第5話 誰もが傷を隠している

 館に戻ったときにはすでに東の空が染まり始めていた。

 永遠が起きて自分を待っていると思うほど自惚れてはいない。だが彼女が自分の部屋にいないというのは気に食わなかった。

 気持ちとは裏腹に眉一つ動かさず、クリスチャンは生命の感じられない部屋をあとにした。

 目を閉じ耳を澄ますと、ゆったりとした小さな鼓動と、大きく力強い鼓動が聞こえた。

 小さな鼓動を選んで、音を頼りに自分の部屋から廊下をかなり歩いたところにあるドアの前に立った。

 目を細めて、自分が通ってきた方角を見た。偶然なのか、ここは彼の部屋から一番離れたところにある。永遠に尋ねなくても、なぜその部屋を選んだのかわかる気がした。

 ドアに向き直り、必要もないのに静かに足を踏み入れた。



 永遠は眠っていた。

 柔らかなキルトをかぶり丸くなっている。見えるのは乱れた黒髪が少しだけ。

 ベッドの横に木製のイスを運んできて腰を下ろすと、呼吸に合わせて微動するキルトの塊に視線を落とした。

 クリスチャンは自分の願望に任せてそっとキルトをめくり、彼女の美しい顔をあらわにすると手の中の箱を弄びながら寝顔を眺めた。

 この目に彼女を焼きつけておきたかった。そのことに耐えられる強さがあるのなら、彼女がいなくなった後もその姿を眺められるように。

 本当にそんなことが可能だというのか?

 彼は自問した。

 永遠のまぶたが震え、視線が強すぎたのだろうと申し訳なく思っていると、ぼんやりした瞳が彼を捉えた。

 「帰ってきたのね」

 先ほどまでは彼女から視線をはずすことなど考えられなかった。

 だが今は気後れして手の中の箱に視線を落とした。

 「ああ…君にその、あげたいものが」

 永遠がベッドに起き上がった。彼女のために用意した白いナイトガウンが良く似合っている。

 「ああ、だが、その―」

 痺れを切らしたのか彼女が手を差し出すので、観念して箱を手渡した。

 「砂時計ね」

 精巧な細工の施された土台に、白い細かな砂の入ったガラスがはめこまれている。

 「きれいだわ」

 彼女の手の中で砂がさらさらと滑り落ちていく。

 その様子は美しくも儚い。まるで彼女の残り少ない時が、無常に失われていくことを暗示しているようだ。

 いまさらながら、なんとむごいものを渡してしまったのかと恐ろしくなる。

 「すまない。いらなければ捨ててかまわない。ただ店先で見かけて、それは君のものだと思ったのだ。それで…」

 永遠は首を振って話を遮り、笑いかけた。

 「とっても嬉しい、本当に。ありがとう」

 そういう彼女はとても美しかった。美しすぎた。

 「君は人間だ。そしてわたしはヴァンパイア。我々は決して共に生きてはゆけぬ」

 重い言葉を少しでも軽くしようと、クリスチャンははるか昔に見た若者の動きを真似て肩をすくめた。

 永遠は砂時計を手に黙って聞いていた。

 「永遠に生き続けるとはどういうことかわかるか? 死なぬということがどういうことか、君にはわかるか?」

 彼は自分がどんなに残酷な問いを発しているのかも気づかずに、空っぽの両手を見下ろした。

 それほど彼にとって苦しいことなのだろうと永遠は思った。

 「どんなことも抱えて生きていくのだ。痛みも、苦悩も、時と共に膨れ上がっていく。決してなくなることはないと知りながら、それでもただ時の流れに身を任せるしかない」

 目に見えない苦悩を握りつぶそうとするようにクリスチャンは両手を握り締めた。

 「わたしは二度、女を愛したことがある。一度目は恐らく三百くらいのころで、相手は司祭の娘だった。わたしたちは愛し合っていたが、彼女はわたしのようなものに惹かれる自分を憎んでもいた。わたしと共に生きようとはしなかった。ヴァンパイアになることなど敬虔な彼女には到底受け入れられるはずもなかったのだ。怪物になってわたしと永遠に生きるよりも、彼女は死を選んだ」

 クリスチャンは嘲笑う声を漏らし、感情のこもらない平坦な声で続けた。

 「二度目はその百年後くらいだろうか。あまり正確には覚えていない。そのころわたしは宮廷でジョセフィーヌという女に出会った。金色の髪に青い瞳の美しい女だった。わたしは彼女に自分がヴァンパイアであることを告げずに近づいた。そうすれば自分もヴァンパイアであることを忘れ、共に暮らせると思ったのだ。しばらくはフランスで屋敷を構え、幸せだった。だがすぐに所詮わたしは怪物でしかないのだと思い知らされた。そのころヨーロッパではヴァンパイアを題材にしたゴシック小説が出回り、ヴァンパイア狩りが盛んに行われていたのだ。ある日、どこから嗅ぎつけたのか、ハンターによって屋敷に火が放たれた。火の回りは速く、彼女は屋敷に取り残されてしまった。わたしは彼女を助けたい一心で空を飛び、救い出した。彼女はそうは思わなかったようだが」

 クリスチャンの目は内に向けられ深い闇と化している。今、私に出来るのは黙って耳を傾けることだけだ。

 「正体に気づいた彼女はわたしを汚らわしい怪物と罵り、怪物を愛せる者などいないといった。彼女は・・・一度とて、わたしを愛したことはないと。そして剣でわたしの心臓を串刺しにしようとしたのだ。無理だとわかっていながら、わたしは抵抗せず刃が鼓動を止めてくれるのを待った。ただこの世から消えてしまいたかった。だがその機会は失われてしまった。わたしを狙ったハンターの弾丸のひとつが彼女に当たったのだ。たった一つの弾で彼女は死に、無数の弾を受け、火傷を負ったわたしは生き残った―この怪物の血のせいで」

 おずおずと手を重ねた。小さな手がきつく握ったこぶしをそっと開かせた。

 三日月形の傷から鮮血が溢れていたが、その最中にも傷口は塞がり、その証は筋を引く赤い血だけになる。

 「あなたは怪物などではないわ。ほかの生きものと同じように怪我をすれば血が流れるもの」

 永遠は白いナイトガウンの裾をクリスチャンの血で穢した。

 「わたしにとって死とは願っても決して手に入れることの出来ない贅沢だ。人間の作り出した空想物語のように、灰になれればどんなにいいか。生き物はみな死を目指して生きている。死ねぬ者はほかのものの死を受け入れ、そのもののすべてを抱えて生きてゆかねばならないのだ」

 意図せず潤んだ瞳で彼女を見つめた。

 「だが君がいなくなった後、君を抱えて生きてはゆけまい。もう二度と、そんな思いを抱えて生きることなど」

 喉の奥の熱さを和らげるために苦労して唾を飲み込んだ。それでも出てきた声はか細く、自分にも擦れて聞こえた。

 「死ねる君が恨めしい。もう決して、人と関わるまいと、そう思っていたのに。君に出会ってしまったことが恨めしい。君のすべてが恨めしい」

 涙が溢れた。

 だがそれは永遠のものだった。

 永遠はクリスチャンを胸に抱き寄せると、頭を抱えて幼子にするようにそっと艶やかな髪を撫で続けた。

 その間もとめどなく熱い奔流が永遠の頬を伝っていた。



 彼は眠っていた。

 クシャクシャになったキルトをぎゅっと握り締めて。そうすれば自分の手から滑り落ちてゆく大切なものを繋ぎ止めておけるとでも思っているかのように。

 眠っていても苦しんでいるのね。

 永遠は皺の寄った眉間をそっと撫でた。

 せめて夢の中では痛みを癒してあげたい。彼は私の痛みや苦しみを受け入れようといってくれた。ならば私も彼の痛みや苦しみを受け入れ、半分にしてあげたい。

 だけど私は彼をさらに苦しませる存在なのよ。

 血で汚れたナイトガウンをなびかせベッドを出ると、静かに服を着替えて、暗い眠りに包まれた館に背を向けた。

 外に出ると肌にひんやりとした空気が触れたが、気にすることなく脚を動かした。朝もやの中に浮かんだ薔薇の蕾が黒ずんで見える。

 どこからともなくブリスが現れ、景色を楽しむこともなく足音だけの会話で森の湖に向かった。日課となった二人だけの朝の散歩。

 ブリスが先にお気に入りの場所に寝そべった。永遠は湖のそば、ブリスの温かいわき腹にもたれかかり空を見上げた。

 今日は珍しく青空に白い雲が遊んでいる。

 スコットランドにも秋晴れってあるのかしら。あたりはもう秋だった。木々は色を変え、そのからだから葉を落としていく。辺りにはそのかけらが散らばり、地面も秋に染まっていた。

 ブリスの尾が腹にのせられたので、そっと柔らかな毛を撫でてやると、満足気な声を漏らして伸ばした前脚に頭をのせた。

 クリスチャン以外のものは皆、姿を変える。この森も、あの館も、そしてブリスや私も。いずれは皆朽ちていく。そしてそれらは大地にかえり、そこから新たな生命が芽吹く。

 だが彼は死ぬこともなく生まれることもない。

 白い雲はゆったりと流れ、やがては視界から消えていく。そしてこの青い空からも、いずれはなくなってしまうことを私は知っている。

 彼と共に過ごしたいと思うのは自分勝手なことなのだろうか。ほんの二週間前、彼はどんな気持ちで私の取引を受けたのだろう。彼にとってなんの利点もない取引だと今ならわかる。それどころか、更なる苦しみを背負い込むだけだと。人と関わらないと決め、もう二百年も一人孤独だけを相手にここにこもっていたのに。

 視界の隅に動くものを捉えた。

 そちらに顔を向けると、リスが木の実を頬に入れて立ち上がり、辺りを見回していた。そしてまたせわしく木の実を拾うと、獲物でいっぱいの重そうな袋を抱えながら冬に備えて走り去った。

 残された時間は残酷なほどに短い。その中で私はなにが出来るだろう。彼になにをしてあげられるだろう。

 ポケットに手を入れて彼に貰った贈り物を取り出した。

 ガラスに青空が透け、白い砂浜の季節はずれな海を思わせる。

 彼は渡しづらそうだったが永遠は気にならなかった。儚いそれは、彼がいったように自分のものだと思った。

 時は止まらない。有形の時は残酷にも一本の線となり滑り落ちていく。

 彼のために生きたい。

 彼が望むなら、永遠にだって共に生きていきたい。

 両親が死んでから生きたいとは思わなかった。死ぬことをさも当然のように受け入れた。

 でも今は、心から生きたいと思った。

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