第3話 蝕まれる命

 彼女が初めて自分の名を呼んだ。

 クリスチャンは狼を肩に担ぎ、これが散歩であるかのようにゆったりと館に向かって森の中を歩いていた。

 彼女は狼の周りを飛び回り、どこそこの傷がああだのこうだのと騒いでいる。

 全く気に食わない。スコットランドに来てからはずっとそうだ。以前は安息の地だったのに、今では呪われた地のように感じる。次から次へと厄介ごとが舞いこんでくるのだから。

 最初はエリカで次は狼だ。

 今度はなんだ? なにが起きても驚くまい。

 ひとつ大きなため息を吐いた。

 「ねえ、あなたたちだけでも飛んで行った方がいいんじゃない? なんだかこの子ぐったりしてるわ。さっきまではあなたがわざとこの子を揺らして歩くたび唸っていたのに」

 永遠は足音もたてないでそっと歩けるくせにとつぶやき、横目でクリスチャンをにらんだ。

 その言葉に思わずにやりとした。

 永遠がシチューを作った夜、クリスチャンは彼女を死ぬほど、いや、笑い転げるほど驚かせた。

 「こいつと君を抱えて飛ぶことくらいわけはない。だが、だいじょうぶだ―こいつはただの狼ではない」

 隣を歩く永遠を見下ろした。

 「そんなこと見ればわかるわ。私にだって目はついてるんだから」

 ほお、気づいていたのか。

 「きれいな目よね。グリーンとゴールド」

 彼女から一瞬目を逸らした。

 「ああ・・・。そうだな。左右で色が違う目をなんというか知っているか?」

 彼女が首を横に振った。

 「オッドアイというのだ。オッドとは奇妙な、不揃いのという意味だ」



 火のはいっていない暖炉の前で、永遠は狼の傷に包帯を巻いていた。クリスチャンは永遠にもしものことがないように、少し離れたところから狼にじっと視線を据えている。

 だが狼の脚を持ち上げたりひっぱったりしても、大人しいことに不揃いの目で永遠を見つめているだけだった。

 クリスチャンと争う前からあった脚の深い傷に眉をひそめた。

 「仲間の狼とケンカでもしたの?」

 狼が話せないのはわかっていてもたずねずにいられなかった。

 返事をするように狼がウゥーと唸ったが、それが『そうだ』なのか『ちがう』なのかはもちろんわからなかった。

 だが見なくてもクリスチャンが身構えるのはわかった。

 「クリスチャン、だいじょうぶだからこの水を換えてきてくれない?」

 彼はしぶしぶ朱色の水が入った桶を手に取ると、狼に鋭い一瞥をくれ部屋を立ち去った。

 「やれやれ、やっと二人きりになったわね」

 狼の背に手を置き、微笑みかけた。

 「どうしてかわからないけど、おまえを見たとき通じ合うものを感じたの。たぶんおまえが諦めようとしてたから」

 不揃いな目が光った。だが光の加減でそう見えただけかもしれない。

 柔らかな毛を繰り返し撫でた。

 「私もね、死ぬの。だけど別にかまわない。だって命あるものはみな死ぬのだから。ただそれが早いか遅いか、それだけのこと」

 手を止めてクリスチャンの出て行った方を見た。

 「だけど今は、自分がわからない。会ったばかりの人と、その人には婚約者もいるのに、それなのにずっと一緒にいたいと思ってしまうの。三ヶ月なんかじゃなくて―永遠に」

 視線を下げ狼の美しい瞳を見た。

 彼にとって私はなんなのか聞く勇気もない。さっき森の中を歩きながら何度たずねようとしただろうか。だが私のことなどなんとも思っていないと、直接彼の口から聞かされるくらいなら、なにも知らずに悶々と死んでいく方がいい。

 「私は彼にとってただの…」

 狼の姿がぼやける。

 滲んだ狼が手に頭をすり寄せてきた。

 「慰めてるの?」

 たしかな温もりに小さいながらも笑みがこぼれた。

 クリスチャンが永遠を驚かせないためにわざと足音を立てて広間に入ってきた。

 「なにがおかしいのだ?」

 口元に笑みを残したまま、いぶかしむクリスチャンの方に体をひねった。

 「生きるということよ」



 それからの一週間、狼の傷は瞬く間に癒え、脚の深い傷以外の包帯は取れた。

 「ブリス、ゆっくり食べなさい」

 テーブルについた永遠は、椀ごと平らげそうな勢いでスープを舐めている狼を見下ろした。

 「そいつはオスだぞ。ブリスというのは女の名のように思えるが。奇妙やガッツキという名の方がよかったのではないか?」

 クリスチャンはスープの入った椀を置くと、視線は狼に据えたまま席に着いた。

 不揃いの目の大きな狼を足下にはべらせた永遠は異教の女神のようだ。

 彼女はほとんど手をつけていない椀を押しやった。

 「そんなことないわ。ブリスは奇妙なんかじゃないもの。とてもきれいな目だわ。まぁ、ガッツキというのは―」

 チラッと足下を見下ろすと、狼が空になった平たい椀には目もくれず、床に飛び散ったスープを一心不乱に舐めとっていた。

 「悪くないかも」

 ブリスの空になった椀を取り上げると席を立ち、鍋のところへ行った。

 「だけど私、オッドアイのことをあなたの図書室で調べたの。日本では金目銀目といって、幸福を運ぶそうよ。だから『無上の幸福』という意味の名前にしたのよ」

 椀にスープをすくい、少し考えてからふちのすぐ下まで注ぎ足した。

 それを持って席に戻ろうとしたとき景色が揺らいだ。シンクの端を掴もうと手を伸ばしたが、その手は虚しく空を掴んだだけだった。

 こぼれたスープが手に熱い。

 「永遠?」

 二重にぼやけた彼の表情には不審がありありと表れている。

 ふらつきながら揺らぐ視界を定めようとまばたきを繰り返し、彼の顔を凝視するとはっきりした輪郭を取り戻した。

 「なんでも、ないわ」

 そういって一歩踏みだしたとき、闇がすべてを支配した。



 痛みに悲鳴を上げ、永遠は膝からくずおれた。

 スープは辺りにこぼれ、床に落ちた椀には三分の一も残っていない。

 「永遠っ!」

 クリスチャンが目にも留まらぬ速さで永遠の横に移動し抱き寄せた。

 それと同時にブリスは二人のところへ駆け、スープには目もくれず二人の周りをそわそわと歩き回った。

 「永遠、どこが痛むのだ? 医者へ行こう」

 口早にいい、永遠を抱いたまま立ち上がった。

 彼女がクリスチャンの服を握り締め、聞いている方が胸をかきむしりたくなるような喘ぎ声を漏らした。

 「薬、かばん、の中。あなたと、会っ、た日の…」

 体をのけぞらせ痛みに震えると言葉が途切れた。

 だがクリスチャンには十分だった。

 永遠を濡れていない床へ運ぶと、いつも以上に注意して下ろした。ブリスに彼女を見ていろといい、最後にさっと視線を走らせた。

 「すぐに助けてやる」

 クリスチャンは飛び出した。

 


 彷徨っていた思考が途切れると、あたりは薄暗く今が朝なのか夜なのかさえわからない。彼好みの日の光を遮るカーテンが今は不愉快だった。思考を妨げた原因に目を向けると永遠が目を開き、クリスチャンの手を弱々しく握り返していた。

 「すまなかった。気づいてやれなくて」

 永遠がささやかな笑みを浮かべた。

 「あなたのせいじゃないわ。私、あなたと出会ってから、薬を飲まなきゃいけないのに忘れてた」

 クリスチャンが出せる最速のスピードで飛び、永遠の家から取ってきたかばんを彼女はチラッと見た。

 彼のベッドに横たわった永遠はとても小さく、少しでも目を離せば消えてしまいそうなほど頼りない。

 永遠の冷たい手をさすりながら互いの視線を絡ませた。

 「君は自分をないがしろにしすぎだ。あいつには焼きすぎなほど世話を焼いて、わたしにも毎日三食飯を作ってくれている。だが自分にはなにをしてやっている?」

 クリスチャンは首を振った。

 「痛めつけているだけだ」

 永遠は口元だけに、それとわかるかわからないか程度の笑みを貼り付けている。

 「ごめんなさい。だけど傷つけているのは自分だけだわ。ほかの人を傷つけることはない」

 彼女が感傷的な気分になっているのがわかった。

 「なにがいいたいのだ?」

 永遠はクリスチャンの目をかすめると、視線を避けた。

 「私の両親は私が小さいときに死んだの。私には痛みや孤独だけを残していなくなった。その後、私は親戚に引き取られたわ。叔父夫婦は自分の子のようにかわいがってくれたけど、それは私が親を亡くしたかわいそうな子だから。そう思われないようにいつも笑っていても、周囲は私のことを傷を負った壊れ物のように扱う。私は望んでなどいないのに。私はただ普通に生きたかっただけなのに!」

 心が叫びを上げ、今まで表せなかった苦しみが怒りとなって噴き出した。

 いい終えると思わずさらけ出してしまった痛みを隠すために目を閉じた。

 「いや、君は間違っている」

 クリスチャンは永遠とは対照的に静かに語りかけた。

 「人は知らず知らずのうちに傷つけあっている。たとえ意図していなくとも、相手を傷つけずにはいられない生き物なのだ。君は自分以外は傷つけていないといったな。ならば君が苦しむ姿を見て、わたしやブリスが傷ついていないとでも? 君が…」

 一瞬詰まりながら続ける。

 「…死んだときに、痛みや孤独が我々の中に残らないとでもいうつもりか?」

 永遠の閉じられた瞳から涙がひとしずく流れ落ちた。クリスチャンはそのしずくを指先で受けとめ唇にあてた。

 それは彼の口に儚い悲しみを残した。

 「わたしも君を傷つけた。君が眠っている間、悔やんでいたのだ。エリカが君のことは遊び相手で自分はわたしの婚約者だといったとき、わたしはなにもいわなかった―怖じ気づいたのだ」

 視線を下げ、永遠の手の甲を走る青い血管を親指でなぞった。彼女は自分がどんな危険に身をさらしているのかわかっているのだろうか。

 「君がすぐにいなくなってしまうのがわかっていながら、心の中に入り込ませることが怖かった。だが自分を守るために君を傷つけてしまった。君のことを大切な存在だと言葉にしなければ心を守れると思ったのだ」

 自嘲的な笑みを浮かべて永遠の顔に目を戻した。彼女は煌めく瞳で見上げていた。

 「だが出来なかった。君はすでにわたしの心を奪っていたから」

 ほっそりとした手を持ち上げ、親指に唇をあてた。

 「たとえ嫌がっても、君のことを壊れ物のように扱う。君が大切だからだ」

 今度は人差し指に優しい口づけを落とす。

 「もう無理に笑う必要もない。君の痛みや苦しみを、わたしも共に受け入れよう。君の苦痛が半分になるように」

 次に中指にキスをした。

 「君のしたいように、ふつうに生きられるようわたしが手を貸そう」

 そして薬指に。

 「愛しい人よ」

 最後は小指に。

 永遠は眩しい本物の笑みを湛え、掴まれていない方の手でシーツを持ち上げると、なにもいわずに温もりへとクリスチャンを誘った。

 隣に横たわり、彼女をどんな痛みからも守れるよう腕に閉じ込めた。

 「もう一度お眠り」

 初めて彼女を腕に抱き、寝顔を見つめた夜と同じ言葉を囁いた。

 額に優しい口づけを落としたときには、彼女はすでに幸せな夢の世界に誘われていた。

 ずいぶん後に永遠は一度クリスチャンを揺さぶった。彼はすぐに目を覚ました。

 「どうした? 気分が悪いのか?」

 「エリカは本当に婚約者なの?」

 少し怒ったような声に笑い声を漏らした。永遠の頭を自分の胸に抱き寄せ、朝になったら教えてあげようといってすぐに寝息をたて始めた。

 永遠は気になって眠れないと思ったのを最後に、彼の安定した鼓動にあやされてすぐに眠りに落ちた。

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