第7話 孤独な遠吠え

 広間に戻ったクリスチャンはブリスを目にして眉を上げた。

 「で、お前はなにをしている? とっくの昔に出て行ったものと思っていた」

 まったく忌々しい容貌だ。女なら誰でもなびくだろう。世界中の女がこいつに気を持とうがわたしにはどうでもいいことだ。

 だが、永遠は別だ。永遠はわたしのものだ。

 「永遠の食事を用意すんだろ? 俺も手伝ってやろうと思って」

 クリスチャンは鼻を鳴らし、キッチンへと向かった。

 「お前の分はないぞ。それをあてにしているなら」

 ブリスのペタペタという足音がついてくる。

 「あんたの作ったもんなんてこっちから願い下げだ」

 ブリスの声がワントーン低くなる。

 「あんた、永遠が全然食ってねーの知ってんのか? あんたが食えっていうほど、なにも喉を通らなくなってる」

 「…わかっている。それでも、そうするしかないのだ」

 ブリスは牙を剥いて唸った。

 「ほかにもっとやりようがあんだろうが」

 クリスチャンは黙ったままだ。後からキッチンに足を踏み入れた。

 「はぁ、だから俺が手伝ってやるっつってんだろ。だいたいあんた、なに作るつもりなんだよ?」

 ブリスはテーブルにもたれかかり、腕を組んだクリスチャンはシンクに寄りかかった。

 「ステーキでも焼こうかと」

 頬を張られたような衝撃だった。

 「冗談だろ? あんたが冗談をいうとは思えねーけど。マジで永遠がそんなもん食えると思ってんの?」

 「わからない。だが栄養はある。彼女に必要なのは滋養のあるものだ」

 「あんた、長いこと人と離れすぎたな。永遠に必要なのは…」

 チラッとクリスチャンに目をやったブリスは、彼がその答えを本気で知りたがっていることに気づいた。

 「フルーツだな。永遠は桃が好きだっていってたぞ」

 クリスチャンはブリスが答えを変えたことも、自分が知らない永遠を知っていることも気に食わなかった。

 「桃だと? そんなものでは食事とは呼べない」

 「けど、桃なら食えるかもしれねー。結局食えねーと意味がないんだぜ」

 クリスチャンは目をすがめながらもしぶしぶ頷いた。

 「いいだろう。では桃を買ってくるとしよう」

 そしてすぐにヴァンパイアの笑みを浮かべた。

 「その間、永遠には近づくな」

 対してブリスはニヤリとして鋭い牙をのぞかせた。

 「あんたに止められんのか?」

 一瞬でブリスの前へ移動し、顔を近づけた。

 「あまりわたしを刺激しない方がいいぞ。お前なぞ簡単に殺せる」

 ブリスは顔色ひとつ変えずにいってのけた。

 「なら急いで行った方がいいぜ」



 クリスチャンは五分もしないうちに大量の桃が入った紙袋を腕に抱えて戻ってきた。キッチンに入って荷物をテーブルに置いた。

 もちろんそこにブリスがいるとは思っていなかった。焦ることなく永遠のところに向かった。部屋の前には少しだけ扉を開けて中を覗いているブリスがいた。

 「本当に殺してやろうか?」

 音もなくブリスに近づき首に手をかけた。

 「ああ、早かったな。せっかく今から…」

 「黙れ」

 手に力をこめた。

 そのときなにかが注意を引き、二人は先を争ってベッドに駆け寄った。二人の人間離れした目には暗い闇の中でも永遠の真っ赤な頬がはっきりと見えた。それ以前に永遠の荒い息遣いが二人の聴覚を刺激したのだ。

 「永遠?」

 クリスチャンは恐る恐る永遠の頬に手を伸ばした。

 熱い。

 「すごい熱だ」

 「んなこといわれなくたってわかってるよ」

 ブリスは部屋を出て行った。

 クリスチャンは湿った頬に張りついた髪をそっと払った。手はそのままに目を閉じた。

 「あぁ、永遠、すまなかった。わたしの責任だ。君を苦しめてばかりいる」

 「やっとわかったのか。このバカ野郎」

 ブリスが部屋に戻ってきた。

 手には水の入った桶とタオルを持っている。それをサイドテーブルに置くとキルトをめくり永遠のワンピースのボタンに手をかけた。

 「おい、なにをしているっ!」

 クリスチャンはその手を握りつぶさんばかりに掴んだ。

 「汗を拭かねーと。冷たい水で拭けば熱が下がるだろうし。狼だったら母親が子どもを舐めてやるんだけど」

 ブリスがちろりと舌を出した。

 眉を寄せるという簡単な方法で不快を表した。

 永遠を見下ろすと胸が激しく上下していて、ほんの少し手を下げるだけでそのふくらみに触れてしまいそうだ。

 「それならばわたしがやる。お前は部屋から―」

 「俺がチャンスをやったんだぜ。せめて見るくらいはいいだろ?」

 熱に浮かされた永遠が抗議するようにうめき声を上げた。

 「あぁ永遠、すぐ楽にしてやるからな」

 クリスチャンは並んだボタンを外し始めた。

 ブリスは脇に立ち、なにも見逃すまいと目を見開いていた。

 手が永遠の胸をかすめるとブリスが囁いた。

 「なあ、どんな感じだ?」

 完全にブリスを無視した。

 ついにすべてのボタンが外れた。ワンピースがわかれ、汗ばむ身体があらわになる。その身体と白い清楚な下着の対比が意図せずエロティックだった。

 「エロ…」

 ブリスの言葉にもっともだと思った。その反面、抵抗できない相手に対してそんなことを考えている自分を下劣にも感じた。だからそれからはただ黙々と作業に専念した。

 拭き終えたときには頬の赤みが少し引いていた。

 効果があったのだろうか。だが服を脱がせてもなんの反応もなかったことに心配はいや増した。

 「わたしは風邪なぞひいたことがない。ほかにはなにをすればよいのだ?」

 気に入らなくとも今はブリスに頼るしかない。

 「そーだな。普通は食って寝りゃー治んだけど、永遠は体が弱そうだから薬も飲ませた方がいいんじゃねーかな?」

 口答えせずに頷いた。

 「そうだな。では薬を」

 そそくさと部屋を出ようとしたところをブリスに引き止められた。

 「慌てんなって。ここが問題なんだよ。薬の前になにか食わせねーと」

 普段から食の細い永遠に食べさせるのは至難の業だ。ましてや風邪を引いて食欲がないとなると…。

 「わかった。桃も持ってこよう」



 クリスチャンが必要なものを手に部屋へ戻ると、ブリスはなにをするでもなくただ永遠の傍に立って見下ろしていた。

 クリスチャンに気づくとその表情は消えたが、その前にすでに目にしていた。

 大切なものが傷つくことの苦痛の表情を。自分の痛みには耐えられても、相手のそれは耐え難い。

 あえてクリスチャンはなにも言わなかった。彼自身も馴染み深いそれに見合う言葉など、到底在りはしない。ただ腕にかけた自身のシャツとズボンをブリスに投げた。

 「着ろ。いつまでもそのままうろつかれると目障りだ」

 服を受け止めたブリスは腰にタオルを巻いただけの自分の姿を見下ろした。

 「実は興奮してたりして。本当はあんた、男が好きなんじゃねーの?」

 クリスチャンは鼻を鳴らした。

 「たまらないね」

 ブリスはにやっとして、タオルを落とし服を着込んだ。なにも見られていなかったことに安堵しながら。

 クリスチャンは気にも留めず、永遠の傍に腰を下ろし見つめていた。また熱が上がったようだ。頬が赤く、息をするのも苦しそうだ。額のタオルは熱を吸い、温くなっていた。

 桶の冷たい水で清めなおしタオルを額に戻した。

 「永遠」

 呼びかけに反応はなかった。

 指先で熱い頬をなぞり、この熱を吸い取ってやれたらと願った。

 「永遠、桃を買ってきたのだ。一口だけでも食べられないか? そうすれば薬を飲んで、君を苦しめる熱を下げられる」

 皿に盛った桃の一切れを永遠の唇にあてがった。桃の果汁が乾いた唇を濡らした。

 すでにブリスも着替え終え、ベッドの脇に膝をついて見守っていた。

 永遠の赤い舌先が口の間から覗き、唇についた果汁を舐めた。

 「おいしい…」

 永遠の口からこぼれた言葉に二人は顔をほころばせた。

 さらに桃を押し当てたが、舐めることはすれど実をかじることはない。

 咀嚼するだけの体力もないのか。クリスチャンはいぶかった。

 クリスチャンはその実を小さくかじると、唇を永遠の唇に重ね合わせ実を彼女に譲った。頭の傍でブリスの騒ぐ声が聞こえる。唇を離した後も額と額を合わせて飲み込めと念じた。

 ゆっくりと喉が動くさまに目頭が熱くなった。

 熱に浮かされ、どんよりとした目が開いた。

 「…うつっちゃう」

 「心配しなくていい。わたしはヴァンパイアだぞ。人間の病には罹らない。それよりもう少しだけ起きていられるか? 薬を飲むのだ。そうすればすぐ楽になる」

 永遠のまぶたが落ちかけた。

 クリスチャンは慌てながらもゆっくりと永遠を起こすと、肩を支え薬を飲ませた。

 たったそれだけの行為で彼女はぐったりとベッドに身を沈めた。

 クリスチャンが椅子に腰掛け、もう一度タオルを変えている間に、ブリスはベッドの向かい側に椅子を持ってきて座った。

 そのまま二人は黙って眠る永遠を見つめていた。

 「食わないか?」

 ほんの少ししか減らなかった皿をサイドテーブルから取り上げた。

 ブリスは永遠から目を上げず、むっつりと答えた。

 「あんたの作ったもんは願い下げだっつってんだろ」

 クリスチャンはヴァンパイアの笑みを浮かべた。

 「永遠の食べかけが嫌なら、キッチンにいくらでも新鮮な桃が転がっているぞ」

 それは精一杯の休戦協定だった。

 「嫌味な野郎だな。あんた自分でわかってんだろ」

 クリスチャンは皿から桃を一切れつまみ口に入れた。ゆっくりと噛み締め、甘い果実を味わった。

 「もっと小さく切り分ければ良かった。わたしも気が利かないな」

 なにを思っているのか、ブリスはその様子をしばらく眺めていた。

 「ヴァンパイアってみんな陰気なの、それともあんただけ?」

 クリスチャンは桃をつついた。

 「どうだろうな。わたしにもわからない」

 一瞬ブリスに目をやったが、すぐに背けた。

 「永遠は、なにかいっていたか…?」

 「なにかって?」

 意味もなく桃を並べ替えた。

 「…わたしのことなど」

 ブリスは頭の後ろで腕を組んだ。

 「あんたに教える義理があるか?

 言い返す言葉もなく、ただ口元を引き締めた。

 ブリスはため息をつき、宙を見上げた。

 「でもまぁ、砂時計はよく眺めてたぜ」

 それが必ずしも贈り物を喜んでいたということにはならない。ただ残された時に思いを馳せていただけかもしれない。

 それでも望みを捨て切れなかった。今となってはそれが彼女との唯一のつながりかもしれないのだから。

 「そうか」

 ブリスは椅子の前脚を浮かせ、後脚だけでバランスを取った。

 「俺もあんたに聞きたいことがある。あの日、なんで俺を助けたんだ? あんたは俺がウェアウルフだってわかってた」

 「わたしではない、助けたのは永遠だ。あの時、もしわたしが手を貸さなかったとしても、一人でお前を救っただろう。わたしは彼女のためにしたのだ」

 ブリスはしばらく永遠を見据えた。

 「なら俺も永遠のためにいう」

 椅子の脚を四本とも床につけて身を乗り出した。

 「永遠は自分がここにいない方がいいのかもしれないっていってた」

 思いもしない言葉に目を見開いた。

 「そんなことはない! わたしは…」

 ブリスが片手を上げた。

 「俺にいってもしゃーねーだろ。最後まで聞けって。で、あんたなにいって永遠にそんなこと思わせたんだ?」

 思い当たる節があった。

 「…死ねる君がうらめしい、君と出会ったことがうらめしいと」

 あのときの言葉を繰り返すと、後悔のあまり身震いがした。

 わたしはなんてことをいってしまったのか…。

 ブリスはマジかよと呟き、クリスチャンを凝視した。

 「ほかには? それだけじゃねーだろ。それだって十分きついけど、永遠は自分がつらいからってあんたから離れてたわけじゃねー」

 クリスチャンは視線を彷徨わせた。

 「大した話はしていない。昔話をしただけだ、女のせいで長く館から離れていたことがあると」

 今度はため息をつくとブリスは永遠の熱い頬に手を当てた。そして額のタオルを変えるようクリスチャンを促した。

 「それだな。あんたがここにいられないようにはしたくなかったんだ。永遠はあんたに煩わしがられてるんじゃないかと思ってたんだよ。だからあんたの代わりに外に出てた」

 胸が締め付けられた。

 無理に笑わなくていいといったのに。わたしも彼女に無理をさせた。

 立ち上がったブリスはカーテンを開けて、闇に包まれた部屋に月明かりを入れた。

 「永遠が外でなにしてたと思う? 楽しく散歩でもしてたと思うか?」

 ブリスの口から小さな唸り声が漏れた。

 「木の下に座って一日中、ただ湖を眺めてんだぜ。俺がただの狼だと思って、たまにぽつぽつと思いを語るんだ。俺は知ってるから。そういう時、会話の相手は必要ないって。ただ聞いてくれる、温もりを与えてくれる相手さえいれば十分だって。だから俺は今まで狼のままでいたんだ。永遠が思いを吐き出せるように。だけど―もう限界だった。今日は俺にさえ何も話さなかった。落ちてくる雨粒を払いのけもしないで、黙って泣いてた」

 ブリスはすばやく振り返ると問いただした。

 「なんで永遠にひでー態度とってんだよ。あんたが気に食わねーのは俺だろ。答えろよ!」

 「…いえない」

 「いえねーんじゃなくて、いいたくねーんだろ」

 ブリスが睨みつけてきた。

 だがなにもいわず永遠に眼差しを注いだ。

 わたしになにがいえる?

 彼女の身にもしものことがあれば耐えられない。そしてそのもしもが起こるとすれば、それはわたしのせいだ。だからこそ、なんといわれようと口にすることは出来ない―少なくとも今はまだ。

 ブリスは舌打ちをすると足音も荒く部屋を出て行った。だが彼の苛立ちとは裏腹に扉はそっと閉められた。それはひとえに永遠のためだとわかっていた。

 二人きりになってもクリスチャンは永遠を見つめるだけだった。ただほんの少し椅子をベッドに寄せた。離れてしまったであろう心の距離を、物理的にだけでも縮めたかった。

 「アオーン…」

 狼の遠吠えが聞こえた。だがそれに答えるものはなく、物悲しく怒りに駆られたその声は、たった一人荒涼とした大地に置き去りにされた。

 クリスチャンはカーテンが開けられたままの窓を見やった。雲間から覗く明るすぎる青い三日月に、何もかも盗み見られている気がして金の瞳を閉じた。

 なにかを壊したい、傷つけてやりたいという欲求に駆られ牙が存在を主張する。

 だがこれまでもそうだったように、出来もしないことを望むよりも彼は今すべきことをした。

 一睡もせず太陽が月に取って代わるまで永遠を見守り続けた。

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