「やめて摩耶!」

 屋上に金切り声が響き渡ったのは、ナイフの刃がもうすぐ悠磨の体に突き立てられようとするまさにその寸前だった。

 「悠磨!」

 先ほど頭の中で聞いた声は、世界で美しい声は、どうやら幻覚ではなかったようだ。しかし、今はそんな感慨に耽っている場合ではない。

 景子が、すぐそこにいるのだ。それはすなわち、いつ摩耶の標的が変わってもおかしくないということだ―それも、景子に。

 「景子!動くな!」

 まるで自分が犯人であるかのようなセリフを叫ぶと、動きをゆっくりと止めた摩耶の目の前から一瞬で消えた。景子めがけてダイブするや否や彼女の体を突き飛ばし、その上に彼女を守るようにして覆いかぶさる。景子はその下で微動だにしなかった。頭は打っていないはずなので、気絶したり負傷したわけではなさそうだ。

 ふらふらと摩耶が寄ってくる。右手には件のナイフを握ったままだ。

 「摩耶、お前も動くな。それか手の中のナイフを放せ」

 「邪魔者がいたんじゃ何もできないんですけどー」

 残虐な笑みを浮かべながら一歩ずつ近づく摩耶に、悠磨の焦点は合わせられた。既に脳内では計算が始まっている。

 ―あと少し、あと少しだ・・・

 多少の切り傷や軽い刺し傷くらいは覚悟するしかなさそうだが、それでも景子を守れるならそれでも仕方ないという決意はできた。ただもし失敗すれば、景子の命はなくなるだろう。元々は景子が情緒不安から隠していた、まさにそのナイフで。彼の目には、怒りだけが爛々と輝いている。

 ―なんで摩耶あいつが景子の宝物を持ってんだ?あいつに何の権利がある?

 もう気づいていた。摩耶の持っているバタフライナイフは、景子の学校の机の引出に入っていたものだ。いつの時か「お守りがなくなった」と騒いでいた原因は、摩耶だったらしい。まさかそれで自分と景子を殺すつもりなのか・・・という考えがよぎったとき、摩耶が悠磨の射程圏に侵入した。右足が一歩、悠磨の目印となっていた地点に置かれた。

 ―今だっ!

 景子の上から身を踊らせるように跳ねると、手にナイフを持ったまま進む摩耶に躍り掛かる。そのまま摩耶の膝を狙って低い姿勢のタックルをかました。もろに衝撃を食らった摩耶は、そのまま後ろに倒れ込む。倒れた時の衝撃など気にも留めず、悠磨は倒れた摩耶の右手首を思いっきり踏みつけた。

 「痛ぁっ!」

 悲鳴を上げた彼女は、一瞬の激痛に耐えきれずに手の中の獲物を取り落とした。もう一度柄を掴もうと伸びるその腕よりも先に、悠磨のつま先が勝った。渾身の力でナイフを蹴飛ばした。

 「お前のお守りだってことはわかってるけどな、今だけは許してくれ。俺がお前を守れる最後の手段だ」

 無傷の景子は上体を起こすと、悠磨に向かって懸念の目を向けた。「お願いだから死なないで」という言葉を読み取ることはできる。

 しかし、後ろは気づけばビルの縁。一歩でも踏み外せば―ジ・エンドだ。


 ※


 何も持たずに悠磨が家を出たのを、一人の人間が不審に思っていた。有紗だ。

 「どーこ行くんだろ?」

 シャワーから上がったばかりの彼女は、兄の行先が非常に気になっていた。

 景子と付き合い始めたことを、妹とはいえまだ全く知らない有紗は、悠磨が景子と喧嘩したのは知っていたが仲直りしたことすら知らない。だからこそ、受験生の彼が何も持たずにどこかへ行くというシチュエーションが考えづらいことだった。

 幸か不幸か、景子との関係を知らないことによって、彼女の脳内での選択肢が狭まった。

 『行方不明』という嫌な言葉が頭をよぎる。慌てて悠磨のケータイを呼び出してみるが、一切応答がない。留守録を入れても一向に返事が来ないので、業を煮やした有紗はそのまま景子の家に向かった。

 しかし、そこもまたもぬけの殻だった。

 「・・・兄貴、どこだろ・・・」

 景子のケータイも鳴らしてみたが、こちらも一向に反応がない。

 痺れを切らした有紗は、悠磨の心当たりのありそうな人間を思い出そうと努力することにした。

 ―思い当たる人間、端から声かけてみるしかないわね。でも兄貴の友達・・・えっと、それは兄貴の部屋に行けば連絡先あるんだよね?

 そういえば、「連絡帳」と書かれた手帳が彼の部屋にあったことを思い出した。それを探せば、彼に心当たりのある人間が見つかるかもしれない。

 となれば、一度家に帰るだけだ。

 嫌な胸騒ぎが有紗を悩ませる中、全力で走って家まで戻った。


 ※


 「そこから落ちればあんたもわかるでしょ?少しは瑠乃の気持ちも」

 「一つだけ教えろ」

 「何よ、何なわけ?」

 

 「どうして瑠乃は死なずに済んだんだ」


 長くわからなかったことをこのシチュエーションで訊くのもどうかと思うが、彼はそれに加えて時間稼ぎを画策していたのだ。今、後ろにある彼の右手には、ケータイが握られている。ブラインドタッチでケータイを操るその手は、既にビルの屋上からはみ出している。通行人が誰も気づかないことを恨めしくも思ったが、今はそれよりも最善策を尽くすしかない。たとえ誰かが警察に通報したとしても、それまでにここから落っこちれば意味がない。九分九厘、景子も巻き添えで死ぬだろう。それも、悠磨よりも残虐な方法で―

 「瑠乃は確かにこのビルから飛び降りて自殺した。俺も景子も泰典も、目の前で見てた。だがしかし彼女は現に生きてる。そうだろ?」

 僅かに彼女の目に動揺の色が走り、すぐに憎悪の色を戻した。そこには既に、欠片ほどの理性も残っていなかった。ただただ「悠磨と景子を殺す」ことのみに集中している。

 「あんたは知らない。絶対に、その理由を知らない」

 憎々しげに口を開くと、彼女は続ける。

 「あんたは本当に瑠乃が生きてると思ってんの?」

 「ああ」

 ここまでは悠磨の計画通り、時間をきちんと稼げている。何とかこのペースで行けば、有紗か泰典の助けを得ることができるだろう。

 「能天気でいいわね、あんた。知らぬが仏っていうのはこういうことを言うのか・・・」

 場の空気にそぐわないため息をついた彼女は、

 「死ぬ前に訊いとく?」

 「死ぬかどうかは別としてな」

 余裕めいた態度を見せるが、その心は妙な胸騒ぎに踊る。

 

 

 「あれは瑠乃じゃない。瑠乃の双子の妹よ」

 

 「・・・は?」

 その言葉は、どうしても信じがたい言葉だった。耳がおかしくなったのかと思ったが、どうやら現実のようだ。つまり、彼女の言っている言葉をこの耳で実際に聞いたという現実は、決して幻ではないということだ。

 「ど、どういうことだ?」

 「あんたたちの前に現れたのは、瑠乃の双子の妹の璃乃りの。だから瑠乃じゃないの。瑠乃は・・・飛び降りた時に死んだよ。即死だった」

 だんだんその目に感情が戻ってきた。涙という形になった感情は、ゆっくりと彼女の頬を流れる。彼女の心の中に、隙間ができたように見えると、その隙を悠磨は逃さなかった。

 一気に体を捻って体勢を逆にすると、摩耶の右手首を掴んで捻りあげた。

 「嫌っ!」

 摩耶の悲鳴は悠磨の意識には届かない。

 今度は悠磨の目が無機質なものへと変化した。

 「説明しろよ」

 声も全く冷たいものだった。彼らの後ろで景子は放心状態で座り込んでいた。ここからはもう、悠磨のペースだ。

 「瑠乃は死んだ?あいつに妹がいる?」

 その目を覗き込むと、感情の裏に動揺の色が見えた。

 ―こいつ、嘘だな。

 「それは・・・あの子にも妹くらいはいるわよ。あんたもそうでしょ?」

 精一杯、強がるように彼女は声を絞り出す。何もかもが嘘にしか聞こえない。

 ―そうか、どこまでもシラを切るつもりか。

 不意にその左手を、彼女の茶色い髪に伸ばした。そして―

 「悠磨やめて!お願いだから!」

 景子の悲痛な声が響くが、悠磨は躊躇うことなく摩耶の髪を一房掴むと引っ張った。

 「うっ・・・」

 涙を流しながら苦しげに呻く摩耶を氷の目で見据えた悠磨は、突然ゆっくりとその手を緩めた。解放された摩耶はしばらく呆然としていた。

 何かの気配を感じた悠磨は、おもむろにその顔を上げ、驚愕の色に染め上げられた。

 「彩音・・・」

 それは、最後に会った時とは様変わりした彩音の姿があったからだ。

 「どうして・・・」

 我に返った摩耶の声が後を追う。

 「なんとなくわかってたの。ここに行くなって」

 どこまでも透き通る彼女の姿は、もう目視できているのが奇跡にしか思えなかった。景子はいったい何が起きているのかという表情だったが、徐々に驚愕に目を見開く。

 「もしかして・・・松本彩音さん?」

 「そうだ」

 無機質だったさっきまでの声から一転し、普通の声に戻った悠磨が応える。

 「つーか景子、お前にも見えてんのか?」

 「うん、結構透き通ってるみたいだけどね」

 景子はしかし、どこかで見たような記憶がある気がしてその顔を眺めた。泰典と一緒にいた子は確か、かなり昔、泰典の隣にいたことがあるような・・・

 「あっ!」

 「思い出したのね。泰典―彼と付き合ってた頃にお会いしたもんね」

 静かな笑顔を浮かべ、彩音は景子を慈愛のこもった眼差しで見つめる。

 「あんた・・・さっき、倒れたんじゃなかったの?」

 「倒れた?」

 摩耶の言葉に、悠磨が敏感に反応する。

 「さっきあたしが部屋から出てく時、気絶したのよ」

 「そう、それなんだけどね」

 急に彩音の顔から光が消えた。徐々に徐々にその顔に影が差す。

 夕陽が屋上にいる全員を照らし出す中、彩音の顔色を伺うかのような沈黙が訪れた。まさに時間が止まったように、全ての感覚が止まった。

 どれくらい経っただろうか。夕陽が少しずつ沈もうとしている。


 不意にその静寂を、彩音が破った。どこまでも清らかで―儚い声で、空間の、そしてその場にいる全員の心の静寂を破った。


 「私ね―今から消えるの。さようなら・・・」

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