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「あ・・・れ・・・」
一瞬、意識が遠のいた。意識が復活した直後、気づけば鏡の前には自分の姿がなかった。幽霊とは言え鏡の前に映っていたはずの自分の姿が、今は映っていない。確かについ数秒前には映っていたはずだ。いや・・・よく考えれば数分前くらいに自分の姿が少し透けてて違和感を覚えていた気もする。しかしどこかその時点で全てを分かっていたのに知らぬふりをしていた気もして、どうしても落ち着かない気分になった。
それでもなぜか彩音は冷静だった。
―消えるんだな、私。このまま・・・
自分は消えるんだと思っていても、なぜか取り乱すこともなかった。ただ一点の心残りだけを除いて。
―復讐、できてないまま消えるのは嫌だったな。
しかし、鏡やガラスに姿が映らなくなったこと以外の変化はなかった。その後も相変わらず摩耶の肉眼にはくっきりと姿が映っているようだ。もしかしたら悠磨にはもう見えないのかもしれないが、それでも摩耶に見えているならいい。十分だった。自分はまだ消えていないという証があるだけで、羽でもついたかのように軽い気分になれた。
それでも、鏡に映らなくなったということは、もう神が自分を消すまでの時間は短いということだ。持ってもこの夏を越えられて御の字だろうか。それまでには「復讐」を終えたかった。
残された、僅かな時間。悠磨や景子を縛り付ける十字架となっている瑠乃も現れた。彼らと摩耶の仲も裂き、果てには彼らの中まで引き裂いてやった。ここまでやって、残るはとどめを刺すべき人間―彩音が、悠磨を絶望させることだけだ。
彼への復讐に固執する自分が、だが最近では疑問にも思うようになってきた。
あの時泰典が瑠乃の「死」について自分に告げた言葉を思い出す。
「だって自分で言ったじゃん」
その言葉のどこにどれだけ、果たして自分の復讐を正当化できるだけの要素があるのだろうか。譲れないと意固地になるだけの理由があるだろうか。そもそも何の意味があるのだろうか―
「ダメよ私。何を今さら迷わなきゃいけないの?」
一人、自分に向かって言い聞かせてみる。
「親友が騙されたのよ。殺されたのよ。だけど私は何もしないの?」
強く、胸に響かせる。
透き通るように鈴の音のような声を己の心に通すが、しかし揺れ動く心は一向に鎮まろうとしない。
―「復讐」の先に、何があるの?
自分は、神の手によってこの世から消されようとしている自分は今、どんな存在なのだろう。それさえもわからなくなるようにして、二つの心は互いにいがみ合い、ぶつかり合い、すれ違っては摩擦で火花を飛ばしていた。どちらが本物で、どちらが偽物なのかも曖昧だ。
「私は・・・私は・・・松本、彩音」
自分が今、本当に自分自身であることを確かめたくて、つい自分の名前を唱えてみたが、それはさらに自分を不安と恐怖のどん底へと陥れる罠となるだけだった。
「鏡はどうして私を映してくれないのかな。意地悪」
鏡に八つ当たりするように、その手を鏡の中心に叩きつけた。だが、するりと反対側に抜けて終わりだった。
寂寥感という雲に覆われた光は、どこを彷徨っても見つかりそうにない。「復讐」をしてもしなくても、待っているのは絶望の一択だ。
※
「嘘でしょ・・・そんなことあるわけないじゃん!」
摩耶は叫んでいた。目に浮かぶ涙には、悔しさと絶望感が漂う。
「だってさ、鏡に映らないんだもん。仕方ないじゃん、いつかはそうなることだったんだから」
「でもそれがこんなに早いなんて聞いてないっつーの!」
あくまで微笑スタイルで冷静さを貫く目の前の彩音が、どうしても本物の彩音に見えなかった。激高する摩耶は詰め寄ると、
「よく冷静にしてられるねあんた!自分がこの世から消えて、いったいそのあとに何が残るの?!」
しかし、彩音の表情も態度も全く変化を見せない。摩耶の言葉がまるで聞こえていないかのように。
「あのさ・・・」
「私、いいの、もう」
「は?」
「復讐なんて、もういいかなって」
目の前の彼女が幽霊じゃなければ、間違いなく平手打ちはしていただろう。首根を掴んでいたかもしれない。あるいは本気で蹴りを入れていた可能性もある。
「あんたは!何のために!わざわざ自殺したの!瑠乃のためじゃないの!」
喚き散らしながら、もうそれ以上の思考はできなかった。
「バカみたいじゃん!勝手に死んどいて張本人は生きてる!おまけに瑠乃も生きてた!」
「だから?」
「だからって何よ!彩音、本気で目覚ませって!あんた何か勘違いしてんのよ!絶対そうでしょ!」
そこまで言えども彩音に変化は訪れない。
「あんた・・・」
「摩耶」
脱力し、崩れ落ちる摩耶に、彩音はあくまで優しく声を掛ける。本当はそこまでして駄々をこねる彼女に辟易していたのだが、あえてそれを表に出すほど頭が悪いわけではない。
「ねぇ、知ってる?復讐が生み出すものって、結局はさらなる絶望なんだよ」
魂の抜けた摩耶を、その言葉が燃えたぎらせた。燃え尽きようとしている火は、ガソリンによって大きな火に発展する。
「もういい」
「へ?」
「あたしが行けばいいんでしょ」
「どこに?」
首を傾げる彩音は、しかし徐々に嫌な予感に心を覆われ始めた。
「まさか・・・」
「あたしが彩音の仇を取ってくればいいんでしょ!」
彩音にできたことは、ただ硬直して身動きを取らないことだけだった。それも、自然に。
紡ぐ言葉を探すことも怖くなり、彩音は摩耶の腕にすがろうとした。
「やめてって、ねぇ!」
「何言ってんの!あんたの自殺を少しでも無駄死ににしたくないのよ!」
「無駄死に?」
非常に嫌な表現方法を使われて、彩音は自分の名誉の自殺が一瞬にしてズタズタに裂かれることを感じた。それと同時に、どこか自分のやることなすことの全てが意味を持てないものになって終わっているような気もして、板挟みの状態に苦しめられる。
―息が、苦しい。
それはまだ彩音がこの世に執着しつつも存在しているという何よりもの証拠だ。体が現世にあるだけでも十分だと思わせる唯一の手段だ。
―摩耶、やめて。私はそんなこと、これっぽっちも望んでないのに・・・
その声を押し殺したのは、ひとえに自分を思う摩耶の行動を阻止することがなぜか怖くなったからだ。自分のために復讐をしようと熱意を上げる彼女は、もう張本人の彩音が何を言っても止めないのだろう。止めることの無意味さと、己の理性を天秤にかけてみても、傾きはしない。
「あたしが、あんたの代わりに復讐するわよ。だって当のあんたが動かないじゃん」
そういうと、机の引出の中からナイフ―バタフライナイフを取り出した。
「ねぇ、これが何か知ってる?」
彩音は途端に顔色を変え、口を不自由に動かした。
「瑠乃が死んですぐに、景子の机の中から見つけたの」
話を続ける摩耶の顔には、実に清々しいほどドス黒い邪気が漂っていた。もはや、笑顔だ。
「あのバカ女、これで瑠乃を殺すつもりだったんじゃない?だけど、彼女はそれができなかった」
「やめて・・・お願いだから・・・」
「でも景子は、このナイフよりももっと鋭い、残酷な凶器を持っていた」
目には怒りのあまり狂った光が反射する。
「わかる?」
問いかけるその声は、無機質よりも「無」に染まる、氷の声だった。
「わ・・・わからない・・・でも・・・それは・・・」
しどろもどろになりながらも、「わからない」という回答を返した直後、
―・・・!
彩音の目の前で、鈍く銀色に光るものが動いた。風を切り裂く音がして、ゆっくりと摩耶の手の中に収まった。
「瑠乃を精神的に追い詰める、言動よ」
狂った笑顔さえも消え、能面のような表情が輝く。光を失いかけたその表情は、ただ自分の目的を果たすことだけを使命としているような機械的な人間の顔だった。
許せないという一心が、摩耶の全てを狂わせた。
「行くわ」
「待って!」
彩音の叫びは届かなかった。
不意に襲った立ち眩みが、彩音の意識を一瞬にしてシャットダウンした。摩耶は振り返りもしなかった。
※
泰典は、ゆっくりと思い出していた。
彩音に向けた言葉を。
「だって自分で言ったじゃん」
実は全てを知っていた。瑠乃のことも、彩音のことも。
「復讐」の最大にして元凶だったのは、泰典なのかもしれない。それほど悠磨の知らない全てを握っていたのだ。
瑠乃が実は生きているということも、自殺騒動の直後から知っていた。「言わないで」という彼女の切なる願いによって自分の中に封印してきた事実は、彼女のこの街への帰還と悠磨の前への出現によって明るい場所にさらされることとなった。だが、その経緯も何もを悠磨はまだ知らない。実際に起きたことの2割も知らないだろう。
「悪いな悠磨。俺はお前が大事な親友だったんだけどな」
苦しげな表情で呟くその顔は、絶望や嘆きを超越して、達観だけを示しだしている。
「でもな、やらなきゃいけなかったんだよ、あいつらのためにも」
その重さを、その苦しさを解き放たれたとき、自分の罪の大きさをようやく身に染みてわかった。
1年前、悠磨に電話で残した留守録―
「瑠乃が、ビルの屋上にいる。飛び降りる気だ」
死ぬつもりではないのがわかっていて、悠磨にそう嘯いた。結果は、知るとおりだ。
予期せぬことに、その親友だった松本彩音まで殺してしまった。
その責任は、自分が取るしかない。泰典は、覚悟を決めた。
揺るがぬ決心を刻み、彼は目の前の赤い錠剤を水なしで口にした。
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