第2話 傷負うものたち

 「さあ着いたぞ」 

 数十分、いやほんの数分だったのかもしれない。彼に抱きしめられ足が地面から離れると、景色が飛ぶように流れていき永遠はすぐにぎゅっと目をつむった。その後はただひたすら彼の胸に顔を押し付け、力強い鼓動を聞いていた。繰り返される安定した鼓動を聞いていると、なぜか心が落ち着くのだった。

 永遠は彼の声に恐る恐る目を開いた。

 大きな黒い洋館がひっそりと建っていて、周りには緑に萌える茂みがあり点々と赤い蕾がついていた。それが近づきがたい様子の洋館にロマンチックな雰囲気を添え、不思議な魅力を漂わせていた。あたりに目をやると広大な土地がどこまでも続いており、所々に大きな石が突っ立っている。先のほうには緑の森が口を開け、不運な旅人を飲み込もうとしているように見えた。

 そっと地面に降ろされた後もしばらく彼の胸にしがみついていた。

 「本当だったのね」

 「ああ」

 濃い霧に包まれ雨の多いスコットランドといえど、太陽がないわけではない。それでも彼はこうして屋外に立っている。

 『ヴァンパイアは太陽に当たっても灰になることはない。転生したての者は別だが』

 彼は空に飛び立つ前に説明を加えた。

 『遮光カーテンは目を守るためだ。太陽に眠りを妨げられることほど、愉快なことはないのでね』

 それならいったいなんのために、遮光カーテンが必要なのかという考えを読んだように、彼はそう付け足した。

 彼の胸から手を離した。自分が捕まえていなくても、彼が消えることはないとわかったから。

 「さてお嬢さん、我が館へようこそ」

 彼に手を引かれ、永遠は館の中へと入っていった。



 館の中に入ってから、予備のカーテンが置いてある部屋に来るまでの間、彼女からは時々吐息を漏らす音以外はなにも聞こえてこなかった。

 クリスチャンがカーテンを物色している間、彼女はあたりをぶらぶらしていた。

 そっと横目で様子をうかがった。この部屋にはなにも見るものはなかろうに。

 カーテン室と呼ぶその名の通りカーテン以外はなにもない。それでも彼女は楽しそうに、カーテンを撫でたり裏返したり忙しくしていた。

 「ねえ、このカーテン―」

 来訪して初めて彼女が口を開いたとき、館のドアが壁にぶつかる大きな音が響き渡り、クリスチャンは体を強張らせた。



 永遠は、染めたものだとわかる真っ赤な髪と豊かな胸を揺らしてカーテン室に入ってくる女性を見つめた。

 「クリスチャン!」

 女性は永遠には目もくれず彼に抱きついた。

 ここが舞台だとでも思っているような大きな声。おまけに大きな胸も押し付けてる。永遠は苦々しく思った。

 クリスチャンは体を強張らせたまま女性を押しやった。

 「エリカ、ここでなにをしている」

 エリカは真っ赤な長い髪を振り払い頬を膨らませた。

 「せっかく来てあげたのにその態度はなによ?」

 エリカはその効果も計算済みで胸の下で腕を組んだ。

 「わたしが先にたずねたのだ」

 永遠は黙ったまま、にらみ合った二人を眺めていた。クリスチャンがエリカの胸に目を向けないことが図らずも嬉しかった。

 だがエリカは気に入らないようだ。

 「あなたに会いに来たんじゃないの。昨日は帰ってこなかったのね。この女と一緒だったの?」

 エリカの見下すような視線が突き刺さった。

 彼以外にも人がいることに気づいていたのね。

 「ええ、そうよ」

 お返しに冷ややかな視線でエリカを射抜いたが、ひるむ様子もなく彼女は鼻をうごめかせると、永遠の視線など温かいと思わせる凍るような笑みを浮かべた。

 「あんたなんてただの遊び相手よ、それも一時だけの。あたしはクリスチャンの婚約者なの。もちろん彼から聞いてるでしょうけど」



 永遠は目を見開き突っ立っていた。その瞳には見た者に慰めてやらなければと思わせる痛ましさが宿っていた。

 クリスチャンは彼女を自分の後ろに隠し、エリカの視線を遮った。

 「やめろ! 用がないなら出て行け」

 だがエリカは不敵な笑みを浮かべたまま動く気はなさそうだった。

 代わりに永遠が横をすり抜けた。手を掴んで引きとめようとすると、彼女はうつむいたまま身を引いた。

 「少し外に出たいの」

 気に食わない。

 外は危険だ。だがエリカの毒牙は届かない。

 「遠くに行ってはいけない。それから気をつけるんだ」

 永遠はなにもいわず、静かに部屋をあとにした。

 彼女がいなくなると、エリカが近づいてきた。

 「あなたがこのいけ好かない館にこもるのを止めたのはあの人間が理由? それもただの人間じゃない、死にかけの人間」

 ヴァンパイアは人間よりも身体能力が高い。その上それぞれが特別な能力を有している。たとえば彼はほかのヴァンパイアより素早く動くことができたし、エリカはほかより鼻が利いた。

 だからエリカが永遠の病を嗅ぎつけても不思議はなかった。

 「君にとやかくいわれる筋合いはない。さっさとこの『いけ好かない館』に来たわけを話せ」

 エリカは皮肉を解さなかった。

 「なんだ、あなたもいけ好かないと思ってるんじゃない。あたしはあなたに会いに来たといったでしょう。あなたのお母様に様子を見てくるよう頼まれたのよ」

 思わずうめき声が漏れた。

 母は彼に伴侶を見つけようと躍起になっていた。エリカの訪問が言葉どおりであるのならいいが。

 「もう見ただろう。母上には元気だと伝えてくれ」

 返事の変わりにエリカが鼻をうごめかせると口元がピクッとした。クリスチャンはこれがなにか、大抵はよくないことを嗅ぎつけたときのエリカの癖だと知っていた。

 「なにを嗅いだ?」

 エリカの顔に悪魔的な表情が広がった。

 「あの女、思ったよりも早くお迎えが来たようね」

 


 永遠はそっと館を出た。相変わらず外はどんよりとしていて、いつ雨粒が落ちてきても不思議はない。

 今の気分にぴったりだわ。

 普段ならばきっと愛でていただろうが、点々とついた赤い薔薇の蕾にも心惹かれなかった。

 染物の赤髪…。

 忌まわしい色から目をそらそうと遠くに目をやると、暗い森の入り口が見えた。なにかに引き寄せられるように森を目指した。

 五分くらい歩くと大きく口を開いた場所に着き、ためらうことなく中に足を踏み入れた。中は暗く、じめっとしていた。運悪く迷い込んだ者を飲み込んで、決して逃がすまいとする怪物のようだ。

 だがそれでもかまわなかった。今はただ二人のヴァンパイアから離れていたかった。



 単調に歩き続けているとエリカの言葉がよみがえってきた。とはいえ実際は聞いてから一度も消えることはなく、うるさいハエのように永遠の心にまとわりついていた。

 『あんたなんてただの遊び相手よ、それも一時だけの』

 エリカの言葉に答えていった。

 ええ、そうよ。私が取引を持ちかけ、彼はそれにのっただけ。そして私は三ヶ月しか彼といられない。

 『あたしはクリスチャンの婚約者よ。彼から聞いてるでしょうけど』

 いいえ、それは聞いてない。彼はヴァンパイアについては話してくれたけど、自分のことは語らなかった。私は彼が結婚しているのかと聞かなかったし、付き合っている人がいるのかとも聞かなかった。だけど彼だってなにもいわなかった。

 私に告げる必要がないから。

 私はただの…ただのなに? 都合のいい女? 栄養源?

 考えているうちに開けたところに出た。周りを木々に囲まれたそれほど大きくない湖があって、近くには小さな小屋が建っていた。

 湖を覗き込むと、透き通った湖面に自分が写った。

 鎖骨ほどの長さの黒くてかすかに波打った髪。白くて少し面長な輪郭。口も鼻も整ってはいるが、特に人目を引くほどではない。目は長いまつげに縁取られて黒く大きく、深い悲しみを湛えていた。

 湖面から目を離し座り込んだ。ひざを抱き、前後に小さく体を揺する。

 エリカの言葉は正しかった。だからこそ胸が痛んだ。

 喉の奥から小さな声が漏れたとき、背後に視線を感じた。振り向いてもなにも見えない。だが聞こえた。小枝が折れる音と木の葉がこすれる音。

 そして獣のうなり声が。

 


 クリスチャンは部屋を飛び出した。一瞬で館の外に出ると、さっとあたりを見回した。

 どこにいる? 耳を澄ましてもなにも聞こえない。

 くそっ、遠くへは行くなといったのに。

 だが永遠のせいではない。わたしがいけないのだ。彼女は傷ついていたのに一人で行かせた。不慣れな土地で、危険だと知っていながら一人にした。

 今さら悔やんでも仕方がない。一刻も早く見つけなければ。あたりに目を走らせ彼女の行きそうな場所を探した。

 森か。

 クリスチャン自身も一人きりで考え事をしたくなると、森にある湖へ行く。彼女は湖の存在を知らないが森に入ったのならきっと見つけているだろう。



 永遠は獣を見つめた。それは灰色というには明るすぎる毛色をしており、右が緑で左が金の目に、鋭い爪と牙を備えた大きな狼だった。

 狼は右の後ろ脚を引きずり唸りながら近づいてくる。

 身の危険など意にも解さず、永遠は狼の珍しい瞳に魅入っていた。

 「おまえは私を殺すの?」

 言葉の通じない相手に囁いた。

 狼は耳をピンと立て、永遠の声に耳を澄ましているように見えた。なにかが伝わったのか、唸るのを止めてゆっくりと近づいてくる。

 かばっている右脚は、なにか鋭いものでざっくりと引き裂かれたようだ。いつ怪我をしたのかはわからないが、いまだに血が溢れ、命が流れ出ていく。

 視線を狼の目に転じると、その中に通じ合うものを見て取った。

 狼は死を覚悟していた。

 さっきは離れていたから瞳の美しさにしか気がつかなかったが、今は手を伸ばせば触れられるほどに近づいてきていた。

 「おまえは死んでしまうの? こんなに美しい目をしているのに」

 手を伸ばして徐々に距離を縮めていった。



 クリスチャンが湖の見える場所まで来たとき、彼女と二メートルはありそうな狼が目に入った。

 すばやく狼に体当たりし、彼女から脅威を遠ざけた。

 狼が唸りながら体をひねった。クリスチャンはさっと体を離して鋭い爪を避けた。

 「だめっ!」

 永遠が急いで彼らに駆け寄ると、クリスチャンに抱えあげられ湖の反対側に運ばれた。

 「ここにいろ」

 反論しようと口を開いたときには、彼はすでに狼とぶつかり合っていた。

 なんて速いのよ。

 もどかしく思いながら走って湖を回り、彼らのもとにたどり着いた。互いの牙や爪を避けては相手に突き立てようと繰り出している。

 どうしたらいい? 間に割って入っても、またクリスチャンに向こうへやられてしまう。

 覚悟を決めぎゅっと目をつぶると、大した怪我はしませんようにと祈りながらばったりと地面に倒れた。

 うう、痛い。

 だが肉のぶつかり合う音が止んでいる。薄目を開け様子をうかがうと、髪を乱したクリスチャンが脇にいるのが見えた。

 「永遠、だいじょうぶか?」

 クリスチャンの向こうに息を荒げた狼がいた。

 ぱっと目を開き飛び起きると、心配そうなクリスチャンにはおざなりに転んだだけといって狼に駆け寄った。最初に見たときでさえ血を流しすぎていたのに、クリスチャンと争ったせいでそこらじゅうから血がにじんでいる。

 「大変! 手当てしなくちゃ」

 誰にともなくいったがクリスチャンは鼻を鳴らした。

 「君を殺そうとした狼を助けるつもりか?」

 「この子は私を殺すつもりなんてなかったわ。今はわからないけど」

 クリスチャンに目をやると、髪は乱れ放題、服は破れだらけだった。だがヴァンパイアの能力のおかげで傷はすでにふさがっている。

 まったく…。私が止めなかったらどちらかが死ぬまで傷つけあっていたわ。どちらが生き残るかは目に見えているけれど。

 「この子を助けなくちゃ。このままじゃ死んでしまうわ。あなたの家に連れて帰りましょう」

 クリスチャンは気でも狂ったのかといわんばかりに永遠を凝視し、口を開いた。

 その口から拒絶の言葉が飛び出す前にたたみかけた。

 「お願い、クリスチャン」

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