第15話 死を受け入れる

 冷たい。

 手足が痺れて、うなりをあげる水の中から浮き上がることなど不可能に思えた。

 『死ねば楽になれる』

 身体が水面を打つ前、誰かが耳元で囁いた。

 それとも自分の頭が生み出した幻聴だったのだろうか。

 今となっては知りようがない。 身体が水流に揉まれ、岩に叩きつけられてもなにも感じない。

 目の前に黒い点がちらついた。

 『死ねば楽になれる』

 私にとっても、彼にとっても。



 息を切らせたブリスが川岸に来たとき、花の生けられたカップはあったが永遠の姿はなかった。

 ウサギを放すと、冷たい川へと迷わず飛び込んだ。

「永遠!」

 水は凍るような冷たさだ。たとえまだ溺れていないとしても、このままでは凍え死んでしまう。

 早く見つけねぇと。どこにいんだよ、永遠。

 水面を見回しても荒れ狂う白い飛沫しか見えない。

「永遠!」

 七、八メートル川下に青いリボンの端が、一瞬だが確かに見えた。

 見つけた!



 クリスチャンは座り込み、モミの兄弟にもたれかかった。

 『ほかの女性と一緒にしないで』

 『あんたが守ってんのは永遠か? それとも、あんた自身か?』

 二人の言葉が甦ってきた。

 本当にそうなのだろうか。永遠はほかの女とは違うのか。わたしが間違っているのか。

 だが永遠と初めて会ったとき、わたしがヴァンパイアだと知っても恐れなかった。それどころか三ヶ月間わたしと過ごしたいといった。

 最初からヴァンパイアに変化することで死を免れようと企てていたからなのか。

 葉の隙間から空を見上げた。

 散々、永遠を責め立てておきながら、そんな打算的な女ではないと反論する自分がいた。

 わたしは永遠のことを守ってやりたいと思っている。彼女を傷つける誰からも、痛みからも―そして死からさえも。

 それならなぜ命を与えない?

 『ほかの女性と一緒にしないで』

 『あんたが守ってんのは永遠か? それとも、あんた自身か?』

 自分がわからなかった。

 彼女と初めて会った時のように、またしても混乱の渦に飲み込まれた。

 一度、芽生えた疑念は不安を糧にどんどん大きく育ってしまう。まるで何度抜いても生えてくる雑草のようだ。

 わたしのような怪物を誰が愛することなどできる。自分自身でさえ、この世に存在すべきでないと感じているというのに。

 信じることなどできない。人間が自分の利益のためならどれほど残酷に、非情に、無慈悲になれるか嫌というほど知っているのだから。

 目を草地に転じるとウサギが跳ねてきた。

 「お前はなぜここにいる。あいつはどうした? 永遠は…?」

 力いっぱい飛び上がった。



 「ゲホッ、ゲホ…」

 ブリスがやっとのことで永遠を連れて川岸に上がったとき、永遠の顔は死人のように血の気を失っていた。

 「永遠っ…」

 耳を永遠の口元に寄せた。

 自分自身のままならない呼吸の音がうるさくて、大事な音が聞き取れない。大事な女よりも、身体に酸素を送り込むことを優先する本能が腹立たしくてならない。

 自分の鼻と口を片手で押さえ、耳を澄ませた。

 息をしてない…!

 冷たい激流に揉まれた身体に鞭打って、冷たく強張った唇に命を吹き込んだ。

 頼む。頼むから死ぬな。俺にはお前が必要なんだ!

 「ゴホッ、ゴホッ、ゴホ…」

 その音は今まで聞いた中で一番美しい音だった。

 「あぁ、よかった! 神よ、感謝します」

 敬虔な性質じゃないのに、安堵のあまり意図せず擦れた声がもれた。

 大量の水を吐いたあと、永遠が目を開けてブリスを見た。

 「神様…。ここは天国なの?」

 「なにいってんだよ。こんなのが天国なら、地獄は目もあてられねぇぜ」

 永遠の服はところどころ裂け、色を失った肌にはいくつか青い痣が出来始めている。

 「くそっ」

 紫色の唇がかすかな笑みを形作った。

 「神様が汚い言葉を使ってもいいの?」

 「頭も打ったのか? 俺はただのウェアウルフだ」

 「美しいウェアウルフでしょ」

 身体を震えが襲った。冷えた体が熱を作り出そうとしている証拠だ。

 だが永遠は震えていない。それどころか目をとろんとさせ眠そうだ。

 「寝るな」

 永遠を抱き起こし身体をこすった。

 「すぐに暖かくしてやるから」

 「寒くない…」

 「バカ! それがだめなんだよ!」

 早くあっためねぇと。永遠は俺より長く水に浸かっていたし、体力もない。

 屋敷に戻ることが出来れば―。

 ブリスは永遠を抱き上げた。

 「これはどうしたことだ!」

 目の前にウサギの襟首をつかんだクリスチャンが現れた。

 「遅えよ。永遠が川に落ちたんだ。早く屋敷に連れてってあっためてやれ」

 永遠をクリスチャンに託した。

 それ以上無駄な時間を使わず、彼は瞬時にいなくなった。

 確かな重みを失い、空っぽになった腕が疼いた。見下ろせば濡れそぼる足に前足をかけたウサギがいた。

 「濡れちまうぜ」

 それでも脛に足をかけ駆け上がろうとしている。

 「抱けって? お前には野生のプライドってもんがねぇのか?」

 自力で上がることが不可能だと悟ったウサギは、奇跡的に流れに負けず残っていた靴をかじり始めた。

 「うわっ、やめろ。わかったよ。抱きゃーいいんだろ。せめておまえがメスならな。野郎を抱いたって楽しくもなんともねぇ」

 ウサギはブリスの腕に収まり、満足げに鼻を動かした。

 「ったく…あったけぇ奴」



 あったかい…。

 目を開けると白い湯気が立ち上っているのがわかった。

 「クリスチャン、もう大丈夫よ!」

 足音が遠ざかっていく。彼は足音とは無縁の人なのに。ぼんやりとそう思った。

 声のした方を見ると、服を脱いでいるジュリーがいた。

 無意識に目を逸らした。

 「どうして服を脱いでるの?」

 「こんなに大きいお風呂だから、あたしも入ろうと思って」

 ひどく体がだるい。

 ゆっくりと見回すと、同時に二十五人くらいがゆったりと入れそうなサイズは、ただのお風呂というには広すぎた。床や壁に使われているのは、きっと大理石だろう。

 いつも部屋のバスルームを使っていたから、こんな場所があるなんて知らなかった。

 「川に落ちたんですって? 気をつけなきゃだめよ」

 川…? 

 ああ、溺れかけたんだっけ。だけどブリスが助けてくれた。

 どきりとして身を起こした。

 「ブリスは?」

 「あの美形君ならさっき戻ってきたわよ。イイ男よねー」

 よかった…。

 「温まるわねぇ」

 手足を伸ばすジュリーとは対照的に、膝を抱えて身体を隠そうとした。

 「恥ずかしがらなくてもいいじゃない。女同士なんだから。それに服を脱がせたとき、あなたが隠そうとしてるものはもう見ちゃったわよ」

 ジュリーがにやりとしてこちらを向いた。

 「永遠って意外と胸が大き―」

 「やだ!」

 恥ずかしさのあまりブクブクと鼻まで湯に沈むと、ジュリーが笑い声を上げた。

 「クリスチャンだって男なんだからきっと気に入るわよ…それとももう見せたの?」

 顔がとても熱かった。

 お湯に浸かりすぎたせいだと思ってくれるといいけど。

 「その反応ってことは、彼は知ってるのね?」

 「違うのよ。それはあなたが思っているようなことじゃなくて、熱を出したときに彼が身体を拭いてくれただけで…だから、違うのよ!」

 「へぇー、まぁあたしが口を出すことじゃないけど。それより喉、渇かない? あなた、顔が真っ赤よ。元気になったみたいで良かったわ」

 ジュリーは大きな声でキティーを呼んだ。

 下を向いたキティーがいそいそとグラスを持ってきた。

 「ありがとう」

 元はお金持ちだったらしいジュリーは仕えられることに慣れているのだろう。くつろいでグラスを傾けた。

 「あの…お嬢様、のぼせないうちにお上がりになるようにと、クリスチャン様が」

 視線を逸らせたままキティーがバスタオルを広げた。

 タオルに手を伸ばした永遠を横目で見て、ジュリーがグラスに口につけたまま言った。

 「同性のあたしに見られるのは恥ずかしがるのに、キティーは平気なの?」

 「どういうこと?」

 キティーは全く目を合わせようとしなかった。

 「気付いてなかったの? その子、男よ」

 「まさか―嘘よね?」

 キティーは唇を噛んで、命綱のようにタオルをぎゅっと握りしめている。

 どうして否定しないの?

 「だってこんなに可愛らしい顔をしてるの…に」

 事態を悟った顔を見てジュリーは頷いた。

 「そうよ。たぶん顔のせいでしょうね。イヴが女の格好をさせてるのよ」

 キティーの身体は哀れなほどに震えている。

 自分が裸なのも忘れて湯から上がり、キティーの拳に手を重ねた。

 「あぁ、キティー、かわいそうに」

 ありきたりな言葉しかかけられない自分が歯がゆい。

 「ぼっ、私はずっと、お嬢様に嘘をついていました。ぶたれても、罵られても仕方ありません」

 思い返せばキティーは何度も言い直していた。『僕』といいかけて『私』と。

 アイデンティティーを踏みにじるなんて、あのひとはなんて残酷なことをするのだろう。

 「あなたのせいじゃないんだから、責めたりしないわ」

 頬を染めたキティーが遠くを見つめながら永遠にタオルをかけた。

 「…湯冷めしてしまいます」

 つられて頬を染めた。

 「ねぇ、キティー。私の前では無理して私っていわなくていいからね」

 タオルが落ちないようにぎゅっと端を掴んだ。

 「ですが、それでは―」

 「いうとおりにした方がいいわよ。永遠ってか弱そうに見えて頑固だから」

 ジュリーは空になったグラスを風呂の淵に置いた。

 キティーはおずおずと頷いた。 

 「ありがとうございます」

 「あのね、もうひとつだけ聞きたいことがあるんだけど、いい?」

 「はい、なんなりと」

 タオルの端を弄び、ちらりとキティーを見た。 

 「ブリスのこと好きなのよね?」

 キティーは耳まで赤くなった。

 「…はい」

 もう嘘はつくまいと考えているのだろう。蚊の鳴くような声で答えた。

 引き伸ばすのはかわいそうに思い、早口で告げた

 「別に非難してるんじゃないのよ。私、応援してるんだから」

 キティーのすがるような潤んだ瞳が必死さをあらわにしている。

 「男が男を好きになるなんて、気持ち悪いとお思いにはなられないのですか?」

 「いいえ。人はみんな違うものよ。違って当たり前。だからこそ相手を理解したいと思うし、歩み寄ろうとする…クチュン!」

 ジュリーがゲラゲラと笑った。

「永遠ってちょっと残念なところもあるのよね」

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