第6話 狼との再開
クリスチャンの様子がおかしい。
永遠はいぶかしんでいた。今まで優しい彼しか知らなかった分、余計にクリスチャンの機嫌の悪さが気にかかった。
最初は気持ちをさらけ出してしまったことが気恥ずかしいのだろうと思っていたが、それが数日ともなると心配せずにはいられなかった。
クリスチャンの思いを聞いた翌朝、ブリスとの散歩から戻り、いつものように朝食を用意した。そしていつものように三人で食卓に着いた。
だがいつも通りなのはそこまでだった。
普段のクリスチャンなら眉をひそめはすれど、なにもいわなかったのに、その日はブリスの食べ方にいちゃもんをつけ、ブリスをかばった永遠にもあたった。
そして彼は食事を残そうとした永遠に食べろと初めて声を荒げ、その直後に血相を変えてどこかへ行ってしまったのだった。
それから永遠は初めから自分の分は食事を用意しなくなった。もともとあまり食べていなかったのだから大した違いはなかったが。
こうして雨粒の滴る木の下で、寒い思いをしながらブリスに寄りかかっているのもそのせいだった。
今日はとりわけ彼は虫の居所が悪かった。永遠は慌てて雨のそぼ降る森へと、上着も、傘さえも持たずに飛び出した。
彼は私のことも不愉快な女だと思い始めたのかしら。だとしても私には日本に帰る手段も、帰りたいと思う理由もない。クリスチャンのいない場所に行く理由など。
だからせめて彼が館から出なくて済むように、一日のほとんどをこの森で過ごしていた。
頬に一粒、温かい雨が落ちた。永遠はそれを拭いもせず、ただ流れるままにした。
ここ数日してきたように薄いショールにくるまり湖を見つめた。湖はいつも変わらずそこにあって永遠の心を慰めた。朝から晩までずっと眺めていても飽きることはない。
それは常に違う姿を披露してくれた。今日は雨粒が水面を叩き、波立つ様子は何かに怒っているかのようだ。
「飽きないか?」
すぐ隣から聞こえた声に悲鳴を上げた。
美しい。この一言に尽きる男が永遠を見ていた。
その目はグリーンとゴールドで、ドラマッチックに額に垂れかかるカールした髪は艶のあるシルバーだ。だが一般に思われるような老けた印象は与えず、この男にはとても似合っていた。
クリスチャンをモデルと例えるなら、この男はギリシア彫刻だ。完璧に整った顔立ちは神の創造した最高傑作。
しかし男は裸だった。
慌てて目を逸らし、ショールを投げる。
「これを巻いて!」
後ろでさらさらとした音と、そんなに怒らなくてもとつぶやく声が聞こえた。頃合を見計らってためらいながら後ろに視線を向けると、男は背が高く、ショールは必要な部分を辛うじて隠しているだけだった。
それでも落ち着きを取り戻し、改めて男を眺めた。つくづく美しい男だ。罪深いほどに。不揃いの目もやはり彼の美しさに神々しさを添えるばかりだ。
「俺は気持ち悪いか?」
男の声に我に返った。ボーっと惚けたように男を見つめていたことに気づいて頬を染めた。
「なんですって?」
容姿に見とれていて男の言葉が頭に沁み込むまでに時間を要した。
「俺はおまえを気持ち悪くさせんのかって聞いたんだ」
男は眉を寄せ不安そうだ。
この男には目がないの? これほど美しいものなどいないだろうに。
目。そこで気がついた。
「あなた、ブリスと同じ目だわ!」
あたりを見回す前から結果はわかっていた。
ブリスはいなくなっていた。
「信じられない! あなたブリスなのね?」
「あぁ」
ブリスが悲しそうに件の目を逸らした。
誤解したままにはしておけない。注意を引こうと手を掴んだ。
「本当に自分が気持ち悪いと思ってるの? あなたほど美しいものを見たのは初めてよ。特にその幸運の瞳が。あなたが狼のときにもいわなかった?」
美しい瞳がまたこちらに向けられた。
「本当に? 俺は美しいのか? 気持ち悪くないのか?」
これほど神に愛された容貌に不安を持つなんて、いったいなにがあったの?
「本当よ、あなたは美しいわ。どうしてそんな風に思ったの?」
答えは得られなかった。
ブリスが掴んでいた手をいきなり引っ張った。裸の胸に倒れこむと、そのままぎゅっと抱きしめられた。
「好きだ」
耳元で囁かれた言葉は熱かった。
もう雨粒が水面を叩く音も、木の葉がこすれる音も聞こえない。ブリスのか自分のかわからないドクドクと騒ぐ鼓動の音しか。
「また永遠の下着姿が見たい。できればなにも着てない姿が」
唇からうめき声が漏れた。彼の胸を押して温かい腕から逃れた。
「わざとお風呂で水を撒き散らしたのね。私を濡らすために」
「あんなチャンスを逃すわけねーだろ」
にやっと笑ったブリスの口から白い犬歯が覗いた。その様子に彼が狼の姿をしていたことを思い出した。
「あなたは何者なの? 狼、それとも人間?」
ブリスが永遠の髪を弄んだ。
「両方。俺はウェアウルフだから」
「ウェアウルフ?」
髪を乱されたくないだけだと、心の中で言い訳をしつつブリスの手を掴んだ。
彼は片眉を上げて動きを阻む手に目をやった。
「いっとくけど狼男と一緒にすんなよ。あいつらは満月がねーとなんにも出来ない輩だ。ウェアウルフは自分の意思で姿を変えられる」
ブリスが指先で永遠の手の甲を撫でている。
自慢げに口角を上げる彼は無邪気であり、やはり美しかった。狼でいてくれる方が助かるわ。
ハッ、ハクシュン!
気づけば二人とも濡れそぼっていた。
「寒いんだろ? これ使えよ」
ブリスが腰に巻いたショールを外そうとした。
「いえ、いいの! 気持ちは嬉しいわ。だけど―外さないで!」
金切り声を上げて手で顔を覆った。好奇心が頭をもたげないわけではなかったけど。
「じゃあこうするしかねーな」
急に温もりに包みこまれたと思うと、またブリスの腕の中にいた。
「どうしてあなたは私より―薄着なのに、暖炉みたいに温かいの?」
ここから逃れることは拷問に等しい。少しだけ自分を甘やかすことにした。
「永遠への愛が俺の中で燃えてるから」
永遠は目を閉じてあの時と同じ言葉を口の中でつぶやいた。
まったく、なんてものを拾ってきたのかしら。
館の前で永遠は立ち止まった。
横にいるブリスを見て頭を悩ませた。この子には狼の姿に戻ってもらった方がいいのかしら? クリスチャンは機嫌がいいとはいえない。それなのに半裸の美しい男を連れて帰って、ブリスだといっても信じてはもらえないだろう。クリスチャンがどんな反応をするか神のみぞ知る、だ。
「ねえ、ブリス…」
「あいつのことなら気にすんなよ」
ブリスは中へ入ってしまった。ならばもうなるようにしかならない。永遠は胸を張って館に足を踏み入れた。
「永遠、雨なのにまた外へ行っていたのか? びしょ濡れではないか。早く着替えてきなさい」
クリスチャンはブリスを見てもなにもいわなかった。
「あの、クリスチャン、この人はブリスで実はウェアウルフだったの。それで…」
クリスチャンの揺るがぬ視線に射抜かれ、言葉が途切れた。
「着替えてくるんだ!」
ビクッとしてもごもごと謝罪の言葉を呟くと部屋へと逃げた。
「そんな言い方しなくたっていーだろ? 永遠はあんたのことを思って毎日毎日外に出っ放しだってのに」
クリスチャンはブリスをねめつけた。
「何様のつもりだ? お前に口出しされるいわれはない。第一お前はいつまでここにいるのだ?」
「いつでも出てってやるよ。永遠を連れて」
クリスチャンは嘲笑った。
「彼女がそれを望むとでも? そもそもお前に行くところがあるのか?」
ブリスは牙を見せた。
「あんたといたがるとは思わないね。現に永遠はほとんど外で俺と過ごしてた。あんたといたって傷つくだけだ」
互いに痛いところを突き、二人は睨みあった。
乾いた服に着替え、タオルを抱えた永遠が緊張の走る二人の間に飛び込んできた。
「ブリス、これで拭いて。あと服は…」
タオルを渡してクリスチャンにうかがいを立てた。。
「クリスチャン?」
「勝手にしろ」
「ありがとう。すぐに食事を用意するわね」
クリスチャンは意味ありげに永遠を見下ろした。
「その必要はない。今夜は君の血を頂く」
力任せに抱き寄せられた。
その様子に目をすがめ、ブリスはタオルをかぶるとガシガシと力強く髪を拭いた。
髪に手を差し入れられ頭を仰け反らせた永遠は、首筋にクリスチャンの温かい吐息を感じてぞくっとした。牙が埋められると目を閉じ、その唇からは喜悦の小さな声が漏れた。
クリスチャンは口を動かしながら視線だけを上げてブリスを見た。
見せつけるような仕草に、ブリスは舌打ちのあと目を逸らした。
飢えを満たすと、唇に残る甘い滴を舐め取ってから力の抜けた彼女を抱き上げた。
「部屋へ運んでやろう。食事はあとで持っていく」
頬をかすかに染めた永遠は頷くことしかできなかった。
食事のことなんてどうでもいいのに。もう彼の事務的な口調も気にならない。そもそもなにも考えられない。ただクリスチャンを感じ、彼の中に自分が取り込まれていくその感覚に頭がボーっとしていた。
ベッドに下ろされてキルトがかけられた後も、永遠はまだふわふわと揺れているような感覚を味わっていた。体が熱くて、彼の手が離れても心もとなく感じない。
クリスチャンは永遠にちらりと視線を走らせただけで部屋を出た。
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