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「あら、驚いちゃったみたいね」
玄関先で、瑠乃が笑いながら言う。死んだはずの瑠乃が。幽霊ではないかどうかを確かめるために彼女の腕に伸ばした手は、確かな「生」の感触を感じている。
「なんでお前、生きてるんだ」
言いたいことの意味を履き違えれば大変なことになる一言を、震える声で放った。しかし彼女は何食わぬ顔で、
「んー、知らなかったんだ、あんた」
履き違えはしなかったが、今の彼の疑問については理解できなかったようだ。今の言い方だと、他にも瑠乃の生存を知る者がいると思われる。
「知らなかったもなにも、まず誰が知ってるんだよ」
「聞きたい?」
驚いている悠磨とは対照的に、瑠乃はごく平然とした顔で悪戯っぽく笑う。
「場所を変えるか。ちょっと離れた喫茶店まで行くぞ」
苦い顔で悠磨は家の中に戻る。
「なに、誰だったの」
何も知らない有紗は、暢気に兄に尋ねる。その目がややあって驚きに変わっていく。
「兄貴・・・どしたの?」
「は?」
「すっごい顔青いんだけど、ちょっと大丈夫なの?」
「問題ないさ。それより今からセギル行ってくるから」
なんとか心中の動乱を隠し切り、一方的にその場を離れた。
「あ、え、兄貴?!」
妹の声を無視して財布を取りに自室へ戻る。動揺のあまりに階段を踏み外しかけたが、何とか転がらずにたどり着いた。
―なんで、なんでだ。
混乱した頭のまま、悠磨は家を飛び出した。瑠乃が後ろからついてきているのはわかっていたが、その後ろに見知った人間が接近していることには気づけないままだった。
※
悠磨の家にたどり着いた景子は、インターホンを鳴らした。指が微妙に震えているのは、これから約1日ぶりに悠磨の顔を見るのが、なんとなく後ろめたい気分でもあるからだ。
―最初になんて言えばいいんだろう・・・おはようかな、それともごめんね?えっと、好きですはなんか今言うべきじゃないし・・・あーもう!
頭の中が混乱していて、自分が何を考えているのかさえも理解できていない。
「はーい」
間延びした女性の声とともに、ドアが開いた。そこに立っていたのは、
「あ、景子おねぇちゃーん!」
無邪気な少女のように飛びついてくる有紗だった。本当に高校生なのかと疑いたくなるほどに無邪気だ。
「あ、こ、こんにちは有紗ちゃん。あの、悠磨は?」
少しだけ、妖しく有紗の目が光る。その目には、何かを勘ぐるような色があった。
「バカ兄貴ならね、つい1分くらい前に飛び出してったよ。あ、誰かよくわかんないけど家に来たお客さんと一緒にね!」
「お客さん?」
とっさに頭の中に浮かんだのは、摩耶と彼の親友の泰典だけだった。
「えっと・・・男?女?」
「わかんないけど、すっごい青い顔してたね、バカ兄貴。どうしたんだろ」
妙な胸騒ぎがして、思わず顔を顰めた。悠磨に何かとんでもないことが起ころうとしているのではないか、あるいは悪魔に魂を売り渡そうとしているのか。いずれにせよ、悠磨にとってはもちろん、彼を想う景子にとっても最悪なことではあるが。
「もしかして景子おねぇちゃんも兄貴のこと好きなの?」
「はぁ?!」
しかし唐突な有紗の質問によって、一瞬のうちにとてつもなく重い空気と心配が吹き飛ばされた。
「ちょ、有紗ちゃん!こんな時に何バカなこと言ってるの!今それどころじゃないでしょ!」
口を尖らせた有紗は、懐疑的な目で景子を見つめながら、
「えー、だって兄貴、どーせ誰かと一緒にお茶でも飲みに行っただけでしょ。なんでそんなに心配なのかなぁ?」
「だって、それは・・・」
「まさか、他の子に取られるのが怖いんじゃないのぉ?」
―うっ!この子、昔からなんて鋭い子なのよ!
完全に図星だった景子は、頬を主に染めたまま硬直するしかなかった。それはすなわち、有紗の洞察力を前に敗北を宣言するに等しい行為だった。
「はっはーん!やっぱ図星かぁ!いいねぇ両想い!」
「りょ、両想いですって?『も』ってなによ!そんなことあるわけないじゃん!一方通行よただの!」
もはや自分がものすごい勢いで自爆していることもわかっていないまま、捲し立て続ける。
「悠磨はね、どうせ私のことなんか好きじゃないの!だから私の勝手な片想いなの!」
「そ、それは・・・」
自分から仕掛けたはずの有紗が軽く引いていた。いつもは見ない景子の切ない乙女のような一面に、どこか残念な部分が見え隠れしているようでならない。
「あのね、景子おねぇちゃん」
諭すように、たしなめるように優しく語りかける。
「バカ兄貴もね、ほんとはすっごーく好きなんだよ、おねぇちゃんのこと」
驚いたような顔をして、景子は有紗を正視する。どことなく真剣な表情で景子を直視する有紗が、景子を力強く後押ししている気がした。
「いいじゃん。行ってきなよ、兄貴のとこに。それで、自分の想いをきちんと伝えるの。そうすればヘタレなバカ兄貴もようやく楽に白状できるだろうから。わかった?」
―今なら行ける。たぶん大丈夫。
有紗の声に呼応するかのようにして、自分の中の何かが燃え上がる。高く、激しく。今まで何年も抑えつけていた恋心が初めて、張り裂けるほどに暴れだそうとしているのだ。有紗のせいで、いつも間近で「兄」という存在の悠磨を見ている有紗のせいで、この想いを無視してまで自分自身に嘘をつけなくなってしまった。
―とにかく行って、謝った後にきちんと伝えよう。今の私の想いの全てを・・・そうすれば悠磨もきっとわかってくれるはず。いいじゃない、有紗ちゃんが言うなら、その道を、その可能性を信じてみても。
光が自分を包むような感覚に立ち、
「ありがとう、有紗ちゃん」
思わず零れそうになる涙を堪えながら有紗の髪をそっとなでる。しかしその時、非常に重要なことを思い出してしまった。
「ねぇ有紗ちゃん」
「なに?今から行くんでしょ?」
「悠磨の居場所、心当たりはない?」
そうだった。彼が「客」と一緒に行った場所がわからなくてはならない。青ざめた顔で家を出て行ったという悠磨には、きっと何かがある。だからこそすぐにでも悠磨を、そして彼に起ころうとしている禍を見つけ出さなくてはならない。
「えーっと・・・」
真剣に考え込む有紗は、つい数分前の記憶を辿りながらヒントを探し出そうと努力した。彼が何かを口走って自室に戻ってから家を出たのは憶えていたが、それは確か行き先だったような覚えがある。しかしその肝心な場所がどうしても思い出せない。どうしてこんなにすぐ前のことを忘れてしまうのかと、己の脳を恨めしく思った。確かに聞いていたはずの言葉が出てこない。
「まあ、仕方ないよ。それにしてもどこ行っちゃったんだろうね、悠磨。公園かなぁ」
「公園?公園に何かあるの?」
「だって、悠磨の行きつけみたいな場所だもん。そこのベンチで話をするのが―って、どうしたの有紗ちゃん?!」
―行きつけ。行きつけの場所。部屋に取りに戻ったもの。話ができる場所・・・あっ!
思考回路が繋がって雷に撃たれたような顔になり、一生懸命に口を動かそうとする有紗が、不意に裏返った声を発した。
「きっ、喫茶店!」
「―あそこね。わかった、今から行ってくる!」
ハンドバッグを平川家の玄関先に置いたまま、景子は慌てて駆け出した。数分前、死んだはずの人間と一緒に悠磨が歩いた道を。
何も知らない有紗は、心の中で景子に強く、強くエールを送り続けながら、遠ざかるその背中を見送った。
※
アイスティーを啜る目の前の少女を、悠磨は低い目で凝視する。
注文した飲み物を持ってくるマスターに、「おやおや?景子ちゃん以外の彼女ができちゃったのか?」と冷やかされたが、彼の相手をしているほどの余裕はなかった。空気を呼んでくれたマスターは、すぐに奥へと引っ込んでいってくれたが。
向かい合う少女、神藤瑠乃。
1年前、確かに自殺したはずの少女。
それが今、幽霊ではなく何ら障害も不自由もない人間として悠磨の前に座っている。
―どういうことだ。
わけがわからないまま、悠磨はさらに穴が開くほど彼女を見つめていた。
「ちょっと、何その目。さっき確認したでしょ、幽霊じゃないって」
「そうだけどな・・・信じられないんだよ、この事実が」
「だからって、何も5分や10分も見つめる必要はないでしょ」
説得力もないような言いくるめられ方に、混乱はさらに広がる。彼女が奥に隠しているものの正体は、依然として掴めないままだった。
「まあな。でも俺だって納得行かないわけでさ。だから―」
一度閉じた目を、ゆっくりと見開いた。
「聞かせてもらおうか、神藤瑠乃。今この世に存在するはずのないお前が生きてるという事実の裏にある、あの事件の真実の全てを」
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