第4話 ブリスの尻尾
「さあ、話してちょうだい」
永遠がクリスチャンの前に朝食のパンケーキを置いた。
「ベッドから出ていいのか? 食事ならわたしでも作れるぞ」
「いいえ、もう平気よ。それにブリスは昨日食べられなかったんでしょう? この子は痩せすぎよ。たくさん食べさせてあげなきゃ」
クリスチャンは狼をにらんだ。
こいつのどこが痩せすぎなのだ? 大量の毛の下にはこれまたたっぷりと肉が付いている。
どこからどう見ても健康そのものではないか。
狼は永遠に置いてもらった彼の三倍の量のパンケーキを、涎を垂らさんばかりに凝視している。
いや、すでに垂れている。
クリスチャンは眉をひそめた。
席に着いた永遠が召し上がれというと、狼は大急ぎでパンケーキに攻撃を仕掛けた。
「で、いつまでも話さないつもり?」
彼女は首を傾げてクリスチャンを見た。
「いや、話す。君が食べたら」
痩せすぎとまではいわないが、永遠はもう少し肉をつけるべきだ。
昨日もほとんど食べていなかった。わたしが注意していなければすぐにでも痩せ細ってしまうだろう。
彼女は忌々しげに自分の皿を見下ろして、パンケーキを小さく切り分けるとそのうちのひとつを口に入れた。
「食べたわ。早く話して」
パンケーキを大きく切ると自分も一口頬張り、どこから話すか思案した。
「エリカは確かに婚約者だ」
探るように永遠を見つめたが彼女は眉を上げ、続けるように促すだけだ。
「だが、それは都合がよかったからだ。わたしがこの館に―こもるようになってから、母がさまざまな女を送り込んできたのだ。どの女も不愉快な者ばかりだった。一日中泣きわめいていたり、自分のことばかりを飽きもせず話し続けたり」
そこでパンケーキを口に入れ咀嚼してから続ける。
「わたしは自分の館にいられず気が狂いそうだった。なぜ自分の住処を侵されねばならない? そんなとき母がエリカをよこした。彼女は幼馴染だから、わたしがどんなことを嫌がるか知っている」
そこまで話したところで彼女が片手を挙げた。
ブリスが永遠の脚を鼻で突き、空になった皿を足で引っかいている。彼女はパンケーキ一口の代償分しか減っていない自分の皿をブリスに与えようとした。
「待て、それは君の分だ。食べなさい」
クリスチャンは立ち上がり自分の皿をブリスの前に置いてやった。
ブリスは量が少ないことか、もしくは彼の食べかけだということが気に食わないのか、小さく唸りながらにらみつけていたが、クリスチャンが背を向けると諦めてパンケーキを胃袋に収め始めた。
永遠は自分の皿に載っているパンケーキをつつきまわしていた。
見られているのに気づくと彼女は観念してパンケーキを口に運んだ。ゆっくりと噛み、咀嚼している。
「それで、エリカが幼馴染で自分のことを理解しているから、婚約者にしたというの?」
自分からクリスチャンの意識を逸らそうとしてそういったのがわかった。
永遠をじっと見つめたまま続けた。
「ほかの女とは違って、わたしが半狂乱にならなかったからだ。それで母が勝手に婚約者にした」
テーブルに肘をつき、右手の指先に頬を乗せた。そのアンニュイな仕草と同様、その事実さえもたいした問題ではないという口調だった。
「次から次へと女を送り込まれるのにうんざりしていたから、婚約者が出来れば煩わされずにすむと思ったのだ」
話している間に永遠が、ブリスにこっそりとパンケーキを食べさせていたが、半分ほどは平らげていたため気づかないふりをすることにした。
「そう」
会話が途切れた。
気まずい沈黙が広がり、ブリスがムシャムシャとパンケーキを咀嚼する音だけが大きく響いた。
昨夜ベッドを共にしたのが嘘のようだ。
眠っただけだが。自嘲的な笑みを浮かべた。
ヴァンパイアの笑みだわ。
警戒してクリスチャンを見つめた。
「君は今日、なにをするつもりだ? わたしは少し―出かけてくる」
考えを悟られないように、ブリスのおかげで空になった皿を凝視した。
少し出かけるですって?
前にそのようなことをいったときはここに来るつもりだったのよ。今度はスペインにイサベルなんて名前の愛人でもいるんじゃないの?
だけどまた嫉妬深い女のようなことをいって、彼を煩わせるわけにはいかない。
我慢できずにチラッとクリスチャンに目をやると、いつもと変わらない落ち着いた様子でじっと永遠に視線を据えていた。
慌てて皿に視線を戻した。
「えっと…」
視界の隅にゆさゆさと揺れる銀の尾を捉え、溺れかけの人が藁を掴むように永遠はブリスにしがみついた。
「そう! ブリスをお風呂に入れるつもりよ」
挑むように背筋を伸ばし、元々決めていたように宣言した。そしてまたそれが興味深いものであるかのように皿を凝視した。
「そうか。では無理をしないようにな」
クリスチャンは立ち上がると三人分の皿を手に取り、食器洗い機に入れた。
注意を向ける対象を奪われたのでブリスに顔を向け横目で彼の様子をうかがっていた。
背を向けて部屋を出ようとした彼が急に足を止めた。
「永遠?」
こちらを向いたクリスチャンの眉はひそめられていた。
ビクッとして素っ頓狂な声が漏れた。
「はい?」
やっぱりごまかすことなんて出来なかったのね。
「薬を飲み忘れているぞ」
ブリスを風呂に入れるのは大変だ。
そのことに気づいたのはシャワーの栓をひねったときだ。
熱い湯が噴き出すと、ブリスはそわそわとバスルームを見回し出した。
まるで逃げ場を探しているようだわ。永遠は苦笑をもらした。バスルームは永遠一人には広すぎるほど広いが、大きなブリスと一緒だと少し窮屈に感じられた。
袖をまくり上げ、ブリスに向かって湯を噴射した。
「ワフッ!」
ブリスが驚きを吠え声で表した。
なにかいいたげな表情でこちらを凝視すると、湯を浴びて小さくなった体を揺すった。
「きゃっ」
あたりに大粒の雨が飛び散り水浸しになった。
だが被害の大きさでいうと永遠が一番だった。スカートは濡れて脚に張り付き、薄い色のシャツは下着が透けている。
自分の有り様を見下ろしたあと、犯人に目を向けた。ブリスはグリーンとゴールドの不揃いだが美しい瞳をじっと永遠に注いでいる。
その視線に顔が熱くなった。
相手は動物じゃないの。なにを恥ずかしがってるのよ。自分を叱咤すると、石鹸を手に大仕事に取り掛かった。
だがブリスの目はあまりにも人間的で意識せずにはいられない。
ブリスの濡れて暗くなった体から最後の泡を流し終えたときには、大雨に降られたかのように全身ぐっしょりと濡れていた。
バスルームの戸を開けた。
「私もお風呂に入るわ。おまえのせいでびしょびしょだから。体は自分で乾かせるでしょ。上手にできるって披露してくれたものね」
入るのはあれほど嫌そうだったのにブリスは出て行こうとしない。不揃いの瞳でただ永遠を見つめている。その視線は「服を脱がないのか?」といっているようだ。
「脱がないわよ。おまえが出て行くまでは」
それでもブリスは出て行こうとしない。
目を細め、シャワーの栓をひねった。
「さあ、行きなさい」
ブリスはとんでもない裏切りだといいたげに牙をむき出すと、のっそりと戸から出て行った。
戸を閉めて念のために錠を下ろした。
「まったく、なんてものを拾ってきたのかしら」
シャワーから噴き出した熱い湯とともに、小さなつぶやきは呆気なく排水溝に吸い込まれていった。
夜中になってもクリスチャンは戻ってこなかった。
スペインじゃなくて北極に行ったのかもね。
アハハ、面白い冗談。
昔の貴族が使っていたようなソファに胡坐をかき、クッションを絞め殺さんばかりに抱きしめた永遠はうるさい心の声と戦っていた。
険悪な雰囲気を敏感に察知したブリスは、食事を済ませるとどこかへ行ってしまった。
目の前の柱にはクリスチャンの肖像画がかかっていた。それは長い月日に侵食されて独特の色合いをみせている。描かれた彼は十代に見えるが、人間には思いも及ばない年齢なのだろう。
動かない彼をにらみつけた。
もう寝るわ!
心配なんてする必要ないじゃない。今がたとえ夜中だとしても彼はヴァンパイア。夜の生き物だもの。
クリスチャンの部屋のノブに手をかけようとして思いとどまった。
どうしてこんなに広いのに、わざわざ彼の部屋で寝ようとしてるの?
ムスッと廊下を歩き回り、出来るだけ遠い部屋を選んだ。だがベッドに入っても眠りは訪れず、一人悶々とした時間をすごした。
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