第13話 ピクニックに行く

 部屋に戻るとブリスがベッドに転がっていた。

 「よかった。外へ行ったんじゃないかって、探しに行こうと思ったのよ」

 クリスチャンが鋭い眼差しをよこした。

 「もちろん、一人で行くつもりではなかったのだろうな? 君は命を狙われているのだから」

 「えぇ、もちろんよ」

 おかしなことにクリスチャンはその返事を聞いて、さらに目をすがめた。

 「キティーがお薬をくれたの。彼女、とても心配してたわよ」

 「彼女…? なんでもいーけど薬はいらない…もう治った」

 ブリスのベッドに腰掛けた。

 「本当に? それはよかったわ。じゃあさっきココアを飲めなかったでしょ。キティーが淹れてくれたんだけど、とっても美味しかったの。貰ってきてあげるわ」

 ブリスが腹を押さえて呻いた。

 わざと顔をしかめて有無を言わさぬ口調を用いた。

 「大人しく薬を飲みなさい。ごまかしたって無駄よ。あなたは嘘が下手なんだから」

 クリスチャンのむせるような声が聞こえた。

 「なにか?」

 目を細めて見ると口元がひくついていた。

 「いや別に」

 ブリスはさらに小さくなろうと苦心していた。

 「やだ。薬なんかいらない」

 なら、しかたがない。

 「じゃあこうしましょう。あなたが私のいうことを聞いて薬を飲んだら、私はあなたのいうことを一つ聞くわ。なんでもね」

 クリスチャンの笑みが凍りついた。

 「だめだ。こいつがなにをいうか君にはわからないのか? そんなことはわたしが許さない」

 「…ほんとになんでもいいの?」

 ブリスの声はかわいそうなほど弱々しい。

 「もちろん。薬を飲んだらね」

 クリスチャンとは対照的ににっこりした。

 「じゃあ永遠と―」

 「だめだ!」

 クリスチャンが叫んだ。

 「ブリスはまだなにもいってないわよ。せめてなにかを聞いてからにしたら?」

 クリスチャンに睨みつけられた。

 「だめだ。こいつは『永遠と』といったのだぞ。君となにかをしようなんてわたしが許すと思うのか」

 ブリスが毛布をかぶった。

 「薬、飲まない」

 ほら見てとブリスの方へ手を振った。

 「こいつが薬を飲もうが飲むまいが、わたしにはどうでもよいことだ。二日酔いなぞ放っておけば治るだろう。だが君が関わってくるとなると話は別だ」

 ため息を吐き、毛布に手を当てた。

 「ブリス、頼みごとをさっさといって」

 「永遠とキスしたい」



 クリスチャンが口を挟む間もなく、彼一人にとっては新たな難問が持ち上がった。

 「いいわ。なら先に薬を飲むのよ」

 いいわだと?

 だめに決まっているだろう!

 こいつのいうことなぞこんなことだと思った。まあ、考えていたよりはマシだったが、それでもわたしもしたことがないのに、よくもそんなことを。

 永遠が自分のサイドテーブルの水差しから水を注いでブリスに渡した。

 ブリスは彼女の気が変わらぬうちにと、さっきまで渋っていたのが嘘のように、一瞬で薬を飲み下した。

 「うえー、まじぃ」

 期待のまなざしを永遠に向け、手の甲で唇を拭った。

 「約束…?」

 永遠はいたずらっぽく頬を膨らませた。

 「嘘はつかないわ」

 永遠がブリスに近づいた。

 「だめだ、だめだ、だめだ! 君はまだ十八だろう。キスなんてまだ早い」

 「お父さんみたいなこといわないで。私はもう十八歳なの。ブリス、目を閉じて…」

 お、お父さん! わたしはまだそんな歳では…。

 ブリスが目を閉じると、クリスチャンのひるんだ隙に永遠が唇を押し当てた。

 それを見たクリスチャンは目をぱちくりとさせ、ブリスは手を頬に当てた。

 「これ、キス―」

 「約束は守ったわ」

 永遠は腰に手を当てた。

 「もしかして、永遠ってしたことねぇ…の?」

 「下手だった?」

 髪で顔を隠した永遠を見てブリスになんとかするように視線で促した。

 「いや、あー…悪くはなかった」

 永遠がぴくっとした。

 「…悪くはなかった?」

 ブリスを睨みつけ、もっとなにかをいうように手を振り動かした。

 「てか、よかった。けど俺はそーいうんじゃなくて、もっと大人な感じのを想像してたから」

 頬の染まった顔があらわになった。

 「それって口と口ってこと? それはだめよ。私、今まで誰かを好きになったことはなかったけど、もしするなら好きな人とって決めてるんだもの」

 顔が赤くなっていなくとも、永遠が饒舌になっていることから、恥ずかしがっているのがたやすくわかった。

 ブリスが肩をすくめた。

 「それさ、クリスじゃなくて俺の方、向いていって欲しかったな。だってこいつのほう見てるって事は初めてはこいつとしたいって、もっといえば、こいつのことが好きだっていってるようなもんだぜ」

 今度は髪で顔を隠さなかった。

 リンゴの様な頬をして、すぐに彷徨いそうになる視線をクリスチャンに固定しようと一生懸命だ。

 「…そうよ。クリスチャンが好き。だから、クリスチャンとならしてもいぃ…」

 尻すぼみになった言葉もクリスチャンの耳にはしっかりと届いた。なによりそのひたむきさに胸が温かくなった。

 「君の大切なものを与えようと思ってくれて嬉しいよ」

 ブリスが身を乗り出した。

 「なぁ、これってキスの話だよな? してもいいってキスのことだよな…?」

 「うん?」

 クリスチャンと見つめあったまま、永遠は上の空で返事をした。

 「ブリス、具合がよくなったんじゃない?」

 「えっ? ああ確かに」

 「じゃあピクニックに行きましょう」

 「えっ、なんで急に? ごまかそうとしてるだろ」

  永遠の頬がようやくもとの白さに戻った。

 「ピクニックに行きたくなっただけよ。美味しい物をたくさん持って、ね? よし決まり。行きたい人の方が多いもの」

 「永遠だけじゃね?」

 「クリスチャンもよ。でしょ?」

 二対の目がクリスチャンに向けられた。

 こんな目で見つめられては拒めるはずがない。

 「ああ。二対一だな」



 「クリスチャン、こっちー?」

 「ああ、そうだ」

 男二人並んで、あちこちつっつき回しながら前を歩く永遠を眺めていた。

 珍しく髪に結ばれている青いリボンが、歩みにあわせて揺れている。

 「永遠、すっごく楽しそうだな」

 「あんなにはしゃぐと後で疲れてしまうだろうに」

 「おぶってやればいーよ」

 ずっと先を行っていた永遠が、道の脇にしゃがみこんでせっせとどんぐりを拾っている。森の中には永遠だけでなく、木の実を集めているほかの生物がたくさんいた。

 「あんなの拾ってどーすんだろ? 普段は大人びて見えんのにときどきすげぇ子供みたいだよな」

 「親を早くに亡くしているから、きっと子供時代が抜け落ちてしまったのだろうな」

 本来ならば親に甘える時期を、大人になろうとすることに費やしてきた彼女の心の奥には、子供らしさが封じこめられていて、なにかの拍子にひょっこりと顔を出すのだ。

 だがそんな一面を見せてくれるほどに信頼してくれていると思うと嬉しいものだ。

 「まだ真っ直ぐー?」

 「そうだ」

 ブリスが優雅に乱れた髪を揺らして頭を振った。

 「左右に道ねぇのにどこ曲がるつもりなんだ?」

 ポケットをどんぐりでいっぱいにした永遠が、また面白そうなものを探して駆け回っている。

 「あまり走ると転ぶぞ!」

 「はーい、パパ」

 笑い声が風に乗って運ばれてきた。

 「パパだってさ」

 大きな口でニヤニヤしているブリスを睨みつけた。

 そのまま口が裂けてしまえばいいのだ。

 ひとしきり楽しんだブリスが感慨深そうにつぶやいた。

 「冗談もいうようになったよな」

 「お前の方がわが子の成長を喜ぶ父親のようだぞ。第一お前は永遠と知り合って間もないだろう」

 「なんか守ってやんねぇとって思わせるんだよな。てか、あんただってそんな変わ・・なにやってんだ?」

 ブリスの言葉に促されて前を向くと、彼女は暗い茂みに向かって手を伸ばしていた。

 またなにか危険なものに手を出しているのではないだろうな。

 前は自分よりも大きな狼に手を差し伸べていたのだ。今度はどんな凶暴なものに触れようとしているのかわかったものではない。

 「今度はなにを見つけた?」

 「きゃっ」

 ビクッとした永遠に驚いた茶色い毛玉が茂みの奥に消えた。

 「お願いだからそれやめて」

 永遠の後ろに一瞬で移動したクリスチャンは、胸を押さえた永遠に見上げられた。

 自分の目で危険がないか確認するまでは安心できなかった。だから以前に音を立てずに移動しないでといわれたのを忘れていた。

 「すまない。さっきのはウサギだな」

 質問ではなかったが永遠は答えた。

 「そうよ。あなたのせいで逃げちゃったわ」

 「捕まえてきてやろう。ここでそいつと待っていろ」

 側に来ていたブリスに食べ物の入ったバスケットを渡すと、クリスチャンも茂みに消えた。

 「ちょっ、いいわよ。捕まえるなんてかわいそ―」

 「ほっとけよ。あいつは永遠にいーとこ見せてぇんだよ」

 ブリスが鼻をひくひくさせてバスケットの蓋を開けた。

 「うまそー。どれどれ」

 「食べちゃだめよ。まだ目的地についてないのに」

 彼は耳を貸さず、サンドウィッチを一口頬張った。

 「けど腹減ったし、もう食っちまった。クッキーもあるぜ」

 ほらとクッキーを口元に差し出されて、甘い香りを嗅いでしまっては誘惑に抗えない。

 甘いものに目がないのを知っててわざとやったわね?

 パクリと頬張るととても美味しかった。

 「これで永遠も同罪だな」

 ブリスが口を動かしたままニヤリとした。

 「疲れちゃったし、ここに座ってましょ」

 モグモグとサンドウィッチを腹に収めているブリスに探りを入れることにした。

 「それ、キティーが作ったのよ」

 「ふーん」

 反応が薄い。何事も思い通りにはいかないものだ。

 胸元に下がった月のペンダントを弄んだ。すでに癖になりつつあるこの行為で思い出した。

 「パーティーのとき、私はドレスのことをクリスチャンのおかげだといった。なのにあなたはなにもいわなかったわね。なぜ?」

 ブリスが口に運んでいたサンドウィッチを下ろした。

 「気付いてたのか?」

 「後でだけどね。あなたがクリスチャンにいったんじゃないの? 着るドレスがないって」

 「あぁ…。すごいな、永遠って」

 ブリスは笑った。だが悲しそうな目をしていた。

 「どうして自分のおかげだっていわなかったの?」

 ブリスが視線を膝に落とした。

 「俺が買ってやったんじゃないから。俺はクリスにいっただけ。町まで行って金を出したのはあいつだから」

 永遠はクッキーをひとつ取り出し、ブリスの口にそっと押し込んだ。悲しい気持ちは甘いものがほんの少し癒してくれるのを知っているから。

 「おバカさんね。だから私があなたに感謝しないとでも? あなたがクリスチャンにいわなければ、私は素敵なドレスを着ることは出来なかったのよ。ありがとう、ブリス」

 「いや、あ…どういたしまして」

 口をモグモグさせるブリスは、永遠にはわからないなにかを感じ取って顔を上げた。

 「捕まえたぞ、ほら」

ぶらーんと目の前に突き出されたウサギは、クリスチャンに襟首をつかまれ変な顔をしている。

 そろそろと手のひらを上に向けるとウサギが下ろされた。

 「あったかくてかわいい」

 「オスだぜ、これ」

 ブリスがウサギの耳を引っ張った。

 「えっ、そうなの? どうしてわかったの?」

 同じくウサギの耳を突っついた。

 「…それ俺に聞くの? 男と女の身体の違いくらい知ってんだろ」

 「あぁそういうこと。ペットなんて飼った事ないから、動物は別なのかと思ってたわ」

 思わず視線がブリスのズボンを彷徨い、気づいた彼は慌てて視線の先を手で覆った。

 ウサギは警戒して当然なのに永遠の膝の上でされるがまま大人しくしていた。

 「君はブリスといい、野ウサギといい、動物に好かれるな」

 「俺は動物じゃねぇ!」

 笑顔を向けると強張っていたブリスの顔がほころび、もごもごとつぶやいた。

 「まぁ半分は狼だけど」

 「この子、ウェアラビットってことはないわよね?」

 「いや、そんなのいないから」

 ブリスの言葉に安堵したのもつかの間、蓋が開いたままになっているバスケットに気づいた。

 「ごめんなさい。先に少し食べてしまったの」

 「気にしなくていい。君が食べる分には嬉しい限りだ」

 クリスチャンが握った手の甲でウサギの頭を撫でると、表情があるのかはわからないがムスッとしたように見えた。

 「名前はつけねーのか?」

 「うーん、逃がしてあげたほうがいいと思うわ。かごの中に捕らわれるよりも、自由に走り回っていたいだろうし」

 ブリスにサンドウィッチから抜いたレタスを渡された。

 「本当にいいのか? やってみろよ」

 ウサギの口元にレタスを差し出すと、しばらく鼻をひくつかせてからシャクシャクとかじり始めた。

 「で、名前は?」

 訳知り顔でにやりとするブリスがたずねた。

 ずるいんだから。

 ブリスのせいで放したくなくなってしまった。フニフニと揺れる肉のつきすぎた頬をつついた。

 「ウサギちゃん」

 「まんまだな。それに永遠って性別気にせず名前つけるよな」

 「気に入らない・・・?」

 ブリスは「ブリス」という名前が嫌だったのかもしれない。

 「いや、気に入ってる。ごめん、変なこといった」

 ブリスもなにを問われたのかわかったようだ。

 クリスチャンに頭を撫でられた。手のひらで、ウサギにしたよりもずっと優しく慈しみをこめて。

 「行こうか。君たちは違うかもしれないが、わたしはまだピクニックをしていないのでね」

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