第12話 脅迫状
隣に手を伸ばすとシーツに触れた。
冷たい…。
彼はとっくの昔に目を覚ましたようだ。私も起こしてくれればよかったのに。
冷たいベッドで、少しでも温もりを得ようと毛布に包まり膝を抱えた。
昨夜、彼は私を愛していると言葉にこそしなかったが、そういったも同然だった。だが皮肉なことに愛することはできても、自分は愛されるはずがないと信じているようだ。
それは過去の経験のせいなの? ジョセフィーヌを愛していたのに、彼女はクリスチャンを真には愛していなかったから? だが彼はジョセフィーヌに、自分がヴァンパイアであることを隠していた。彼女は真実を知ったとき弄ばれたように感じたのではないだろうか。だから思ってもいない言葉を浴びせたのかもしれない。
私だってこの命の終わりを知っていなければ、彼に心を許そうとしただろうか。彼がヴァンパイアであるというだけで、どんなに優しい人かということも知らないで、彼を恐れたのでは? それこそ彼の心を頑なにさせた原因ではないの? 狩るものと狩られるもの、立場の違いが彼を苦しめているのではないの?
私はクリスチャンを愛している。彼が人間でなくともかまわない。ヴァンパイアである彼を愛しているのだから。
まだ口にしたことはないけれど、心臓がときを刻んでいるうちにこの気持ちを伝えよう。
彼のためなら残り少ないこの命さえ、躊躇なく投げ出せるのだと。
私の愛で彼の間違いを証明してあげよう。
「グー…」
もうひとつのベッドにはブリスが大の字になって眠っていた。
窓に目をやると外はまだ薄暗く、視界に入った赤色が映えた。
脱いだままだったはずのドレスがきちんと畳まれており、その上に一輪の赤い薔薇が置かれていた。
クリスチャンかしら?
背の高いベッドから飛び降りて薔薇に手を伸ばした。
「っ!」
一粒の鮮血が噴き出た指を口に入れた。
カーペットに落ちた薔薇を見ると棘がびっしりとついていた。まがまがしいそれは次の獲物を狙っているようにも見える。
彼じゃない。
視線を薔薇が置かれていた場所に転じると、さっきは隠れていて見えなかったカードがあった。
恐る恐る指先でカードを持ち上げ、開いた。
クリスチャンからの贈り物ではないという根拠がそこにあった。
『クリスチャンに近づくな。さもなくば殺す』
ともすれば血と見まがうような赤黒い字で書かれていた。
部屋の扉が開いた音に、慌ててカードを後ろに隠した。
「クリスチャン、おはよう。早く起きたのね。私も起こしてくれればよかったのに」
クリスチャンは金の瞳でじっと永遠を見つめていた。
「よく眠っていたから」
「ああ、そうね。確かによく眠ったわ。だって昨日はパーティーだったんだもの。疲れていて当然じゃない?」
クリスチャンはなにもいわずに、なおも永遠を見つめていた。
「…えっと、それなに?」
クリスチャンの手に握られたマグカップを指そうとして手が塞がっているのを思い出し、視線で示した。
「ココアだ。今日は冷えるから」
「ココアって大好き。寒い日はよく母がココアを作ってくれたわ。そうじゃないと私がベッドから出ないものだから」
「お優しい方だったのだな。君のお母上は」
「えぇ。私だったら布団を剥いで、耳元で起きなさいって叫んでやるのに」
静かな時間が流れた。
必死に次の話題を考えていたのが、たった数秒だったとしてもとても長く感じられた。その痛いほどの静けさを破ったのはクリスチャンのため息だった。
「永遠、君の話を聞いているのは楽しいが、もう終わりにしないか? ごまかしても無駄だ。なにを隠した?」
「なにも隠してなんかないわ」
目を逸らして下唇を噛んだ。
嘘はつきたくない。でもこんなものを見せたら…。
「わたしがヴァンパイアだということを忘れたのか? 力ずくで奪うことも出来るのだぞ。君が嫌がることはしたくない。だが君を守るために必要ならば躊躇しない。それはわたしが忌むべきものなのだろう?」
乾いた唇を湿らせた。
「どうしてそう思うの?」
クリスチャンはかぶりを振った。
「ココアが冷めるぞ」
一歩も引かない構えの彼がマグカップを差し出した。負けを悟り、件のカードと引き換えにココアを受け取った。
「ただのイタズラだと思うわ」
ココアをすすりながら、万に一つの可能性に賭け、同意を促した。
「怪我もしているのにか?」
「ケガ?」
カードから視線を上げたクリスチャンの目が爛々と光っていた。
「君の血の匂いがする」
あぁ、忘れてた。
「見せて」
血の滲んでいた傷は彼の舌が触れるとすぐに癒えた。
「誰だ? 誰がこんなことをした?」
クリスチャンの牙が伸びた。
「落ち着いて。薔薇の棘が刺さっただけだから」
その言葉を聞くと彼は血相を変え、牙がすっと引っこんだ。
「それは今どこにある?」
落とした薔薇が見えるよう右にずれた。
「あっ、気をつけて。棘がついてるから」
彼はすでに汚らわしいものかなにかのように花びらの部分を指先で摘まみ、目をすがめて観察していた。
かと思うとさっと立ち上がり、つかつかとブリスのベッドに近づいた。
「おい起きろ。我々は結束しなければならない」
彼は毛布を剥ぎ、永遠のいった寝ぼすけを起こす方法を実践して見せた。
「いつまで寝ているつもりだ? この役立たず」
「うー、大きな声出すなって。頭いてー」
「ココア飲む? 半分飲んじゃったけど…それともお水の方がいい?」
頭を抱えたブリスが差し出されたマグカップをじっと見つめた。
「半分飲んだ? …ならもらう」
ブリスはひと口飲んだ後、こくりと唾を飲み込んだ。
「永遠の命が狙われている」
「それは大げさじゃない? たかがカードと薔薇くらいで」
クリスチャンはブリスの前に棘つきの薔薇を突きつけた。
「また薔薇かよ」
ブリスはベッドに倒れこんだ。
「またってどういうこと?」
クリスチャンが館の薔薇や亡霊のことを教えてくれた。
「君には話すつもりはなかった。無駄に怖がらせるだけだからな。だがこうなっては、知っていた方が君自身気をつけられるだろう。もちろん我々が常に守るが」
「…でもあなたのことを好きになった人が、私に嫉妬しているだけかもしれないじゃない?」
クリスチャンが物憂げに茎を指先でひねり、薔薇を回転させた。
「それならなぜ直接わたしにアプローチしない? 君を蹴落としたところで、わたしがその女を気にかけるようにはならないぞ」
確かにその通りだ。同意の印に頷いた。
ブリスが胃を押さえながら口を開いた。
「けど、相手が亡霊ならどうやって永遠を守んだ?」
クリスチャンは脚を指先でトントンと叩いている。
「…わからない。そもそも本当に彼女の仕業なのだろうか? これまで脅迫状をよこすような回りくどい事はしなかった。薔薇を切ろうとした女の指を切―」
ブリスがわざとらしいくしゃみをした。
「―とにかくもっと直接的だった」
ブリスは髪をクシャクシャとかき回した。
「けっきょく俺らが永遠を守りゃーいいんだろ。なんでもきやがれてんだ。俺がやっつけてやるさ。けど今は―ギブ!」
ブリスが部屋を飛び出し、扉がバタンと閉まった。
「だいじょうぶかしら?」
ブリスが一口しか口をつけず、サイドテーブルに置きざりにされたマグを覗きこんだ。
「やっぱり二日酔いにココアは合わなかったのね」
クリスチャンはいらいらした様子で永遠の手をとり注意を引いた。
「真面目に聞いてくれ。敵がわからない以上、我々は館に戻るのが得策だと思う。ここには生物が多すぎる」
手を握り返し、澄んだ瞳で彼の顔を覗きこんだ。
「それでどうするの? 私達は隠れて暮らすの?」
落ち着いたしっかりとした口調で告げた。
「私は毎日毎日、怯えて暮らすなんて嫌。まだやりたいことがたくさんあるんだもの。私、あなた達が守ってくれるって信じてるわ。それに、もし駄目だったとしても、別れがほんの少し早まるだけよ」
クリスチャンが両手で永遠の手を包み込んだ。
「もしは起こらない。わたしがそんなことはさせないから」
永遠はキッチンへと足を踏み入れた。
「お嬢様!」
コックや使用人が一斉に姿勢を正した。
「あっ、ごめんなさい。どうぞ皆さんお仕事を続けて下さい。私はただカップを返しに来ただけですから」
一人また一人と少しずつキッチンが動き始める中、キティーがおずおずと進み出た。
「滅相もありません。放って置いて下されば、私が片付けましたのに」
「そんなの悪いわ。すごくおいしかった。キティーが作ってくれたの?」
「…はい。お口に合って良かったです」
キティーは下を向いて手を揉み絞っている。
きっと恥ずかしがり屋さんなのね。
「あっ、そうだ。頭痛とか胃もたれに効く薬はある?」
「具合がよろしくないのですか?」
手を横に振った。
「私じゃなくてブリスがね。二日―」
キティーがぱっと顔を上げた。
「ブリス様が? 大変だ」
そういうと走って行ってしまった。
ブリスを見なかったか聞きそびれてしまったが、知っていればあれほど取り乱さなかっただろう。
「どうかなさいましたか?」
振り返るとエドモンドにじっと見下ろされていた。
「あ、今、キティーを待っていて」
彼の前に立つとなぜか落ち着かない。
眼鏡をかけた厳しい眼差しに、自分の欠点を見咎められているような気になるからかもしれない。
「キティーにお薬をもらおうと思ったんです」
この場所にいることになんとなく言い訳が必要な気がした。
だがエドモンドは表情ひとつ変えない。
「食あたりですか? もし必要ならば治療師を―」
「おっ、お嬢様」
キティーが息を切らして戻ってきた。
「これを、ブリス様にお渡し下さい」
小さな包みを受け取った。
「早くよくなられると良いのですが」
キティーはまた手を揉み絞っている。
もしかして、キティーはブリスのことが…。
「そうね、ありがとう。あっ、エドモ…」
振り返るとエドモンドの姿はなかった。
首を傾げたが、部屋に戻るころには無表情な執事のことは忘れ去っていた。
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