―マスター、あたし、どうすればいいと思う?

 走って自宅に帰り、転がり込むようにして自室に飛び込んだ摩耶は、ベッドにダイブしながら心の中で尋ねていた。悠磨に追われ、衝撃的な一言を食らい、彼女がそれでもできることはただ一つ、心の中にいるはずの彩音に縋り付くことだけだ。

 ―ねぇ。

 「聞いてるって。何?」

 久々の返答に、安堵した。

 安堵できたのは、ほんの一瞬だけだった。

 「―彩音?!」

 聞き覚えのある肉声が鼓膜に響いたことに、大きな違和感を抱いた彼女は、その顔を上げた。そこには透き通るような松本彩音の存在があった。

 「なんでここにいるの?!あんた誰!」

 「彩音よ」

 「違う!どうやって入ってきて―」

 「私、幽霊だもん」

 その言葉に唖然とした。幽霊、幽霊・・・と、脳内でその言葉だけをリピートする。信じてもいない存在に成り替わった幼馴染―今は自分をマスターと呼ばせている存在が、そこにいる。しかも自分の目が見ているものは、聞こえているものは、どうやら幻ではなく現実のようだ。

 「そもそもなんでマスターなんて呼ばせてたのよ!」

 わけもわからず摩耶は叫びだした。そんなことが訊きたかったわけではないのに、真っ先に口を突いた疑問はそれだった。

 死んだはずの幼馴染が今、目の前に立っている。たとえそれが幽霊でも、自分の目の前にいることには変わりない。心の中で声が聞こえていたのは幻聴に近いものだと思っていたが、あながちそうでもなかったように思える。

 「天界でのルールよ」

 「・・・天界?ルール?なにそれ?」

 一つ、優しいため息をついた彩音は、ゆっくりと切り出す。

 「天界では、死人は生を全うした者マスターと呼ばれるの。そっちのほうが私としてもあっちの世界に馴染みやすい気がしてね」

 天界にそのまま馴染むつもりだということがありありとわかると、摩耶はその腕を掴んで引き留めようとした。

 しかしその腕は、あっさりと彩音の透き通る体をを貫通していった。


 ※


 正直なことを言うと、悠磨にとって松本彩音という人間―もとい、幽霊は、非常に接しづらい類の性格だ。

 公園から歩廊困憊の体を引きずって帰ってきた悠磨は、自室のベッドに静かにダイブすると、今しがた自分の身に起こったことを振り返ってみた。

 ―景子にキレられて、摩耶にはすかさず逃げられて、おまけに幽霊と遭遇して・・・俺の人生素晴らしいな、違う意味で。

 偶然出会った彩音と公園のベンチで交わした話を頭の中でゆっくりと反芻するも、本当に悠磨が知りたいことは全てはぐらかされ、煙に巻かれたような気がする。有益な情報、特に悠磨と彼女の繋がりや、彼女の自殺の理由に繋がる情報すらも、何一つとして得られなかった。むしろ彩音のほうが悠磨の情報を引き出したのではないだろうかというくらいに絶望的な収穫だった。

 極論、ロクなことは一つもなかった。何よりも、景子と本格的な言い争いになったのは年単位で久々のことだったので、正直それがショックで悠磨の精神力消耗に拍車をかけている要因の最たるものとなっていた。だがそれにしてもなぜ景子があそこまで怒ったのかが、どう努力しても彼には理解できなかった。確かに彼女に何も言わずにいろいろなアクションを起こしたことは悪かったと反省してはいるが、何がそれほどまでにも彼女を突き動かしたのか、そして悠磨が彼女の心に振るった直接の刃が何だったのか、原因の根本すらも100%理解できているわけではない。

 ―所詮好きな人間の気持ちも動機も、何一つわからないのか、俺は。

 そう思うと、どこか暗澹たる気分になった。自分が景子に寄せているのはその程度の想いだったのかと、自分を苛むことしかできない。長年抱いていた恋心に、ほんの僅かな翳りが見えたように感じ、なおも悠磨は己を責め続けた。

 だからこそ、1時間、2時間と時間が刻々と過ぎても、どうしてもその手がケータイへと伸びることはなかった。今の自分には、彼女に謝罪することも贖罪する資格さえもない気がしてならなかったからだ。

 ―原因も引き金もわかっていないのに、謝ることなんてできやしない。それよりも今の自分には、景子に接することすらも許されないだろ。しかもあいつに・・・嫌われただろうしな。

 そこまで悟った悠磨は自嘲気味に笑うと、ベッドの上で淋しく存在感を表わしていたケータイを蹴り落とした。沸き上がる感情は、悠磨自身に向けた怒りや憎しみ、そしてあらゆるものを失った悲しみと絶望感だった。あとからあとから沸き上がり、積もる思い。それを制御するだけの精神力が今の彼にあると期待するほうが間違っているのだろう。悔しさに変わった思いのせいで流れる涙を止めることさえもできず、悠磨はただ泣き続けた。

 ―俺は・・・俺は・・・結局何もできない、ただのおせっかいでちっぽけな人間だ。

 高校生活最後の夏休み初日に味わった「あの事件」以来の屈辱と無力感を、無意味に噛みしめた。

 

 ※


 いつの間に寝てしまったのか、起きたときにはもう既に翌朝だった。

 「・・・やっべ!」

 特に塾や予定があるわけではないとはいえ、昨晩夕飯を食べることすらもせずに眠ったことへの焦りがあった。

 ―母さん、心配してんじゃないか?

 慌てて階下に降りると、いつもと変わらない母親の姿があった。

 「あら悠磨、おはよう。昨日はどうしたの」

 「おはよう母さん。そしてごめん。昨日寝落ちしちゃってさ・・・」

 「勉強に集中してるのかと思って呼ばなかったけど、私の間違いだったようね」

 高い声で笑う母親が、どこか今日は救いの聖母のように思えた。ようやくやってきた安堵感と、「生きている」という感覚が、麻痺しかけていた心を徐々にほぐすように感じ、

 ―まさか・・・?!

 ふと浮かんだ彩音の顔と、今しがた自分が感じたものがリンクした。

 

 「生きている」という感覚。

 それがいったい、生前の彩音にはあったのだろうか。


 「・・・悠磨?顔色が悪いわよ?」

 「え?」

 「なんかすごく青いわよ?何か調子でも悪いの?」

 「あ、いや何でもないんだ。気にしないでくれ」

 「無理はしないでね」

 こういう時にいつも通りに接してくれる母親に、またも救われることとなった。

 「朝食はテーブルの上よ」

 「サンキュ」

 リビングのテーブルに座ることさえも、どこか自分じゃない何かが動いているようなぎこちなさを感じていた。まるで幽体離脱したかのような感覚に襲われ、悠磨は自分が今考えていることすらもよくわからなくなった。

 「あ、バカ兄貴だ」

 「・・・あ、バカ妹」

 テーブルには、妹がいた。妹と朝食なんて、いったい何日ぶりだろうか。部活動に励む2歳下の妹の有紗は、いつも悠磨が朝食を摂るよりも先に家を出てしまう。しかも通う高校も違うので、ほとんど顔を合わせることもない。だからと言って関係は悪くはなく、むしろ一般家庭のそれよりも良好だが。

 「何、また考え事?それとも妄想?」

 「有紗、ぶっ殺すぞ」

 「やだ。それより何考えてたの?」

 「それはだな・・・」

 さすがに妹とは言え、こればかりは教えてはならない。妹まで巻き込むわけにはいかないことを百も承知だったので、あえてそのようにする愚かな真似はしなかった。それを沈黙という手段に代えたのが大きな間違いだったとはいえ。

 「あ、わかった」

 何かに感づいたような妹の顔に、わずかながらも焦りを感じてしまう。確かに妹は彩音のことを知らないが、事件のことはニュースで知っている可能性もありえなくはない。それを覚えているいないは何とも言えない。

 ―いやそれ以前に俺と彩音の関係なんかわかんないだろ。

 

 「兄貴、景子おねぇちゃんが好きなんでしょ?」


 それよりも遥かに重く、かつ破壊力のある爆弾が、満面の笑みを浮かべる有紗の口から飛び出し、炸裂した。その被害は甚大だった。

 まず、悠磨は飲んでいた麦茶を吹いた。その吹いた麦茶はテーブルを、床を、そして有紗を濡らしてしまったのだ。

 「汚っ!」

 短く叫んで有紗は飛び退る。そのまま椅子ごとひっくり返ったのは、実に彼女らしい一面だ。

 「バカ兄貴のバカ!」

 「あ、いやすまん・・・ってお前が変なこと言うから悪いんだろ?!」

 謝りかけて、なぜか悠磨は積もり積もったものを吐き出すかのように開き直った。その後、有紗がどんな仕返しを悠磨にしたかは、さほど想像に難くはないはずだ。


 ※


 どうしても謝りたい。その思いが、景子を突き動かして揺さぶった。

 ―謝らなきゃ、悠磨に。

 昨日は躊躇したはずの「謝罪」をどうしてもしなければならない気がして、彼女は焦っていた。

 ―でも、今更・・・どうしよう・・・何を今更できるんだろう・・・

 結局一晩経って冷静になってみれば、彼女は自分が昨日しでかしたことの大きさをさらに痛感する羽目になったのだ。行き場のない後悔に、苦しみに苛まれ、どうして彼にあんなことを言ったのかと嘆く心の声の残響だけがあった。

 「―行かなきゃ」

 ならば、選択肢は一つだけ。彼のところに直接出向くことだ。そこに迷いはいらない。

 ケータイを取りかけて一度止めたその手を、今度は何の躊躇いもなく手に取った。その勢いのまま、彼女は家を飛び出した。


 ※


 「バカ」という言葉が何度も飛び交う平川家のリビングに、インターホンの音が響いた。

 「あら誰かしら。悠磨、出てくれる?」

 母親の暢気な声がする。

 「マジかよ・・・非常識だな」

 苦笑いで玄関に出向き、

 「はいはい・・・?!」


 そこに立っている人物を見て、驚愕のあまりにひっくり返りそうになった。


 心音が一気に高まる。鼓動は2倍にもなり、脳に警報音を盛大に鳴らす。


 「なんでお前、ここにいるんだ・・・」

 その言葉しか、喉を突かない。それほどまでに、今自分が置かれている状況が理解できなかったのだ。

 そう―


 失くしていたはずの「あの事件」の記憶が再び自分の中に吹き込まれるのを、再び何かが動き出す予兆を感じさせていた。

 

 そして、目の前になぜ、「あの事件」で自分のすぐ前で飛び降り自殺したはずの神藤瑠乃じんどうるのが立っているのか、これっぽっちも理解できなかった。

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