が滲んだ。

 「日が沈んでも、俺は一人も見つけられなかった。けどせっかく鬼をやらせてくれたんだ。見つけないわけにはいかなかった。母さんが迎えに来て、しぶしぶあきらめた」

 グリーンとゴールドの瞳に悲しみを浮かべた幼いブリスの姿が頭に浮かんだ。

 かわいそうに…。

 「次の日、探さなくてもあいつらは俺んちに来たんだよ。最初から隠れてなんかなかったんだ。俺が必死になってんのを陰で楽しんだってわざわざ知らせに。母さんの前でだぜ、くそったれ」

 一時、大きく息を吸って高ぶった感情をしずめている。

 「俺はガキだったけど、負けん気だけは強かった。あいつらなんて友達になる価値ないって思うようになった。話し相手がほしけりゃ母さんがいたし、一人でだって楽しくやってやるって」

 ウサギが悲しみの感情に呼応するように小さく身震いした。

 『俺は気持ち悪いか?』

 ブリスが語りかけてきた言葉。きっと嫉妬したいじめっ子たちに、神々しいほどの美貌を罵倒されて生きてきたのだろう。

 気にしてないと強がってはいても、心には今なお痛々しい傷が残っている。

 「母さんが死んだあとは一人で生きてきた。幸いもう一人でもやってける歳だったしな」

 ブリスはそういうが、一人で楽に生きていけるほど成熟していたとは思えない。

 人生はなんと残酷なのだろう。話し相手もいないブリスが、暗闇にたたずんでいる姿が脳裏に浮かんでは消えた。

 ブリスがふいににっこりした。

 「永遠と会った日は俺の旅立ちの日だったんだ。二十歳になったばっかだったけど、これからは自分の好きなとこに行って、好きに生きようって決めたんだ」

 「出立早々、災難にあったの?」

 邪魔をしないように久しく閉じていた口を開いた。

 目は笑みを浮かべるブリスを見据えながらも、彼の生々しい脚の傷を思い出していた。

 「ああ、確かにそういえるな。俺じゃなくてあいつらにとってだけど」

 彼は自分にしかわからない冗談かなにかのようににやりと笑ったので、白く鋭い牙がのぞいた。

 「母さんの墓に立ち寄ったんだ。感傷的だと思うだろ? もうそこにはいないのにさ。けどあのときは母さんに挨拶しとくべきだって気がして」

 「そこでいじめっ子たちに会った?」

 ブリスがおかしそうに口元をぴくりとさせた。

 「永遠がいうとさ、なんか上手く言えねぇけど、おもちゃを取り合いになったガキのけんかみたいに聞こえる」

 馬鹿にされたような気がして少しむっとした。

 「それは―」

 「いいんだよ。永遠は俺の気持ちを軽くしてくれる」

 彼の目が優しい色を取り戻している。

 よかった。

 「続きを話して」

 「永遠のいうとおり、墓であいつらに会った。で、今まではなにをいわれても、まあ、たいていは無視だったけど、気にしてないってふりしてた。でも俺は自分の思い通りやるって決めただろ? で、あいつらが母さんのことを悪くいう前に飛びかかった」

 「勝ったの?」

 ブリスがふざけんなよというように目を細めた。

 「まさか。相手は四人だぜ。俺の満足いくほどは痛めつけられなかった。あいつら見かけ倒しの牙だからな。俺がちょっと噛みついたり引っかいたりしただけで、尻尾巻いて逃げてったよ」

 フフンと鼻で笑った。

 「まあ、ブリス」

 「そんな心配そうな顔すんなって。もう傷も治ってんだから」

 だがあの傷のせいでブリスは命を失うかもしれなかった。

 「永遠のおかげで心も軽くなったし、なっ? あとは永遠が俺と一緒になってくれたら、いうことなしなんだけど」

 ブリスが好意を寄せてくれているのは知っている。でもそれは私が彼を邪険にしなかった最初の異性というだけで、私よりもブリスにはもっといいひとがいる。

 その相手が早く現れることを願わずにはいられない。

 ブリスは机に伏して上目遣いに表情をうかがっていた。そういえば彼はいつも私の感情を気にしている。

 「冗談だって。永遠にはあの陰気なヴァンパイア野朗がいるもんな。そーいやあいつ遅ぇ。どこで道草食ってんだろ」

 「探しに行く?」

 「永遠が行きたいならいーけど」

 どっちでもいいという口調。聞きたいのはそんな返事じゃない。

 「ブリスは?」

 「俺?」

 まったくそんなことをいわれるとは思わなかったというような声だ。

 「だって自分の好きなようにするって決めたんでしょ。ブリスはどうしたいの?」

 ブリスはテーブルに目を落として考え込んだ。

 「俺は…俺は、このまま永遠と座ってたい、かな」

 微笑をもらした。

 「じゃあ大人しく、ここでクリスチャンを待ちましょう」

 私は今夜の計画を練らなきゃならないし。ブリスに聞こえないよう心の中でつぶやいた。



 「なあ、二個目の願いはなんだよ? あれからなんもしてねぇぜ」

 失敗に終わった結婚の報告から一週間が経って、ブリスがじれているのがわかった。狭い家の中ですることもないのだから、しかたのないことではあるけれど。

 ソファの前にあぐらをかいたブリスを見返した。

 「まだ決めてないんだもの」

 肩をすくめてみせたが、本当はすでに二つ目の願いもクリスチャンに託してあった。

 洗濯物を取り入れるために、ブリスの横を通ってベランダに通じるガラス戸を開けた。木枯らしが吹いて、かさかさと明るい色の木の葉が音を立てた。

 ひんやりとした風に頬をなぶられながら、クリスチャンのシャツを手に取った。

 そう、クリスチャンに任せておけば大丈夫だ。

 昨夜、夕食のカレーをたらふく食べたブリスが寝入るのを待ってから、クリスチャンの元へ向かった。

 彼は遮光カーテンをひき、永遠の隣の部屋で眠っていた。両親の部屋はクイーンベッドだからそこで眠ればいいといったのに、クリスチャンもブリスも断った。

 ブリスはクリスチャンに「あんたは年寄りだから」と予備のシングルベッドを譲り、居間のソファで体を丸めていた。

 そんな気を遣ってくれなくていいのに。

 静かにクリスチャンに近寄り顔を見下ろした。暗くてよく見えないが、眉をひそめているようだ。

 そろそろと頬に手を触れるとぱっと金の目が開いた。暗闇の中でもその目の明るさは際立っている。

 「どうした?」

 「起こしてごめんなさい。でも話があるの。二つ目のお願い」

 クリスチャンは身を起こすと永遠をひざにのせた。

 「そんなところに立っていたら寒いだろう」

 胸に耳をつけるといつもと変わらない安定した鼓動が聞こえた。

 「お願いとは?」

 心なしか彼の声がかすれている。

 「クリスチャン、私…」

 「いってくれ」

 彼は永遠の髪を片側に寄せて首筋に唇を這わせた。

 そういえばもう長い間、血を摂っていない。

 「飲んで」

 あたたかな吐息がくすぐったい。彼の髪に手を差し入れて促した。

 「私を味わって」

 彼の一部が体に埋まるといつものようにポッと炎が燃え上がった。

 クリスチャンが体を回転させて上に覆い被さり、砂漠で進路を見失った人が水に焦がれるように、性急に血をすすった。

 体を弓なりにそらすと彼は喉の奥からうめき声をもらした。

 大きな手に胸を包みこまれて、驚きの声をあげると不意に動きが止まった。息さえも止めているようで体に触れている部分から彼の鼓動が感じられなければ死んでしまったのかと勘違いしそうなほどだ。

 「クリスチャン―?」

 熱い舌が優しく咬みあとを這ったあと、苦しげな声が耳元で聞こえた。

 「わたしはなんてことをしてしまったんだ」

 背中に手をおいた。

 「なにをしたというの?」

 クリスチャンががばっと身を起こした。腕の分だけしか離れていない場所で彼は顔をしかめた。

 「わからないのか? 血を摂るだけでは飽き足らず、君の純潔も奪おうとした」

 「まあ」

 顔が熱い。彼は居心地が悪そうに脚を動かした。

 「夢うつつであんなことを―すまない」

 ベッドから脚を垂らして片手で頭を抱えている。

 「全然嫌じゃなかったわ」

 彼がぴくりとした。

 「やめてくれ。まだだめだ。自分を抑えられなくなる」

  


 リビングに入ってきたクリスチャンは、洗濯物の前でじっと佇む永遠の背中を見つけた。

 その小さなシルエットに、昨夜、組み敷いた彼女の感触が蘇ってくる。

 初めは夢を見ているのだと思った。

 覆いかぶさっても永遠は怖がる様子を見せなかったし、現実でないのなら望みを果たしてもいいと思った。やわらかなふくらみを手で覆ったとき、永遠の悲鳴が聞こえてようやく夢ではないと気づいたのだ。

 「夢うつつであんなことを―すまない」

 謝ったところで、襲われかけた彼女が自分を怖がるのは当然だと絶望にかられた。

 「全然嫌じゃなかったわ」

 予期せぬ返事に思わず欲望が刺激された。

 「やめてくれ。まだだめだ。自分を抑えられなくなる」

 深呼吸を繰り返してから振り返ると、永遠は困惑の表情を浮かべていた。

 白い顔を乱れた髪がふちどっていた。なにもしなくても、なにもいわなくても、永遠がそこにいるだけで欲望が募っていく。

 「なにが望みだ?」

 自分と愛を交わすことだなどと自惚れてはならない。だが自分を戒めたところでズボンは窮屈なままだ。

 「ブリスのことなの」

 彼女は祈るように手を胸の前で握り締めていた。神の前にひざまずく修道女のように清らかな姿。

 だがわたしはヴァンパイアだ。神とは似ても似つかぬ悪の化身。

 「ああ、そうだろう」

 自分でもなにをいっているかわからない。

 「ブリスには家族がいないみたいなの。私たち以外に友達も。だから私がいなくなってもブリスと仲良くしてあげて」

 ブリスと仲良く?

 もやのかかった頭をはっきりさせようと頭を振った。

 「願いは別のものにしろ」

 愕然とした彼女が身を乗り出した。

 「お願いよ。どうかブリスのことを―」

 注意を引くために片手を振った。

 「だめだ。そんなことに願いを使うのではない。君に頼まれなくともブリスとは仲良くやっていくさ。あのずうずうしさに慣れてしまったからな」

 永遠の顔がぱっと輝いた。

 どうしてこんなちっぽけなことでこれほど嬉しそうにするのだろう。

 「ありがとう。でもこれでお願いはあとひとつよ」

 「いや、それは―」

 永遠の人差し指が唇に当てられた。たったそれだけで鼓動がはやくなった。

 細い指に舌をはわせたくてうずうずする。

 「いいの。もう十分だから」

 人生を諦めたような口調に心臓がずしんと重たくなった。

 だがわたしになにがいえる。

 「永遠…」

 「おやすみなさい」

 彼女は最後に微笑むと、あまい花の香りだけを残して出て行った。

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