第42話 海水浴

 ぼくはリサに歩み寄って、頬についた砂を指先で払って落としてやった。リサは抵抗もせずに、やはり表情無くぼくを見上げている。放っといたらいつまでも砂を貼り付けた顔のままで突っ立っていそうだ。

 それはもったいない。新雪のような真っ白な髪や、血液の色を鮮明に映す赤い瞳に視線を取られがちだけど、とても綺麗な顔立ちをしている。


「うおっ、すげえな!」


 そんなことを考えていると、マサトが背後で感嘆の声をもらした。ぼくとリサがマサトの視線を追って、海に目を向ける。

 潮の香りが気持ち良い。

 たったの九年。人がこの地に住まなくなってから九年だ。深緑に濁ったヘドロの海だった東京湾は、今や海底を滑る魚さえ視認できるほどに透き通っている。空の色を映し出した海水は、リサのベルベットを彷彿とさせた。

 天川月乃が得意げな表情をした。


「にははは、すげーでしょ! 帝高はもちろんだけど、帝都西や帝大生、教師だって現状の東京湾を見たことない人、多いのよ。……もったいないっしょ?」


 帝都西は壁に囲まれた廃都東京の西。奥多摩にある装甲人型兵器ランド・グライドのパイロットを養成する高校だ。そして帝高と帝西を生きて卒業した英雄たちの希望者だけが、北の埼玉との県境に建つ帝都防衛大学に入学する。

 もっとも、そんな物好きは滅多にいない。高校の三年間を生きて卒業できさえすれば、その後の人生は保証されたようなものなのだから。


 ゆえに帝大は現在、全学年合わせても三十名に満たない。けれど、その戦力は一騎当千と言われている。そこにいるのは帰る場所を失ってしまった英雄と、諸々の事情で東京を離れられない英雄の二種類だけだ。

 帝大は北の壁を、帝西は西の壁を、ぼくらのいる帝高は南の壁を守り、東京はどうにかメタルの脅威から他の地域を守り続けてきた。


「ほらほら、ぼーっと突っ立ってないで、おいでよーっ」


 天川月乃がサンダルのまま、透き通った海水に足を付けた。マサトが走りながら靴と靴下を脱ぎ捨て、高く跳ねて天川月乃の近くに着地した。

 バシャっと海水が跳ねて、天川月乃が笑顔で悲鳴を上げた。


「きゃあ!」

「ひっひ」


 まだ少し海水浴には早い時期で、泳いだりはできないけれど。


「行こ、リサ」

「ん」


 ぼくは走り出して、マサトと天川月乃へと駆けよる。足下の波に水面が揺れて、小魚がパっと散った。


「信じられない。小さな頃の記憶じゃ、臭くて汚い海だったのに」


 人が消えて九年。地上よりも海の方が自浄能力は高いと聞くけれど、まさかこれほどのものだったなんて。この透明度はちょっと感動ものだ。

 足を動かすたびに小魚の群れが逃げてゆく。釣り竿でも持ってきていたら、思わぬ大物がかかりそうだ。


「綺麗でしょー!」


 まるで自分のものであるかのように、天川月乃が胸を張った。

 マサトの視線が胸に釘付けになっているのは愛嬌だ。ここは友情を取って、気づかないフリをしてやるのが礼儀だろう。


「フ、あなたほどじゃないですよ、ツキノさん」

「うんうん、そーね。あー、ビーチボールとか持ってきたらよかったね。そだ。夏になったら泳ぎにきたいから、あんたたち死んじゃダメよ? そのときはさ、あたしの自慢のチームも紹介するから! うちらすっごいんだよ! チーム“エンジェル・ラダー”は対メタル戦の戦果だって、かなりのものなんだからね!」


 やはりガン無視。

 よほど自信があったのか、マサトの顔が萎れている。

 無理だよ、マサト。おまえの想像を遙かに超えて、天川月乃は人の話を聞くタイプじゃないんだから。


 大浴場でのことを思い出し、顔が熱くなる。

 後ろからようやく追いついてきたリサが不思議そうにぼくを見上げて、ぼくの左胸に真っ白な手を当てた。


「心拍、体温上昇。……風邪?」

「ち、違うよ」


 あわててリサから距離を取ろうとして後ろに下がると、背中でドンと誰かを押してしまった。


「イッ!? きゃあんっ!?」


 見事に着衣のまま、膝上までしかない海水の中に倒れ込む天川月乃――。

 あ、まず……。

 そう思った瞬間にはもう、地球というか海がぼくの頭上にあった。正確には倒れる瞬間の天川月乃に足をつかまれ、逆さまに投げられていた。あいかわらず落下する猫並みの超反応な反撃だ。


 水飛沫を派手に上げて、頭からまだ少し冷たい海につっこみ、そのまま水面にうつ伏せでプカリと浮かぶ愚かな自分。

 絶対考えるより先に手ぇ動かしてるよな、この人……。


「ぷあっ!」


 ぼくが海面から顔を上げた瞬間には、もう天川月乃は両手を腰に当てて仁王立ちポーズを取っていた。


「何すんのよっ!? びしょ濡れになったじゃんっ! 着替え持ってきてないのよ!?」

「ご、ごめんなさいっ! 今のはわざとじゃ……な……い――」


 天川月乃の衣服が濡れて肌に貼り付き、その破壊力抜群のプロポーションがくっきりと目の前に……おまけにパーカーの隙間から見えるシャツは、すっかり透けてしまっている。にもかかわらず、やはり堂々とした仁王立ちで、艶めかしいやら恨めしいやら。

 何かもう、この人の目の前でしゃがみ込まされてるポーズが板についてしまいそうだ。


 そんなぼくを、あいかわらずの冷めた瞳で眺めるリサ。膝上まで海水に浸かっているというのに、はしゃぐ様子もなければイヤがる様子もなく、ただひたすらにぼーっとぼくらを眺めて立っている。


「ぎゃっはっ、ふたりして何やってんだっ! ぎゃっははははははっ!」


 リサとは対照的に、マサトが腹を抱えて笑っているのが腹立たしい。珍しく同意見だったのか、天川月乃が一瞬マサトに視線をやってからぼくへと戻し、ほんの数ミリだけうなずくように首を動かした。

 ぼくと天川月乃が同時に水中へと潜る。


「うひーっひひひは、あ、あれ?」


 マサトが戸惑いの声をあげた瞬間、海中からぼくがマサトの右の足を、天川月乃が左の足をつかんだ。


「うおっ……どああああぁぁぁぁ、待て待て待て頼む待ってくれェェーーーー!?」

「知るかぁ!」

「にゃっははははは!」


 天川月乃と同時に浮上して、めいっぱいの力を込め、マサトをぶん投げる。


「ぎゃああぁぁぁーーーーーーーーーーっ!」


 マサトが天高く舞い上がり、空中で一回転して派手な音を立て、数メートル沖の海中に沈没した。


「でめえらばばばばっ!」


 口から海水を吐き散らせながらマサトが両手を広げて迫る。ぼくと天川月乃は示し合わせることもなく、同時に距離を取って逃げ始めた。


「きゃっははははははっ!」

「あはははは、こっち来んなァ!」


 水飛沫が当たりに散らばる。

 リサはあいかわらず、ぼくらの様子を眺めたままだ。楽しんでいるのかどうなのかさえ、その表情からは読み取れない。でも、海水から上がろうとしないあたり、もしかしたら足が気持ちいいのかもしれない。


「へっへっへ、観念しやがれ!」

「きゃああああ!」


 楽しそうに逃げる天川月乃がマサトにつかまって海水に沈められる。けれど天川月乃は沈められる瞬間にぼくの足をつかみ、道連れにする。


「ぎゃあ!」


 バシャン、と派手な飛沫が上がって、ぼくら三人が同時に浮上した。もう濡れてしまったとかいうレベルじゃない。

 自然、無事に海面に立ったままだったリサにぼくらの視線が集まった。


「……?」


 リサが不思議そうに首を傾げた。

 天川月乃が邪気のない笑みを浮かべ、リサを指さす。


「やれー!」

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