第16話 ヴァンパイアの力
風呂から上がると、白いふんわりとしたワンピースが用意されていた。くるぶしに裾をまとわりつかせながらブリスの元に急いだ。
ドアを勢いよく開けると、ブリスは片腕を腹の上に載せてヘッドボードにもたれていた。
その隣では寄り添うようにウサギが自分のあごを枕にして眠りこけていた。
「ブリス、だいじょうぶだった? 怪我はしてない?」
ベッドへ駆け寄るとブリスが薄目を開けた。
「うん? あぁ、俺はなんともない」
窓際で腕を組んでいたクリスチャンは痣の浮いた永遠の顔を見つめた。
「君は無傷では済まなかったようだな。なぜ君はそうもおっちょこちょいなのだ? なぜもっと気をつけない?」
ぎりぎりと奥歯を噛み締めた。
彼は不注意で川に落ちたと思っている。
だけど私は知っている。誰かに殺されかけたんだと。確かに一瞬は諦めようと思ったけど、でも―。
「クリスは怖かったんだよ。永遠が怪我をしたのに、自分には助けられなかったってわかってるから」
だからきついもの言いも許してやれというのね。
ベッドから立ち上がった。
「クリスチャン」
クリスチャンは腕を解き、黙って近づいてくる。いつもより距離をあけて彼は止まった。
物理的にあけられた距離と同じくらい心が離れてしまったように感じられた。
痣のういた頬に伸びてきた手を思わず避けてしまった。
彼の目に傷ついた色が浮かぶのを後悔しながら見つめるしかなかった。彼は静かに手を下ろし、自嘲的な笑みを浮かべた。
「君はあのウサギよりも警戒心が強いな。怖がらなくていい。故意に傷つけはしない」
彼は「故意に」という部分を強調した。
さっきの怒りも忘れ、彼の痛みを取り除きたい一心で袖口をいじりながらおずおずと口を開いた。
「私、うっかりしてて川に落ちたんじゃないの。誰かに―」
小さなうめき声を聞きつけ、言葉を切った。
「ブリス?」
ブリスは身体を丸めてベッドに横たわっている。
不安に苛まれながら手を触れると、ブリスの体は熱かった。
「熱があるわ! 私のせいで川に入ったから―」
「いや、ウェアウルフがそんなことくらいで熱を出すはずがない」
「だけど…実際、熱があるのよ。理由なんて関係ないわ」
クリスチャンは難しい顔をして部屋を出て行った。
永遠がいつかしてもらったようにブリスの額に濡らしたタオルを載せ、ほかに出来ることはないかと辺りを見回していたとき、クリスチャンがジュリーを連れて戻ってきた。
「早速始めるわよ!」
「始めるってなにを?」
永遠は眉をひそめた。
「こいつは恐らく風邪ではない。君はさっき『誰かに押された』というつもりだったのだろう?」
傷つけたくはないが、彼女には知る権利がある。心が痛まぬよう永遠から視線を外して続けた。
「…君を狙った毒にやられたのだと思う」
永遠は息をのんだ。
胸が痛んだ。私のせいでブリスが苦しんでいる。死んでしまうかもしれない!
クリスチャンが目を逸らしたことにも傷ついた。
彼は私を非難しているのだ。私がここに残りたいなんていったから、みんなが傷ついてしまう。すべて私のせいだ。
ジュリーは二人の間の空気を察して、明るい口調で告げた。
「そういう訳だから、朝起きてから今までに美形君が食べたものを教えて欲しいんだけど」
永遠はブリスを見た。顔が赤く、苦しそうに浅い呼吸を繰り返している。
自分を責めるのは後でもできる。今はブリスのことを考えないと。いつものように痛みを心の奥深くに追いやり、朝起きたときから今までのことを回想した。
「えっと…ココアを一口と、薬、それからサンドウィッチ…クッキーくらいかしら? その中でブリスだけが口にしたのは薬だけど―」
「薬って? それどこにあるの? 怪しいわね」
ジュリーは目を輝かせた。
「二日酔いのよ。ゴミ箱に包み紙が入っているはず。だけど絶対にそれじゃないわ。だってキティーがブリスのために用意したんだもの」
ああ、そうねといいながらも、ジュリーはゴミ箱に手を突っ込んだ。
彼女はあからさまにがっかりした顔をした。
「…残念。お次は?」
「クッキーはどうだ? 永遠は甘いものが好きだから」
「クッキーなら私も食べたわ」
クリスチャンは永遠の言葉など聞かなかったようにジュリーにバスケットを差し出した。
「…違うみたいね」
ジュリーは手にしたクッキーをかじった。
「あら、おいしい」
サンドウィッチにも手を伸ばす。
「…これも違う」
今度はサンドウィッチを頬張った。
「全部違ったわね」
永遠はブリスのタオルを変えた。
そこで水が目に付き、喉が渇いていることに気づいた。水差しから水を注いだ。
「待て!」
クリスチャンにコップを奪われた。
「どうしたの?」
「君は今朝、ブリスに水を注いでやっただろう―自分の水差しから」
「まさか…」
クリスチャンは黙ってジュリーにコップを渡した。
彼女はしばらくコップに触れてから、暗い目を上げた。
「ビンゴ」
コップを揺すった。
「強い毒だわ。でも良かったわね。飲んだのが永遠じゃなくて」
「そんな。ブリスが苦しんでいるのに、どうしたらそんな風に考えられるの。死んでしまうかもしれないのよ!」
めずらしく声を荒げた永遠をジュリーが視線で射抜いた。
「きれいごとばかりいってられないのよ、永遠。本当に彼が苦しむくらいなら、自分が死んでいた方がよかったというの?」
反論しようと開いた口を閉じた。
「そうよ。あなたが飲んだら確実に死んでたわ。だけどウェアウルフなら、毒が体から抜ければ元通り元気になる」
その言葉に触発されたように、ブリスの腹から大きな音がした。彼は上掛けをはねのけると、何時間か前と同様に部屋を飛び出した。
半分開いたままのドアに近寄ると、止められる前に立ち止まった。
「少し、外の空気を吸ってくるわ」
屋敷を出たとき永遠は一人きりだった。
太陽は稜線にかかり、空は赤や紫、緑や青と思い思いに染まっている。
深く息を吸い込んで吐き出した。
色とりどりの空とは違い屋敷は黒く謎めいていて、沈んだ永遠の気を引いた。
ふらりと屋敷の周りをめぐってみる。
玄関口から反時計回りに周り、九時のところへ来ると白く塗られたベンチが置かれていた。
そこには黒く大きな影をひく先客がいた。
「アダムさん。お邪魔をしてしまいましたか?」
なんだか静かにしなくてはいけない気がして小さな声で呼びかけた。
アダムがこちらを向き、隣りを叩いた。
「いやいや。かわいいお嬢さんは大歓迎だよ」
その言葉に甘えて隣りに腰を下ろした。
「美しいところですね、ここは」
目の前に立った梨の木が、地面に自分よりも背の高い影を落としている。
「そういってもらえて嬉しいね。ここには都会のような娯楽はないし、気候的にも住みやすい土地だとは言い難い。特にあなたのような人間にはね」
アダムは優しく永遠の手に触れた。
「人間だけとはいえません」
慰めるように手をぽんぽんと叩いてきた。
「友達がひどいことにならなくて良かったね」
「えぇ。でもブリスを苦しめたのは私のせい」
「自分を責めてはいけないよ。永遠さんは知らなかったのだからね。咎められるべきは水に毒を入れたものだ」
アダムが顔をこちらに向けた。
その顔は半分闇に覆われていて不意に恐怖を感じた。
「あなたに謝らねばならないことがあるんだ」
身をすくめて彼を凝視した。その視線にアダムは慌てて先を続けた。
「いやいや、そうじゃない。川に突き落としたのも、毒を盛ったのも僕ではないよ。そのことではないんだ」
止めていた息をそっと吐いた。
「実はね、僕は触れた相手の心を読むことが出来るんだ。それで何度か、あなたの心を覗いてしまってね―実はさっきも」
ああ、そうか―。
どおりで私の状況をよく理解しているわけだ。
「あの時もですね? 初めて会ったとき。私、あなたの目が光るのを見たような気がしたんです」
アダムが小さな笑い声をたてた。
「ああ、見られてしまったか。クリスチャンは嫌がるんだが。すまないね、あなたがどんな人か知りたかったんだ。僕もイヴも親バカで」
だからあの時、クリスチャンはアダムさんから私の手を引き抜いたのね。
「いいえ。子どもを大切に思うのは当然のことだと思います」
「あなたの親御さんは聡明な娘を授かったようだね」
悲しみまじりの笑い声を上げた。
「あともうひとつ、イヴのことなんだが―許してやってくれるかい?」
笑みが消えた。
ブリスには言葉遣いを改めるよう諭したが、本当に彼女のことをかばいたいのか、自分でもわからなくなっていた。自分へのあからさまな態度も、キティーへの仕打ちも許す必要があるだろうか。
命を狙っているのは、イヴではないかと疑っているというのに。
内心の葛藤を感じ取ったのかアダムはため息を吐き、ゆっくりと語り始めた。
「僕らが出会ったとき彼女は人間だったんだ。僕は生まれたときからヴァンパイアだったから、親から血を摂る以外は人間と親しくするなといわれていた」
アダムは皮肉な笑みを浮かべてこちらを見た。
理解を示すために小さく頷いた。
わかりすぎるほどにわかる。私とクリスチャンのように、人間とヴァンパイアが惹かれあえば必ずそこに苦しみがつきまとう。ともすれば喜び以上の痛みが。
「それでも、いけないとわかっていたのに僕らは愛し合ってしまった。だから彼女を死なせたくなかったんだ。でもそれは自分勝手なことだともわかっていた」
アダムが永遠の不思議そうな表情に気づいて付け加えた。
「不死になれば親や兄弟、友人の死を見送らなければならないからだよ。だが彼女は親しい人間ではなく僕を選んでくれた。そして僕がイヴをヴァンパイアに変えたんだ。関係のあった人間が死ぬたびに彼女は涙を流した。その死が人生をまっとうした末のものであってもね。僕にとってもつらい時期だった。彼女の苦しみは僕のせいなのだから。でもクリスチャンが生まれてイヴは変わった」
「変わった?」
アダムは頷いた。
「彼女は失った血のつながりを取り戻したんだ。死ぬことのない愛する息子。クリスチャンのおかげで泣くこともなくなった。イヴがクリスチャンに、人間以外のものと一緒になってほしいと思うのは、彼に傷ついてほしくないからなんだ。あなたのことが嫌いなのではなくて、あなたの中に流れる血が彼女を怯えさせるんだ」
アダムの話を聞いて永遠はうなだれ、髪で表情を隠した。
クリスチャンのこと。ブリスのこと。体を蝕む病気のこと。命を狙われる恐怖。イヴのこと…。
考えなければならないことが多すぎて、その重荷に押しつぶされそうだ。
「ごめんなさい」
「どうして謝るんだい? あなたにこんなことをいった僕のほうが謝らなければならないのに」
心底驚いたような声だった。
「すまないね。あなたのことは本当に大切に思っているんだよ。だけど僕はイヴを愛しているから」
『彼女の肩を持たずにはいられない』といわれなくてもわかった。私だって同じ立場なら、クリスチャンを擁護せずにはいられないだろう。
しばらく二人はそれぞれの物思いに沈み、黙って空を見上げた。
羨ましいくらいに彼らは愛し合っている。
どうして私たちはいがみ合ってしまうのだろう?
近づいたと思ったら、次の瞬間にはそれ以上に心が離れてしまったように感じる。
イヴがいうように、私は彼のそばにいるべきじゃなかった。
だがもう遅いのだ。すでに不公平な取引を持ちかけて、彼に大きな代償を支払わせてしまった。だから今度はどんなにつらくても、彼にとって最善のことをしなければならない。
もうほとんど日は沈み、木の影はますます長く、薄くなっている。
ふいにアダムが口を開いた。
「今度はあなたの番だ。僕を打ちのめすような話はないのかい?」
愛するひとにそっくりなアダムの顔を見上げた。
「私は別に…」
アダムはクリスチャンがしようとしたように痣のういた頬にそっと触れた。
あぁ、この人は知ってるんだ。アダムの顔が歪んで見えなくなった。
「私、クリスチャンを傷つけたかったわけじゃないの。ただ、いろんなことがあって、もうなにがなんだかわからなくて、それで、なにを信じたらいいのか、なにが本当なのか。だから、だから…」
頬を伝う雫をアダムの指が優しく拭った。
「わかっているよ。あなたは私利私欲のために誰かを傷つけたりする人じゃない」
いいえ、私は傷つけてばかりだ。それにこれから一番大切なひとを傷つけようとしている。
彼がまた何百年も独りきりで過ごさずに済むよう心から願った。
「いいんだよ、泣きたい時は泣くといい。そうすればまた頑張れるんだから」
嗚咽が止まらなかった。どうしようもなく涙が溢れ、アダムのシャツに吸い込まれていく。
だがアダムは辛抱強く背中をさすり、慰めの言葉を囁き続けていた。
永遠が静かになるとアダムはポケットからハンカチを取り出した。
「拭きなさい。かわいい顔が台無しだよ」
アダムが屋敷を仰ぎ見ている間に涙の跡を拭った。目を逸らしてくれているのがありがたかった。その間に粉々になってしまった破片を組み合わせて、自分を取り戻そうとした。
永遠は屋根の上から黒い陰が、自分を見守っていたことには気づかなかった。
アダムが小さくクリスチャンに頷くと、彼は屋敷の中に消えた。
「アダムさん、お聞きしたいことがあります」
鼻声ながら迷いのないしっかりとした口調でいえたことが嬉しかった。
『君がいなくなった後、君の記憶を抱えて生きてはいけない』という言葉が、ずっと引っかかっていたのだ。
アダムは赤く腫れた目で見つめられ、居ずまいを正した。
冷たい風が通り過ぎた。顔にかかった髪を耳にかけてアダムの回答を待った。
また風が吹き、永遠の髪を乱したが今度は気づきもしなかった。
「…そうですか。ひとつだけお願いがあります」
アダムは頷いた。
「あなたは娘のようなものだ。なんでもいいなさい」
「私の心を読んで下さい」
アダムが言葉に詰まった。
「そんなことをいわれたのは初めてだよ」
「そのときが来たら、クリスチャンに伝えて欲しいんです」
アダムには『そのとき』がなにを指すのかわかっていた。
「だがクリスチャンならば…」
今できる精一杯の笑みを浮かべた。
「彼は望んでいないんです。たくさんつらい思いをして、誰も信じることができないんだと思います」
「なんと。自分の息子ながらまったく嘆かわしい」
アダムは自分の手を見下ろした。
「僕がヴァンパイアに変えてあげることも出来るんだよ」
「永遠の命なんていりません。アダムさんに命を貰えば、彼の信頼を得るチャンスを失ってしまう。クリスチャンと共に生きられないくらいなら、私は―彼と過ごす二ヶ月を選びます」
永遠が手を差し出すと、アダムは息子の愚かさを呪いながら手を取った。
クリスチャンと同じ金の瞳が光を放つのを、今度ははっきりと見つめていた。
愛するひとへの最期の想いを託した。彼の思いに報いられないせめてもの償いになればいいと願いながら。
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