3章

 

 消えようとしている。それも、もう近いうちにだ。

 彩音には、それがありありとわかっていた。

 盆とはすなわち、死者の霊がやってきて、すぐに帰ってしまう期間だ。成仏した霊を嫌というほど見た彩音は、自分がそれと同じような姿になりつつあることをわかっていた。

 感情が次々とわからなくなっていった。そして、記憶が少しずつ薄れていくのが自覚できた。1つ1つと記憶が薄れるたびに、もうすぐ世界から排除されようとしている自分の存在を恨んで嘆きたくなった。


 ―「嬉しい」って、なんだっけ?

 ―「悲しい」って、どういうものだったっけ?

 ―「悔しい」とか「ウザい」って、どんなもの?

 そればかりを繰り返し、日々は過ぎ去っていく。彩音にはどうすることもできない。


 しかし、手に握られた悠磨の『記憶メモリー』と、それに関する記憶だけは、なぜか消えも薄れもしていない。神が彩音を消す前にくれた猶予なのか、しかしそれを思うと彩音はさらに焦りを感じるだけだった。

 ―もう、時間はないのね。もうすぐほんとに消えちゃうのね。

 淋しいとも悲しいとも、全く思わなかった。それが感情を失った彩音の、哀れな今の姿だ。

 さらに、気づいていた。『記憶メモリー』が少しずつ小さくなっていることに。それはすなわち、悠磨が徐々にその記憶を取り戻している証拠だ。今に彼は、真実にたどり着くだろう。それは果たして彩音が成仏して消える前なのか、それとも―

 

 ※

 

 全てが回りだそうとしている。

 松本彩音の自殺をニュースで知って深入りし、そこからあらゆる人間を巻き込んだ末に摩耶を敵に回し、彩音の幽霊に出会ってしまい、挙げ句に景子が自殺に追い込んでしまったはずの神藤瑠乃が突然生きた姿で現れた。

 悠磨には、まるで神が全てを仕組んだようにしか思えないほどにことが進んでいる気がしてならなかったが、何をとやかく言っても無駄だと諦めることにしている。深く考えることが今は得にならないと、はっきり自覚しているからだ。

 受験勉強を忘れそうになりながら、必死で解決の糸口を探っていた。景子や摩耶との関係の修繕に加え、彩音や瑠乃のこともなおさらだ。そんな夏休みを過ごしていくうちに、早くも盆を過ぎていた。

 ―なぜ彩音は自殺したのか・・・

 今日もまた悠磨は、そればかりを考えながら自室の机に向かっていた。

 「なんとなく」という言葉を残して自殺した彩音に、1年前の悪夢で自殺した人間の姿を重ねてしまったのが間違いだった。結果的にその人間が目の前に現れたのも、何かの定めなのだろうか。

 あの喫茶店での一件以来、景子とも瑠乃とも会っていない。確かに厄介な存在となっている瑠乃が現れないことはありがたかったが、特に家が近い幼馴染の景子と1か月近く会っていない上に連絡も取っていないということは、一種の異常事態に等しかった。

 「いったい瑠乃あいつは何がしたいんだ?」

 神藤瑠乃。それが現在最も悠磨を締め付ける存在だ。彼女の出現が悠磨の乱心を引き起こし、自分が景子と摩耶の仲を切り裂いてしまったようにして悠磨と景子の存在を切り裂こうとしている。とはいえ半分は自分のせいだと自覚しているが。

 だが、そこに大きな問題が発生した。

 ―景子は俺のこと、どう思ってんだろ?

 自分の想い人―景子が今、悠磨をどう思っているのかが気になって仕方がなかった。悠磨はだからこそ、自分の中で今まで以上に異常なほど燃え上がる恋心をもわかっていた。

 ―景子・・・

 もうその心の火を抑えるのは無理がある気がした。今は受験勉強に、そして目の前の苦境を打開することに集中しなければならないとわかっていながら、どうしても景子に対する自分の熱い想いに駆られ、板挟みに苦しむばかりだった。

 ―仲直り、できるんだろうか・・・

 不安と激情がまた悠磨の心を圧迫し、鼓動がおかしいくらいに速くなる。いつ破裂してもおかしくないような勢いのまま、心臓が急ピッチで跳ね上がっていた。

 何度手にしたケータイを閉じて放り出しただろう。何度謝ることを躊躇って、景子の家の目前で引き返しただろう。何度見かけたのにスルーしてしまっただろう。自己嫌悪に陥りながらもまた同じことを繰り返す日々に、何の価値も見いだせないとはわかっていながらそれでも逃げ続けるだけだ。

 「最悪だな、俺」

 口に出すだけで余計に自分が矮小な存在に思えて、悲壮感の中に浮遊する羽目になった。悠磨にはもう、自分という存在が屑に思えてくるだけだった。

 

 ※


 また景子は、悠磨をスルーしてしまった。

 喫茶店から出ていく悠磨を見たのに、何も声をかけることなく立ち去った。それはひとえに、自分が逃げたいだけだとわかっていた。悠磨と関わることに、どこか恐怖を憶えてしまう。そんな自分が嫌になるのに、また繰り返す。夏休みの間に何回悠磨を見かけては見て見ぬふりで無視して来ただろう。こんなにも好きな人を―

 「でも、悠磨は私のことなんかどうでもいいもんね」

 自虐的な笑みを浮かべながら、景子は気分転換のランニングに行くための準備を始めた。走るとどこか気分が爽快になり、悩みも心の痛みも忘れられるのだ。それがある意味現実逃避の一種になるとは重々承知しているが、受験勉強にも行き詰った今の景子はそれが一番だと思っていた。

 だから今はランニングに行きたかった。ひたすら走って、走って、走って地の果てまで行きたい気分だった。

 しかしウェアーに着替えた瞬間、ふとケータイに目が行った。いつもはランニングの時にはもっていかないのだが、今日は何となく持っていくべき気がする。一番連絡してほしい人からの連絡が来るような予感がして、景子はジャージのポケットにそれを押し込んだ。多少走りづらくなるだろうが、悠磨からの連絡を逃すのに比べれば全然何とも思えなかった。むしろウォークマンのほうが重く感じられるくらいだ。

 家を出て、ゆっくりと街の方向に走る。音楽に耳は集中しながらも、頭の中は悠磨の存在に占有されていた。悠磨は今どうしているのか、悠磨は自分のことをどう思っているのか、そんなことばかりが無限に景子の脳内でループする。

 

 そのせいだろうか。ビルの屋上に、悠磨が見えた気がした。

 よりによって、神藤瑠乃を自殺に追い込んだビルの屋上の、全く同じ場所に。


 フラッシュバックする。

 1年前の夏。涙を流しながらビルの淵に素足を掛ける瑠乃。

 「早く死になよ。あんたさえいなくなれば、みんな平和なんだから」

 急かすような自分の忌々しき声。

 「だから、ほら」

 下種の極み。そんな自分の笑い声が響く。

 「いいよ、じゃあ。あんたがそれでいいなら、あたしはそうする」

 涙声で言い放った瑠乃が、ゆっくりと手を広げる。

 「おい!お前何してんだよ!」

 怒鳴り声とともにドアが開き、悠磨と泰典が飛び込んできて―

 「でもね、あんたたちみんな、後悔させてやるから」

 震える声のまま、瑠乃は吐き捨てた。

 「あんたたちのせいで、また誰かが死ぬから―」

 そして宙にその身を躍らせ―


 「悠磨!」

 叫ぶが早く、ビルの屋上に向かって階段を駆け上がっていた。

 「バカ!何してんの!」

 ただの幻覚であってほしい。自分の勘違いであってほしい。

 ―お願い悠磨!悠磨はそんなことしない!

 言い聞かせるような心の叫びは、息も切れ切れになって来た頃に辿りついた屋上で、無残にも砕かれることになった。

 何の幻覚でもない。


 そこに悠磨はいた。よく知っている悠磨が、そこに立っていた。


 「バカ!悠磨のバカ!」

 訳も分からず悠磨に飛びついた。そのままビルの淵から引きずりおろした。

 「・・・痛っ」

 「何しようとしてたの!まさか死ぬつもりだったの?!」

 「はぁ?」

 「そうでしょ!飛び降りるつもりだったんでしょ?!」

 悠磨は無言のまま、景子の左頬に平手打ちをした。

 「何するの!」

 半狂乱になって喚いた景子は、頬が痛むのも気に留めず、再びその舞台へと上がろうとする悠磨に横から体当たりした。よろめいた悠磨を、さらに力ずくで押し倒す。その上に馬乗りになると、今度は悠磨に向かって平手打ちを繰り返した。

 自分の頬を、熱い液体が流れる。1年前の光景に今の悠磨が重なった瞬間、再び起こる惨劇の光景と、悠磨を失うという苦しみが自分を襲った。気づけば自分は今、悠磨を殴っている。

 ―よかった、止められた・・・

 そのために左頬を犠牲にしただけで済んだのならば、景子は他のことなどどうでもよかった。

 ふと悠磨は景子の手を掴むと、

 「こんなこと、昔もやったなー。その時のお前は泣いてなかったけど」

 「泣いてたのは悠磨のほうでしょ」

 泣き笑いの表情で、景子は笑う。

 つられて、悠磨も笑う。

 「バカ。何しに来た」

 その言葉は、喫茶店の時とは違って暖かさがあった。

 

 「やめさせに来たの。好きな人を失いたくないから」

 

 鼻で笑った悠磨は、そのうち声をあげて笑い出した。どこか嬉しいようで、何かに気付いたような、そんな声で。

 「いや、あはは!え、マジか!」

 「ちょっと、真剣に話してんの!」

 「わ、悪い悪い!あはは!」

 ひとしきり悠磨が笑うと、景子は彼の胸ぐらを掴んだ。

 「ねぇ、やめてよね、こんなこと」

 

 交錯する視線。

 心の声は、きちんと伝わっている。

 止まった世界の中で、景子にとって世界で最も美しい音色を悠磨は響かせる。

 

 「お前が傍にいるならな、ずっと」


 ようやく伝わったという感激から、景子は涙しながら悠磨に抱きついた。もう悠磨も拒みも偽りもしない。素直に景子の背中に手を回した。

 悠磨もまた、涙が流れていた。

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