死神の住まうここ
しすい
第1話 出会い
あと三ヶ月。
あと三ヶ月で、自分の人生が終わるというのになんの感情も湧いてこなかった。
生き物はどうしてこの世で生を受け、なんのために死に向かっていくのだろう。子孫繁栄? いったいそれがなんだというのか。その連鎖の中でなにが生まれる? 脈絡のない世界で同じように謎を与え続けるだけでは? シニカルな考えに唇が小さく弧を描き、意識が現実世界へ引き戻された。暗い夜道に視線をやり、なんの異常もないことを確認すると、最近、癖になった空想を再開した。
私にはなにかを成し遂げたいとか、生きる糧ともいうべき情熱がなかった。いつどこで落としてしまったのかも、自分ではわからない。
そもそも初めからなかったのかもしれない。
両親を早くに癌で亡くして親戚の家で育てられた。そのことは恵まれていたのだろう。皮肉な思いが胸を占領した。別に親戚をたらい回しにされたわけでも、疎まれていたわけでもなく、叔父夫婦はとてもよくしてくれた。二度と私が傷つかないように。
だが、私にはそれが重荷になった。
いつも必死に笑顔を作って、なにも悲しいことなんかないというように明るく振舞った。それでもいつも「かわいそうな子」というレッテルが、決して離れることのない影のようにつきまとっていた。
そう本当に影のようだ。実体がないくせに、見えなくてもそこにある。だからいっそ自分の周りに壁を築き、影だけを相手に生きることを決めた。
高校に上がると同時に家を出て、少ないながらも思い出の詰まった両親の家に一人で住み始めた。幸いローンは返済されていたし、ときどき叔母が掃除してくれていたから簡単に埃を払うくらいで済んだ。
最初、叔父夫婦は反対したけれど、けっきょく私の好きにさせた。いずれ私が住みたがるとわかっていたから。反対したのは、二人が思うよりもそれが早かっただけのこと。
住み始めて二年目ともなると、一人では広すぎる暮らしにも慣れた。
だが三年目を迎えることはなさそうだ。医者の診断によれば、三ヵ月後のクリスマスまで生きられるかどうかということだった。
癌が体中に転移していて、病院に行ったときには手遅れだった。両親が癌で亡くなっているのだから気をつけるべきだったのに、ずっと気づかないふりをしていた。死を恐れていたわけではなかったが、死を免れられないことを知られるのが怖かった。
だがもともとそういう運命だったのかもしれない。両親もそこで亡くなっているし、あの家で死ぬのが一番だろう。叔父夫婦には知られたくない。もう二度と二人の顔に哀れみが浮かぶのは見たくない。
自分の体を抱きしめ唇を引き結んだ。
かわいそうだと思われるのが死ぬほど怖かった。
「お嬢さん」
意識に入りこんできたのは、深みのある低い声だった。
辺りは暗く、月がいくら頑張ったところですべてを暴き出すことはできなかった。立ち止まって目を凝らすと、二メートル程離れたところに一層暗闇に沈んだ場所がある。
「こんな夜更けに一人で出歩くものではない。特に君のような若いお嬢さんは。いったいどんな危険に出会うかわかっているのか?」
「たとえばあなたのような?」
くっくっと笑い声が聞こえ、口元が緩んだ。彼のいうようにこんな夜更けに男と出会うなんて、恐れて当然なのに不思議と恐怖は感じなかった。
「そうだ」
もっとよく相手が見えればいいのに。そうすれば彼が自分の頭が生み出した影でないことが確かめられる。
ためらいがちに数歩近づくと、向こうも数歩進んだ。衣擦れの音ひとつしなかったから、じっと見つめていなければ動いたことにも気づかなかっただろう。
大きな男だ。身長は百九十センチ近くて、肌は浅黒く、髪も漆黒で肩に届きそうなほどだ。そして顔立ちは、雑誌の表紙を飾っていてもおかしくないような、人目を引かずにはおかない魅力を備えている。目は明るい茶色だろうか。口は真っ直ぐに引き結ばれ、さっき笑い声を聞いていなければ、笑うことなどないのだと思わせるようなものだった。服装は恐らく全身黒ずくめ。
どおりで彼に気づかなかったわけだ。
容姿がこれほど魅力的でなければ「今日は何を盗みに行くの?」と尋ねていたところだ。
だがこの人は泥棒向きじゃない。
じろじろ眺めていたことに気づき、急いで視線を上げると、相手も私を品定め中だった。
「わたしのことが怖くないのか?」
ようやく視線を顔に戻した男は、偽りの色はないかと注視した。
「いいえ。あなたは私が怖くない?」
男の目をじっと見つめ返した。
男は驚いた様子だったが、片方の唇の端を上げた。
「いいや。君のようなお嬢さんを怖がる男はいないと思うが」
「そう? 女にだって武器はあるわ」
男は私を上から下まで眺めると、その視線を顔に戻してぽつりといった。
「ああ、確かに」
驚いたことに、彼は一歩後ろに下がると、優雅なお辞儀をした。
「では改めて挨拶することにしよう。わたしはクリスチャン・ベルナール。六百年生きてきた、ヴァンパイアだ」
「私は上月(こうづき) 永遠(とわ)。十八年生きてきたけど、あと三ヶ月の命よ。一応いっておくと私は人間」
永遠は彼の顔になにが浮かぶか注意深く見つめた。
がっかりするべきかほっとするべきか、端正な顔にはなんの表情も表れなかった。
「あなたは本当にヴァンパイアなの? それとも少し、頭がおかしいだけ?」
彼は片方の口角だけを上げる歪んだ笑みを形作ると、この世の時間はすべて自分のものとでもいうように、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「どう思う? ヴァンパイアか―」
じっと見つめていたのに、視界から彼が消えた。
「頭がいかれているのか」
すぐ後ろから声が聞こえ、さっと振り返ると硬い男の胸にぶつかった。よろめいたところをクリスチャンが腕をまわして支えてくれた。
彼の胸からゆっくりと視線を上げていくと、底知れない深みをたたえた金色の瞳と出会った。
その中に真実を見た気がした。
「信じられないけど、ヴァンパイアでしょうね」
彼はすでに馴染みとなった得意の笑みを浮かべて囁いた。
「ああ、わたしもそう思う」
永遠はじっとクリスチャンの顔を見つめた。
両親が死んでなくしたと思っていた感情が、かすかに心の奥に感じられた。
「私と取引しない?」
クリスチャンの目が警戒するように細められた。
「取引?」
彼が乗り気じゃないことを察して、早口で告げた。
「あなたの時間をちょうだい。三ヶ月だけでいい。三ヶ月だけ私と一緒にいてくれたら、あなたの欲しいものはなんでもあげる。私の血を全て飲み干してもいいし、殺したってかまわない」
クリスチャンはなにもいわなかった。微動だにせず永遠の目を見返していた。
その揺ぎない瞳の明るさに耐え切れず、諦めのため息と共にゆっくりと目を閉じた。
クリスチャンはふれあいを求めていなかった。
誰かと関わり合いになるとどうしても感情が伴い、けっきょくは喪失感だけが膨らんでいく。相手がいなくなった後も、彼は存在し続けるのだから。
わたしは長い間独りきりで生きてきた。奪い去られることがわかっているものを、一時自分のものにするよりも彼は孤独を好んだ。
だが今、何百年かぶりに人間と関わりを持とうとしている。
クリスチャンには自分がわからなかった。
暗い夜道を永遠と並んで歩きながら、先ほどの取引を思い返していた。
『あなたの時間をちょうだい。三ヶ月だけでいい。三ヶ月だけ私と一緒にいてくれたら、あなたの欲しいものはなんでもあげる。私の血を全て飲み干してもいいし、殺したってかまわない』
そういう彼女の瞳に自分と同じものを見た。
孤独。
自分の一部といってもいいほど馴染み深いものだったからすぐにわかった。彼女は慎重に隠しているつもりだったのだろうが。
永遠はとても儚げで、彼女に近づいたのもそんな様子に惹かれたからだった。
きっと孤独が長すぎたのだ。心のどこかで、人とのふれあいを求めていたのだろう。
三ヶ月。永遠を生きる彼にとっては無きに等しい。
たった三ヶ月のことだ。彼女に心を許さなければいい。
そうすればまた、孤独と二人きりになったとしても空虚さを抱えて眠らずにすむ。
「ここよ」
彼女の声に我に返って足を止めると、こぢんまりとした家の前だった。
家の中は片付いていた。というよりはあまり物がなかった。きっと彼女もわたしと同じようにモノに執着しないのだろう。
モノはいずれなくなるから。
部屋には必要最低限の家具があるくらいで、彩りを添えているのは、所々に飾られた写真とソファの上に置かれたカラフルなクッションくらいだった。
クリスチャンの視線を追って、彼女が聞かれもしないのに答えた。
「それ、叔母さんの手作りなの」
だからわかるでしょというように彼女は肩をすくめた。
同意の印として頷いた。
彼女の趣味とは異なるが、叔母さんの気持ちを無下にしたくないのだ。
ぐっと奥歯をかみ締めた。
いったいいつから自分を殺して生きてきたのだ?
険しい表情になっていたのだろう、彼女がおずおずとたずねた。
「お茶でも淹れましょうか? それかコーヒーでも」
「君の血は頂けないのかな」
わざわざ明るい口調でいったのに、彼女の顔から血の気が引いた。
「取引したじゃない。三ヶ月一緒にいてくれると」
彼女の瞳に隠し切れないもろさが滲んだ。
「ああ、取引した。だがあれは三ヵ月後には君の血を飲み干してもいい、もしくは殺してもかまわないというものだったはずだ」
彼女はなにもいわなかった。下を向き、髪で顔を隠して体を小さく震わせた。
クリスチャンは心を許すまいとわざと冷たくいい放ったが、本当にしたいのは腕に抱きしめ、彼女を傷つける何者からも守ってやることだった。
最初から彼女には保護欲をかき立てられ、それに抗うのは不可能だった。だから夜道を注意もせず歩いている彼女を見守っていたのだ。
自分で傷つけておきながら、その結果をこれ以上見ていられず、あやすような口調に切り替えた。
「お嬢さん、君はヴァンパイアについて学ぶ必要がある。ヴァンパイアは一度に多量の血を摂らない。君たち人間が献血と称して行っている行為の方が、よほど多くの血液を失うぞ。わたしは一度貧血を起こした
「ヴァンパイアが献血?」
顔を上げた彼女が囁いた。心なしか目が潤んでいるような気がする。
「ああ、そうだ。こっちへおいで」
ソファに座り、先ほどの望みを叶えた。彼女を膝に乗せて自分の腕でしっかりと包みこんだのだ。
本当はいけないことだとわかっているのに、こうすることがとても正しく感じられる。
「このクッションもそんなに悪くはないな」
けばけばしいクッションにもたれ呟くと、永遠はくすくす笑った。
顔を見下ろし、最初の質問を繰り返した。
「君の血は頂けないのかな」
彼女はクリスチャンの顔を見上げ、今度はためらうことなくそっと微笑んだ。
「あなたを信じるわ」
クリスチャンはゆっくりと顔を下ろしていった。
彼女に逃がれる猶予を与えるために。
目を覚ますと自分の部屋のベッドの中だった。抜け目ない太陽がカーテンの隙間から入り込み、部屋を薄く染めている。
永遠はベッドを飛びだした。
彼はどこ?
部屋という部屋を駆け回るたび彼が出て行ったか、さらに悪くすれば灰になってしまったのかもしれないという不安に、胸が締めつけられていく。
だが彼はそこにいた。狭いバスタブの中で、大きな体を丸めて眠っていた。
リビングに戻りながら、昨夜のことを思い返した。
彼が首筋に牙を埋めたとき、思わずびくっとすると慰めるようにそっと髪を撫でて抱きしめてくれた。だけど痛かったわけではなく、感じたことのない感情の揺さぶりが体に伝わっただけだった。
彼に守られ、血をすするやわらかい音を聞いているうちに温もりに包まれ眠ってしまった。
まだ暗い時間に目を開くと金の瞳が見つめていた。
「もう一度お眠り」
彼の声にあやされ目を閉じながら、ずっと私を抱いたまま眠っている様子を見ていたのだろうかと思ったのだった。
永遠は温かいココアを淹れると、マグカップを手にカーテンを開けて外を眺めた。
もうすぐ十月だ。木々が色づき世界に彩りを添える。普通の人生を送っている人にとっては、これから何度も繰り返される色の変化に目を留める暇もないかもしれない。だが私にとってはこれが最後だ。
今まで一度も生きたいとは思わなかった。ただ起きて、食べて、眠る。その繰り返しに身を置くしかないからそうしていただけのこと。
彼に出会うまでは。
ふつうに考えれば出会ったばかりの、それも人間ではない相手に心を許すなんて正気の沙汰だ。
死を覚悟した者は無謀なことをすると読んだことがある。それは死ぬよりも悪いことはないと思っているからだと常々思っていたが、私も意図せず同じことをしているのかもしれない。
そうだとしたらそれはすばらしいことなのでは?
首筋の、見た目には少し赤くなっているだけの彼の名残に手を触れ、ゆっくりとココアをすすった。喉を通り過ぎてゆくと、ほろ苦く、甘い温かさだけが口内に残った。
両親が死んでから初めて、胸の奥にかすかな温もりを感じた。
クリスチャンは温かい香りに招かれてバスタブをあとにした。
狭いバスタブで眠ったせいで全身が凝り固まっている。腕を上げて伸びをすると天井に指先が触れた。
リビングに入っていくと、愛らしい黄色のワンピースを着た彼女がそこにいた。
「すまない。バスルームを占領してしまったな」
彼女はテーブルに料理を並べているところだったが、クリスチャンの声に小さな悲鳴を漏らした。
ビクッとした彼女の手からグラスが滑り落ちていく。 グラスの破片が繊細な肌を傷つける様子が頭に浮かんだ。
クリスチャンは人並みはずれたスピードで彼女のもとに跳ぶと、グラスが床に着く前につかみテーブルに置いた。
ほっとしたのも束の間、彼女が胸に手を当てて喘いだ。
「大丈夫か?」
心配になり少し乱暴に肩をつかんで怒鳴った。
「心臓が…」
言い終える前に彼女を抱き上げた。
「胸が苦しいのだな。医者のところへ行こう」
彼女は抵抗するように身をよじると、驚いたことに笑い出した。
「お医者様は必要ないわ。私は『心臓が飛び出すかと思った』っていおうとしたのよ」
クリスチャンはスプーンを口に運ぶ彼女に見とれていた。艶やかな黒髪が色白の顔に影を落としている。それが一層はかなげな美しさを添えていた。
視線を落としたクリスチャンの前では、白い湯気をくねらせて、シチューが胃袋に収まるのを今か今かと待っていた。
彼女といると自分が間抜けになったような気持ちになる。まるで初めて恋をして、女の子にどう接したらいいのかわからない少年のようだ。
心の中にある思いに気づいて顔をしかめた。
なんてことだ。彼女に心を許すまいと誓ったのに、たった一日で惹かれはじめている。
クリスチャンの表情を誤解した彼女が、眉をひそめてスプーンを置いた。
「ごめんなさい。その、あなたには血の方が―」
彼女が髪を後ろに払うと、白い首がクリスチャンを誘った。
「昨日もいったが、君はヴァンパイアについて学ぶ必要がある。わたしはふつうのものも食べられる。確かに血の方が好ましいが。昨日、君の血を頂いたから当分はなくても平気だ」
証明するために一口シチューをすすった。
クリスチャンの言葉に彼女の目は驚きに見開かれ、シチューに対する賞賛には輝いた。
それからしばらくヴァンパイアについて話して聞かせた。彼女が熱心に耳を傾ける様子は微笑ましく、クリスチャンの講義にも熱が入った。
クリスチャンが二度おかわりをし、二人がシチューをきれいに平らげたころには、彼女はヴァンパイア本人を除けば誰よりも、ヴァンパイアという種族について詳しくなっていた。
食器を片付け終えると手持ちぶさたになった。
昨夜は彼の腕で眠ったというのに、二人きりでいるのが強く意識される。一人で暮らすのに慣れているせいだと自分にいい聞かせても、それが真実ではないと心は告げていた。
強い視線に振り返ると彼は昨夜と同じソファで、同じようにくつろいでいた。
あんな風に見つめるのをやめてくれればいいのに。
永遠はほかにすることがないかと周りを見回したが、部屋は片付いていた。そもそも物の少ない部屋は散らかりようがなかった。しかたなくすでに何度も拭いているテーブルを拭きなおした。
「落ち着かないのだろう? 君はもう休むといい。わたしはしばらく出ているから」
確かに落ち着かなかった。だが出て行って欲しいとは思わない。
「いいえ。そんな必要はないわ」
彼は音も立てず優雅に立ち上がった。
「少し必要なものがあるのでね」
その言葉に心が乱れた。
「血なら私から摂ればいいでしょう」
彼はポケットに手を突っ込み、肩をすくめた。
「血は足りている。住処へ行って予備のカーテンを取ってくるだけだ。君のバスタブはわたしには窮屈すぎるのでね」
両手を広げて部屋を示した。
「カーテンならここにだってたくさんあるじゃない」
「だが、遮光カーテンではない」
彼は辛抱強く続けた。
くつろいだ様子で立っていても、どこか人離れした雰囲気をまとっている。
だが、どんなにパワフルで、超人的な力が使えても苦手なものはある。だから彼はバスタブで身を縮めて眠っていたのだ。まわりに窓のないバスタブならずる賢い太陽も彼に手出しは出来ない。
恥ずかしさに顔をうつむけ、小さな声で謝った。
「ごめんなさい。うるさくいって。うんざりしたでしょうね」
彼は永遠が「ヴァンパイアの笑み」と密かに呼んでいる、片方の口角だけを上げる歪んだ笑みを浮かべた。
「いや、気にしなくていい。だがわたしが自惚れた男なら、君が嫉妬しているのではないかと思うところだ」
彼の言葉にドキッとした。
私は嫉妬していたの?
彼のことをほとんど知りもしないのに。だが彼が自分以外の誰かから血を摂ると思うと…。
これ以上考えたくなくて話を変えた。
「そういえば住処って、どこに住んでるの?」
そんな考えなどお見通しだというように彼の瞳が煌いた。
「スコットランドだ」
「スコットランド!」
彼女の瞳が大きく見開かれた。
「スコットランドってあのスコットランド? イギリスの上の方にある?」
しどろもどろな彼女が愛らしく、スコットランドを知っていることが嬉しかった。クリスチャンにとってスコットランドは特別だった。迷信深いこの国でだけは、自分が異質な存在であることを忘れていられた。
「ああ。そのスコットランドだ」
「だけど―しばらく外に出てくるだけだっていったじゃない。私は一時間もかからない場所に住んでいるのだとばかり。いくらあなたが永遠の命を持っているからって、飛行機で何時間もかかる外出を、散歩かなにかのようにいうなんて。あなたは遠く離れた場所に行くことをいつもそんなふうにいうの?」
人間には驚いたり緊張したときに、黙り込む者と口数が多くなる者がいる。
どうやら彼女は後者らしい。
「ああ、そうだ」
簡素な返事を返されて次の言葉を紡ぎ出せず、口を開いたり閉じたりしている様子がおかしくて、もうしばらくこのままにしておこうかとも思った。
だがかわいそうなので止めにした。
「一緒に行きたいか?」
「パスポートがないわ」
彼女は手で触れられそうなほどがっかりした雰囲気をまとっていた。
欲しくてたまらない玩具が、ほんの少し金が足りなくて買えなかった子どものようだ。いや、彼に比べれば彼女は赤ん坊みたいなものだ。たったの十八年しか生きていないのだから。
「パスポートは必要ない。空を飛んでいく」
「空を飛ぶ? 確かにあなたはとても早く動けるとは聞いたけど、空を飛べるなんていわなかったじゃない」
「怖いのか?」
「怖くなんかないわ!」
返事が早すぎた。
だから安心させるために、いわずもがななことを言った。
「落としはしない。わたしがしっかりと君を抱いておくから」
彼女はしばらく黙りこくっていたが、クリスチャンに近づくと手を差し伸べた。
「私も連れて行って」
手の甲に唇を押し当てた後、その昔宮廷でしていたお辞儀をした。
「仰せの通りに」
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