3
陽炎のように揺れる街の景色を、悠磨はそっと見下ろしていた。
先日、景子によってあわや自殺寸前だったところを取り押さえられ、何とか命を今日まで永らえている。だが、あのまま景子が来なかったなら、間違いなく悠磨は身を躍らせることになっていただろう。
そう、去年の瑠乃のように―
何を思って自分が飛び降りようと思ったのか、今でも全く分からない。事故に近い減少だったのは言うまでもない。正常な思考回路だったとしたら、そんなことは決してしなかっただろう。
考えてみれば、「何となく」と言って自殺した松本彩音の気持ちも少しずつわかってきたように思える。確かに「何となく」という死に方もあり得るんじゃないかということが身をもってわかった。それでもわざわざ遺書を残すような気持ちはわかりかねるが。
今彼は、そのビルにいる。全てが始まった元凶の、まさにその場所に。
彩音がちょくちょく現れてはちょっかいを出してきたのも盆前までだった。何かにつけて景子のことをどう思ってるのかと訊いたりしては最終的に悠磨を半ギレさせていたが、それ以降はなぜかぱったりと目の前に姿を現さなくなり、落ち着いた。落ち着いたらそれはそれでどこか淋しいということに気付いた時、自分がどこかで彩音の存在を許容してきたということに今更ながら違和感を覚え始めた。
確かに気にはなった。気になったから調べた。
だがそれは、やはり間違いだったと思う。今だから言えるとはいえ、この件に首を突っ込んだことを後悔している。
苦しみもわかる。憎しみもわかる。それ以上に、失うことへの恐怖もトラウマもわかる。
それでも致し方がないことだと思った。
―彩音には、しっかり成仏してもらおう。
少し前に彩音が現れた時の、彼女の独り言がリフレインする。
「もうすぐ消えちゃうんだよね、私」
その言葉が真実ならば、悠磨は心の底から安心できる。自分を、その周囲を締め付けるものがなくなるからだ。しかしもし彼女の嘘あるいは間違いだとするならば、悠磨は一刻も早く動き出す必要があると感じていた。
それは、彩音の存在を完全に消すために、だ。
彼女はこちらの世界に体がない。そして、どうして死んだのかは別として、この世に執心していてもいいことはない。彼女にとっても、周りの誰にとってもだ。
だから、彼女を消すための方法を考えていた。瑠乃の姿に重ねて―
※
摩耶は悠磨の居場所がわかっていた。家から後をつけてきたからだ。ミニスカートのポケットの中には、バタフライナイフが入っている。その感触を確かめながらそのビルまでやってきた。
「あたしがやるわ」
目には獰猛な輝き。これから自分のすることへの恐れはない。親友を奪われかけ、さらに親友を奪われたのだ。無念の死を遂げた彩音のためにも「復讐」は当然だと思っている。それを彩音が放棄してしまったとしても、摩耶がやらなければならないと思っていた。
「いくらあんたが覚えてなくても、このあたしが憶えてるのよ―」
ビルの屋上に人影は見えない。見えるとすれば瑠乃のように飛び降りる人間だけだ。
つまり、今回彼がここに来たのは死ぬためではない。この前尾行した時には自殺を図り、そこで走ってきた景子に阻止された。目的を遂げるつもりでやってきたのかと思いきや、そうではなかったようで安心した。
―ようやくあたしの手で殺せる・・・
教室での摩耶ではない。素の摩耶が、そこにいた。
ゆっくりとバタフライナイフを取り出すと、その刃を出す。
静かにビルの階段を上る彼女は、既に理性も何もかもを失った人形と化していた。
※
扉の開く音で、悠磨は閉じていた目を開ける。
彼の少し後ろには、摩耶が立っていた。彼女の右手に握られているものを見て、戦慄した。
「なぁ、どういう了見だ?」
「なにがよ」
「その右手に握ってるもの、どういうことだよ」
その言葉を反芻するかのようにして、
「どういうこと?それはあんたが一番知ってるでしょ?」
「―俺が?」
言ってから、気づいた。
『全部あんたのせいよ!』
いつもの仮面を脱ぎ捨てた瞬間の、彼女の言葉。その意味が、これなのだ。
彩音の死の全てを自分のせいにされた。しかしその原因がわからない。わからないまま、今を迎えている。
「あんたはいっつも嘘ついてた。あんたは彩音のことも知らないって言い張ってきたね」
「待てよ。俺はマジで何も―」
ナイフの刃先を悠磨に少し押し出しながら、そのまま言葉を続ける。
「瑠乃を殺したのは、あんたと景子」
否定できず、しかし肯定することもできない。摩耶と仲の良かった瑠乃を死に追いやったのは、確かに悠磨と景子だ。
「クラス中みんなを瑠乃の敵にして、あんたたちは一方的に瑠乃を責め立てた。たかだか文化祭のことで失敗したからって理由をこじつけて」
「こ、こじつけたってなんだよ!」
「景子は前々から瑠乃が嫌いだった。性格的にもその言動も、あんたが好きだっていうところも特にね」
「・・・どういうことだ?」
「景子は、自分の好きな人間を取られたくないって一心だけで、あんたのことだけで、瑠乃を貶めて苦しめたの。それにあんたも加担した」
言っている意味が全く分からない。景子のことにどうして自分が「加担」したと言えるのか。しかしそれを口にするほど迂闊ではない。
彼女の手の中で、ナイフが踊っている。これはいつ刺されるか、はたまた切りつけられるかわかりやしない。下手な発言は一歩間違えれば、彩音と同じ世界の住人になるだろう。
―冷静になれ・・・冷静にだ・・・
自分をクールダウンさせ、状況を再び確認する。
今の今までほぼ絶縁状態にあった摩耶が、このビルにやってきた。それも、ナイフを持って。要するに、悠磨を殺しに来た。
悠磨は今、瑠乃の飛び降りたビルの屋上に立っている。景子には何も言わなかった。いくら恋人とはいえ、心配されても悠磨が困るだけからだ。また自殺しに行くのかと不審がられてしまっては何も考えられないからだ。
そこに、自殺未遂より厄介なことが起きている―
「最悪だな」
苦笑するしかできなかった。
「そうよ。あんたは最悪よ」
かみ合わない会話を、ゆっくりと交わす。ようやく悠磨の思考回路にもエンジンがかかってきた。
この状況からは脱出できそうにない。再び泰典を頼るほかはないだろう。ケータイを取りだし、泰典の番号を呼び出す。摩耶はその一挙手一投足をただ黙って睨みつける。
しかしコール音だけがひたすら鳴り続け、全く進展がない。出る気配がなかったので、仕方なく電話を切った。
―八方塞がりだな・・・
悠磨は天を仰いだ。バタフライナイフの刃が自分に向かっているのにも関わらず、先ほどまでの恐怖感は木端微塵に砕かれていた。
悠磨がポケットにケータイを入れたのを見計らい、摩耶は再び話を再開する。その顔からは、余裕の色が窺える。
「あんたも率先して男子を景子の味方につけさせてた。瑠乃を孤立させるために。そうして文化祭で、失敗することが始めから見えてた企画の責任者をやらせて、見事に計画通り」
笑顔が逆に彼女の怒りの大きさを物語る。
「それは―俺のせいか?」
「何を今更ほざくつもり?」
「俺は景子を助けたかった。だから景子が泣きながら助けを求めてきたら何もそれ以外にできなかった。俺は―」
言葉に迷う。景子を守るために、一人の人間を犠牲にしてしまった事実は変えられない。それが摩耶の大事な親友だったことも事実だ。そのことで1年も苦しい思いを景子も自分も味わい続けてきた。
だが、景子を守ろうとしたその思いもまた変わらない。たとえそれが誰かの死を招くことになったとしても、間違ってなかったと言い切れる。
板挟みになり、しばらく虚空を見つめた。
摩耶はそんな悠磨に、一歩ずつ近づく。その手に握ったナイフの構えは変わらない。
「瑠乃が死んだと信じてた彩音は、元彼だったあんたのダチのとこに行ったの。彼女はそいつに、自分の人生がわからないから、もう一度傍にいてほしいって言ったの。そいつは冷たく突き放した」
「俺のダチ?」
「あんたのダチよ。確か・・・泰典って男?」
凍りついた。彩音のことを、泰典は知っていたのだ。知っていたうえで、悠磨には知らないふりを通し続けたのだ。怒りよりも先に、唖然とするしかなかった。
「『だって自分で言ったじゃん。別れろって』。その一言だけで、そいつは彩音を突き放した。それさえなければ、彼女だって―彩音だって、死なずに済んだ」
その目は、その声は、今にも泣く寸前だ。
「でも、元の引き金を引いたのはあんた」
悠磨の頭の中では、ようやく全てが繋がろうとしていた。泰典という存在が関係図に浮上したことで、彩音の死が、瑠乃が、さらに摩耶が一直線に繋がろうとしている。快哉を叫びたくなるほど目の前が明るくなったが、現実の目の前は真っ暗なままだ。
彼女の腕が踊るのが見えた。
「だからあんたも景子もその男もみんな殺してやる!」
叫んだ彼女は、猛然と悠磨に突っ込んできた。
―刺されるしか、ないな。
避けることはほぼ不可能に近い。刺されることは間違いないだろう。
再び目を閉じた。
景子の、有紗の、彩音の、泰典の、両親の顔が浮かぶ。走馬灯というのがどんなものなのか、今になってようやく理解できた。
思い出が、回る。
景子と遊んで喧嘩した日々。最後に恋人になれるまでの、過去。
景子、景子、景子―
響く心の声は、何度でも自分の愛おしい人間の名を唱える。
―お前と恋人になれて、俺は幸せだった・・・
死ぬ前の回顧に、自然と笑みがこぼれる。
―お前は世界で一番だ・・・たとえ誰かを傷つけた人間だとしても、それは変わらない・・・
―悠磨!
どこからか、景子の声が脳に響いた気がした。あのときこの場所で聞いた残響だろうか。いずれにせよ、最後に一番聞きたかった声が聞けたことに、悠磨は満足した。
―じゃあな、景子。
鈍く光ったナイフの刃が、一直線に突き出された。
「彩音の、瑠乃の、あたしの憎しみ・・・全部残さず受け止めろ!」
摩耶の右腕は何の逡巡もなく悠磨へと向かい―
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