5
景子は走るだけ走った。その体の中に溢れるエネルギーが枯渇してもなお、走り続けた。
全力を出し切って行きつけの喫茶店に着いた時には、悠磨の家を出てまだ10分も経っていなかった。歩いて20分弱はかかるが、それをいつもの半分の時間でたどり着けたというのは、執念の賜物だろう。
しかし、ここで彼女は致命的なミスを思い出してしまった。
―財布、バッグの中じゃん・・・
そう、彼女の後生大事なハンドバッグは今、悠磨の家の玄関先に投げられているはずだ。出ていく際に慌てていたので忘れていたが、喫茶店に入るのに財布がなくてはどうにもならない。仕方なく、その場は悠磨に借りることに決めた。
肝心な悠磨の姿を探すため、店の窓ガラスから中を偵察する。店のほぼ全体が見渡せる窓なのだが、彼女の視界には見慣れた少年のと「客」と思しき人間の姿はは皆無だった。死角になる場所にいるのか、それとも自分と有紗の読みが間違いだったのか、あるいはもう出てしまったという可能性もあるが、さすがにこんな短時間で退店なんてことはありえないだろう。
そわそわしながら出入り口に向かうと、ドアから出てくる人影があった。
「お、景子ちゃーん!今日はおひとり様?」
「マスター、悠磨見なかった?!」
切羽詰まった声音に気圧されながらも、マスターの顔が急に真剣みを帯び始める。
―来てるのね。
景子はその瞬間、確信した。
「ああ、そうだ」
マスターは、幾分間の抜けたような声で景子を呼び止める。
「悠磨君なら、俺の知らない女の子と一緒に来てるよ」
摩耶のことか?と一瞬考えたが、考えるよりも今は悠磨を探すほうが先だ。お礼も言い忘れたまま彼女は店内に飛び込んだ。
その目には、先ほど彼女が覗いていた窓が映る。そこから見えない席を探し出すことは、非常に容易なことだった。なぜならばその「死角」には1つしか席がなく、そこを悠磨と景子がいつも占領しているからだ。窓から見つからなかったのならば、あとはそこにしかこの店にいる可能性がない。
入口からずかずかと進んでいく。どこか逸る気持ちを抑えるかのように、両手は強く拳を握っていた。
景子の願いは見事に叶えられた。いつもの席に悠磨の顔が見えたからだ。しかし、彼と向かい合う女の後ろ姿は、明らかに自分の記憶にはないものだった。角度的な問題で顔が見えないが、摩耶でなければいったい誰なのか。有紗でさえも知らない誰かとなれば―
「悠磨」
そっと、しかし凛とした声を通す。決意と動じない意志がその言葉に乗せられて、悠磨の鼓膜まで届いた。
一瞬苦虫を噛み潰したような顔になったが、彼はその声に応えて振り向く。つられるような動きでその女もほぼ同時に振り向いた。
振り向いたその顔は、記憶にございませんなどと見え透いた嘘をつくには無理がありすぎた。
「あら、とうとう本命ちゃんがいらっしゃったのね。あんたが勝手に呼んだの?」
その女―神藤瑠乃は、どこか不愉快極まりないといった表情を、わざとらしく景子に向ける。
「何の話だ」
「大事な話の腰を折る人、嫌いなんだけどなー」
「あなた・・・死んだはずじゃなかったの?!」
「まさか。あんたみたいな人間に殺されるほど脆い精神力じゃないわよ」
立つ瀬がなくなりつつある景子は、目の前にいる憎い人間を睨みつけた。
景子を10年にも渡って呪縛してきた忌々しき存在を、精神崩壊させて死に追いやったと思っていたはずの存在を、今彼女の生の眼が見ている。それはすなわち景子の敗北を示しているのだ。悔しさとあまりの憎しみのあまりに景子は瑠乃を引っ叩こうとした。だが、不意にその手を誰かが握った。
「やめろ。下らない因縁は後回しにしろ」
それは、想いを寄せ続けている悠磨が発した冷酷な一言だった。
「く、下らないなんて言われたくはないわ!だいたいね、私はいったい誰のためを思って―」
「何しに来た」
再び降りかかる、心を失ったかのような悠磨の声。そこで初めて景子は、悠磨の様子がいつもとは全く違うことに気づいた。その声は、その表情は、その感情は、まるで景子のよく知る平川悠磨とは違った。
有紗にもらった踏み出すための勇気が、その全く知らなくなってしまった幼馴染のせいで脆くも崩れ去ろうとしている。走るときに振り絞れたエネルギーは、どうしても悠磨のせいで絞り出せない。おまけに100%いるはずのない人間が、忌々しき人間がここにいる。何が自分の身に起きているのかわからず、とうとう自分が今ここにいる意味さえも見えなくなった。
―どうして。どうして、悠磨。教えてよ・・・
虚しさのあまり、一番自分が知っていると自負していた悠磨に裏切られたような気がして、目に涙を溜めながら景子は喫茶店から飛び出した。
「行くんじゃなかった!」
先ほどまでの威勢はどこへやら、もはや彼女は悠磨に近づくことさえもできない気分だった。
※
摩耶は見ていた。全てを見ていた。
他人からは全く見えないが、隣には彩音がいる。結局、「幽霊だから私のことは見えないもん」と言って勝手に摩耶の部屋に泊まり込んだ彼女は、朝になって起きた摩耶を連れ出して、ここまで引っ張ってきたのだ。
今にも泣き出しそうな顔で景子が走り去っていったのを見届けると、
「何あれ?」
茶色の髪を軽く弄びながら、彩音に問いかける。
「んー、たぶん摩耶にも予想できないと思うよ、中にいる『原因』は」
「『原因』?それって平川一択っしょ?」
さあね?と意地悪く笑った彩音は、喫茶店に視線を固定したままだ。
中にはまだ、彼女のお目当ての人間がいるはずだ。自分の姿は悠磨にも摩耶にも見えるが、予想が間違っていなければ瑠乃にも見えるだろう。だがあえてこれ以上場を引っ掻き回すよりも、外から傍観したほうが楽しそうな気がした。
「これから何する気?」
怪訝な声で摩耶は尋ねる。しかし彩音は何も答えようとしない。
その目にはどこか、焦りの色があった。
「・・・時間がない」
真顔のまま呟いた彩音は、ゆっくりと自分の手を見つめた。透き通りかけた手には、まだ自分がこの世に存在しているという証がある。
「ん?何それ?」
ますます話が読めなくなってきた摩耶は、重ねて問う。
「時間がないって、いったい何が起こるの?」
今度は虚空に視線を固定させた彩音は、ゆっくりと言葉を紡ぎ出していく。
「残された、私の時間。それが、もう・・・僅かしかないの」
「・・・どういうこと」
何かを予感した摩耶の目に、「これ以上悟るな」というメッセージを込めた彩音の視線が突き刺さった。痛々しいまでに、彩音の目は強い願いが含まれていた。これ以上踏み込まないで、という無言のメッセージは、激しく摩耶を揺さぶった。
「彩音!」
思わず大声が出た。通行人が何事かとじろじろ見てくるが、お構いなしだ。
「呼び方はマスター、でしょ?」
「彩音!あんたは松本彩音!そうでしょ!」
摩耶はどうしても、別世界の存在になろうとする彩音を許容するわけにはいかなかった。自分にとって彩音は彩音。
―それ以外の何物でもないのっ!
瞬間、2人の周りの空気が凍てついた。
ゆっくりと時間が静止するような感覚が、摩耶を包み込んだ。
「私は死人。だから、私に名前なんてもうないの」
子供に言い聞かせるようにして、彩音は摩耶の頬に手を触れる。しかし、摩耶にはその手の感触が何一つとしてわからない。撫で上げる彼女の手は、幽霊の手だ。向こう側の光景は見えるし、触れようにもすり抜けてしまう。
「嫌だよ・・・そんなの嫌だよ・・・」
零れる寸前の涙を殺そうとするが、どうしてもできない。流れる液体に、摩耶は全ての感情を流してしまいたいと思った。
「彩音っ!」
「私ね、もうすぐ消えるんだ」
容赦ない現実を、唯一無二の親友に突きつける。その声は無機質すぎた。
「わかるでしょ?私がなんでこんなに急いでるのか、わかったでしょ?だから私は進むしかないの。この世界から消える前にね」
「消える?」
「そう。幽霊っていうのは、死んでからの限られた時間だけ俗世に存在できるの。その時間は、何に使ってもいい。だから・・・人を恨んで呪い殺しても、会いたい人のところまで行ってもいい。それで天国に行くか地獄に行くかが変わることもないから、誰もが思い思いのことをするの」
摩耶には、彩音という存在が不意に遠く、遠く感じられた。
やっと近くに戻ってきたと思っていた存在は、心の中にいたはずの存在は、もはや自分には手の届かない場所にあったのだ。
そんな摩耶の心中を察することもなく淡々と言葉を並べる彩音は、その存在がこの世界とは全く縁のないものだということをありありと煌めかせていた。
「だから私は、その与えてもらった時間を有効に使うの。瑠乃を、私を奪った最低な人たちに、生きる価値がないってことをはっきりと教えてあげなくちゃね」
「彩音・・・それがあなたの言う、『有効な使い方』なの?」
「もちろん」
胸を張って答える彩音は、その態度とは裏腹な思いに呑まれようとしている。
「だから、復讐を遂げなきゃいけないの」
その言葉の続きを、摩耶は耳を塞いで逃れることにした。だから、彼女には彩音の発した言葉を拾う術はなかった。
「神様が消す、その前に」
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