第17話 病の進行は止められない

 二日後、ジュリーの言葉通りブリスはすっかり元気を取り戻した。珍しく早起きしたため、頬の痣が薄くなっているのを喜びながら永遠の寝顔を見つめた。

 早い時間にもかかわらず、クリスチャンはすでに部屋にいなかった。

 ったく…。ピクニックに行ってからというもの、クリスと永遠の間には、見えないながらもはっきりとした壁が出来てしまった。

 大切なものにするように愛情をこめて、そっと永遠の頬に指を触れた。

 腹が減った。もうしばらく起きそうにないし、なんか食いもん貰ってくるか。思い出すと胃がむかつくけど、永遠はココアが好きなようだから一緒に貰ってきてやろう。

 静かに部屋を出たが、ブリスの予想とは裏腹に一人になった永遠はすぐに目を覚ました。

 なんか―変。

 ぼんやりしたままゆっくりと身体を起こし、辺りを見回した。

 クリスチャンもブリスもいなかった。冷たい床に足を下ろし、目的もないままおぼつかない足取りでドアへ向かった。

 十歩足らずの距離なのに、今日はすごく遠く感じる。

 膝をおった永遠の口から苦しげな喘ぎ声がもれた。

 「はあ、あっ…」

 とっさに手で口を覆った。

 「ゲホッ、ゲホ…っ!」

 震える手は赤く染まっていた。

 頭を真っ先によぎったのは、知られてはならないという思いだった。

 数日前の毒の恐怖も忘れて水差しに飛びつき、ハンカチを濡らして一心不乱に手についた血をこすり落とした。

 乾いた唇を湿らせようとして舌を走らせると鉄のような味がした。今度は唇をこすった。きつくこすりすぎてヒリヒリすることも気にはならなかった。

 赤くなったハンカチを握り締めて、必死に頭を働かせた。

 どうすればいい?

 二人は鼻が利く。私にはわからなくても、彼らは血の匂いを敏感に感じ取るだろう。

 部屋を見回すと自分のトランクが目に入った。その中から小さなビニール袋とチョコレートを取り出したあと、袋に血の付いたハンカチを入れてしっかりと端を縛った。フラッとして倒れるようにベッドに腰を下ろした。チョコレートの包みを開けてひとつを口に、ひとつを手に握り締めた。

 これで誤魔化せればいいけど…。

 やることがなくなると気分の悪さが前面に出てきた。ベッドを這うように進み、ぐったりとヘッドボードにもたれかかった。

 少しだけ。ただ目を閉じるだけ…。



 永遠はドアが開く音で目を覚ました。幸いなことに眠ったおかげで少し気分が良くなった。

 「永遠も腹減ったのか?」

 ブリスが足で扉を閉めた。

 「えっ? あぁ、そうなの。チョコレートを食べたまま寝ちゃってた」

 顔をしかめたブリスがカップと皿をサイドテーブルに置いて、ティッシュペーパーを手に取った。

 「チョコ、ついてる」

 ブリスに手を掴まれてさっと背後に隠した。

 「永遠?」

 「いいの。自分で拭くから」

 ブリスは眉間に皺を寄せたが、一時ためらってからティッシュを手渡した。

 「キッチンに行ったらさ、キティーが菓子作ってたんだ。今日はハロウィンなんだって」

 ブリスがベッドに腰を下ろすと、その重みで永遠の体が傾いた。

 気付かれないようにそっとブリスから離れた。

 手を拭いながら、チョコレートが望みどおりの役割を果たしてくれたか、ブリスを横目でうかがった。

 彼はじっと永遠の顔を見ていた。

 「なに?」

 なにげなさを装いながらも心臓は早鐘を打っていた。

 「ついてる」

 ブリスの親指が赤く腫れた唇に触れた。

 ほらとチョコレートのついた指を見せつけて、自分の口に運ぼうとするブリスの手を掴むと、チョコを舐め取った。

 「なっ…!」

 ブリスの顔が赤く染まった。

 チョコレートの味しかしなかったが、ブリスには私の気づいて欲しくないものの味が感じられたかも知れない。

 「そういうこと簡単にすんな」

 自分のことを棚に上げてブリスは声を荒げた。

 「ごめんなさい。おなかが空いて、つい」

 「そんなに腹減ってんのか? じゃあ、これやるよ」

 ブリスがサイドテーブルに置いた『これ』を指し示した。皿の上にはクッキーやらタルトやら歯の溶けそうなものが山と盛られている。

 我慢できずに目を逸らした。

 「キティーが作りすぎたからっていっぱいくれたんだ」

 「ありがとう。でもちょっと、その、先に行きたいところが…」

 彼は訳知り顔で目を逸らした。

 「あぁ。俺のことは気にしなくていーよ。クッキーもちゃんと残しといてやるから」

 ブリスがクッキーをつまんでいる間にそっと立ち上がり、ヘッドボードを握り締めて不意に襲ってきた不快感をやりすごした。その間にドアを睨みつけて平静を装ったままたどり着く気力をかき集めた。

 若干ぎこちないながらもやり遂げた永遠の額にはじっとりと汗が滲んでいた。

 「気をつけてな」

 ブリスの言葉が小さな背中にかけられた。

 ドアノブを握って苦労しながら明るい声を絞り出した。

 「なにもありはしないわ」



 永遠が部屋を出た後もブリスはじっとドアを見つめていた。

 余計なことをいっちまった。

 部屋に入ったとき血のにおいを嗅いだ。チョコのにおいが強烈で、ほとんど感じられないほどではあったが、それは確かに永遠の血だった。

 青い顔をして心配をかけまいとしている永遠の努力を、無駄にするわけにはいかないと調子を合わせたのだった。

 すげー具合悪そうだったな…。

 出血するほどだ。よほど調子が悪いに違いない。

 ブリスは一口かじったクッキーを皿に戻した。

 陰で見守ってやればいい。なにかあったときには手を貸せるし、なにもなければ永遠は俺に気づかれていないと思っていられる。

 ベッドを立ったときドアが開かれた。



 「なんだ、あんたか」

 「なんだとはなんなのだ。永遠は―」

 息を吸い込んだクリスチャンの眉間に皺がよった。

 このにおい…。

 「永遠の血だ。なにがあった?」

 「俺にはわかんねーけど、たぶん病気のせいだと思う」

 記憶の糸を手繰り遠くを見つめた。

 「血を吐いたのか…」

 癌に侵された者の最期は惨い。奴は生物の生物たる所以を奪いつくしてしまう。

 「それで永遠はだいじょうぶなのか? 医者は要らないのか? どこにいる?」

 「おいおい、一気にまくし立てんのは止めろ。えーとなんだ。だいじょうぶかって? 俺にわかるかよ、けど良さそうには見えなかったな。それと医者か? 呼んだって永遠は喜ばねーと思うぜ。必死に具合が悪いことを隠そうとしてたんだからな…えと、あとなんだ?」

 右足から左足に体重をのせ変えた。

 「どこにいる?」

 「トイレだ…と俺は思う」

 「思う?」

 「永遠が濁したから恥ずかしいんだろうと思って聞かなかった」

 「なぜついて行かなかったのだ」

 苛立ちのままに腕を組んだ。

 「行こうとしたさ。あんたとこうやってダラダラ話してなかったら、とっくに永遠を見守ってやれてたんだ」

 舌打ちをして部屋を出ようとした。

 「体の具合だの、医者だのの話はするなよ」

 「お前は彼女の身体よりも気持ちを優先するというのか?」

 納得がいかずブリスを振り返った。

 「俺には永遠の身体を癒やしてやることは出来ねぇ。ならせめて、永遠の意思は尊重してやりたい」

 『俺には』と強調された言葉に目を細めた。

 「だめだ。わたしは彼女を変化させる気はない」

 「なんでだよ?」

 「いっただろう。彼女はわたしを―」

 「利用する気だっていうんだろ?」

 ブリスはいつになくけんか腰だった。

 「けっきょくあんたは自分がかわいいだけなんだ。永遠に命を与えたあと、自分のそばにいさせる自信がないんだろ? 自分が捨てられんじゃないかって怖いんだろ? だからそうやって全部永遠のせいにして救おうとしないんだ。あんたなら永遠の痛みを癒やしてやれるし、永遠の気持ちも受け止めてやれんのに。俺にその力がありさえすれば…」

 ブリスは赤くなった目でキッとクリスチャンを睨みつけた。

 「永遠が死んだあと何百年でも何千年でも好きなだけグダグダ言い訳してりゃーいいさ」

 ブリスはクリスチャンを押しのけ部屋を去っていった。

 ヴァンパイアなのだから微動だにしなくても当然だったのに、ブリスに押されて尻餅をついた。

 『永遠が死んだあと何百年でも何千年でも好きなだけグダグダ言い訳してりゃーいいさ』

 ブリスの捨て台詞が胸に突き刺さった。

 そう、彼女は死ぬ。自分には何百年も何千年も無駄に過ごす時間があるのに、彼女に残された時間は二ヶ月をきっている。

 ああ、彼女の言葉を信じられたらどんなにいいか。彼女がわたしの運命に現れたたった一人の奇跡であるなら、もう二度と孤独に苦しまなくてすむ。

 一瞬、決心が揺らいだことに気づいて顔をしかめた。

 血をすすることで生きながらえる怪物を愛するなどありえない。

 ・・・そうだろう?

 だがわたしは無駄に彼女を苦しませている。ブリスのいうように、この力を使えばなにもかも癒やしてやれるというのに。

 クリスチャンは浮ついた考えを振り払うように立ち上がった。

 二ヶ月以内にその力を使うことはない。そして永久に使うつもりもない。

 わたしがしてやれるのは優しくすることくらいだ。ならば残り二ヶ月、思う存分甘やかしてやろう。



 永遠は数部屋を通り過ぎてから、あまりの不快さに自分を甘やかした。壁にもたれて目を閉じると、喘ぎ混じりの呼吸を繰り返した。

 今やらなければ動けなくなってしまう。自分を叱咤するとすり足で壁をつたいキッチンを目指した。前のようにコックやメイドを驚かせないようにそっと中を覗きこんだ。

 キティーはいるだろうか? 彼なら助けてくれる。

 「お嬢様?」

 安堵感に涙が出そうになった。痛みに耐え、ゆっくりと振り返ると怪訝な表情を浮かべたキティーが立っていた。

 「キティー…お願いがあるの」

 「僕に出来ることであればなんなりと」

 キティーは辺りを見回して誰も聞いていないことを確認してから『僕』といった。

 だがキティーの信頼に喜ぶ余裕はなかった。ぎこちない動きでポケットに潜ませていた袋を取り出した。

 「お嬢様っ! これは―」

 「なにもいわないで。これを燃やして欲しいの」

 血染めのハンカチが入った袋を渡そうとしてついに膝が折れた。

 キティーはすかさず永遠を抱きとめ、小柄な体のわりに軽々と腕に抱えあげた。

 「お体の具合が悪いのでしょう? 無理をなさってはいけません。クリスチャン様をお呼びして―」

 キティーの服を掴んで首を振った。

 「だめ。二人にはいわないで。だいじょうぶだから」

 「ではせめて僕の部屋で体をお休めになってください」



 キティーの部屋は永遠たちの部屋と違って狭く殺風景だった。ベッドに下ろされて吐息をもらした。

 「申し訳ありません。むさ苦しいところで」

 「いいえ。こちらこそ迷惑をかけてしまって…すぐ部屋に戻るから」

 キティーはなにやら棚に並べられた小瓶をあさっていた。

 「そんなご様子じゃすぐお二人に気づかれてしまいますよ。確かここに…あった」

 永遠は目を閉じ、コツンと瓶がぶつかったり、トクトクと水が注がれる音を聞いていた。

 いい香り…。

 「お嬢様?」

 目を開けるとキティーが顔を覗き込んでいた。手を借りて身を起こすと、目の前に湯気を上げるカップを差し出された。

 「ハーブティーです」

 カップの液体は淡いパープルで、立ち上る湯気はツンとするハーブ特有のものと、甘いバニラが混じったようななんともいえない香りを運んできた。キティーは手を後ろで組んで口をつけるのを待っていた。

 「おいしい。だけど不思議な味」

 キティーは微笑を浮かべて、棚の小瓶を永遠にはわからない決まりで並べ替えた。

 「祖母の秘伝のレシピなんです。僕の祖母は村では魔女と噂される人でした。もちろん本当は人より薬草や医療に詳しいだけだったのですけど。僕は祖母のお気に入りだったので、時々薬草の調合を教わってたんです」

 顔は見えずともその声には誇りと思慕が入り混じっていた。

 「なんだか気分がよくなったわ。ありがとう」

 キティーがこちらを振り返った。その顔に浮かんでいるのは罪の許しを請うものだった。

 「さっきお嬢様が眠っておられる間にブリス様がおみえになりました」

 仕方がない。いつまでも隠し通せるものではなかったのだ。

 「それでブリスは?」

 キティーはベッドに腰掛けて下を向いた。

 「僕、お嬢様と新しい服のために採寸しているといって、ブリス様を部屋にお上げしなかったんです」

 それでキティーは心を痛めているのね。

 「ごめんなさいね。ブリスに嘘をついてしまって悔やんでいるんでしょう」

 キティーは服の皺を伸ばした。

 「悔やんではいません。すべきことだったのですから。ただ、ブリス様は本当にお嬢様のことを…好いておられるのだなと」

 キティーは悲しそうな笑みを浮かべた。

 「決して手に入れられないものを望むのは、苦しいものですね」

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