第37話 告白

 マサトがもはや板についた苦笑でダラっと椅子の背もたれに体重をかけた。


「人間はな、非合理的なことを好むから人間なんだぜ?」

「ん。わかった。理解するようにする。たくさん教えて欲しい」


 ペコっと頭を下げるリサ。これって外国人だから価値観が違うだけだろうか。


「さて、片付けっか」


 空の丼の乗ったトレイを持って、マサトが食器返却口へと歩き出す。同じようにぼくもトレイを持って行こうとすると、ふいにリサがカレーだらけの手でぼくの私服をつかんだ。


「……あ」

「あ、カレー……」


 あわててリサが放すも、すっかりカレー色に染まってしまった袖。まあ、そんなことはいいんだけどね。洗えばどうにかなるさ。たぶん。


「ごめんなさい」


 再びペコっと頭を下げるリサ。悪びれた様子もなく、心から反省をしている様子もない。けれど、彼女の無表情には悪気がないことをぼくはもう知っている。


「いいよ。どうしたの、リサ?」

「試した」

「何を?」


 リサがぽつぽつと続ける。


「新陳代謝上昇による発汗作用、自浄作用、体温上昇、心拍上昇による血流作用は主に上昇傾向、それに伴う胸部圧迫と呼吸困難。いずれも香辛料以上の効果。どうして、このカラダは――」


 リサが一度言葉を切った。


「体調でも悪いの?」


 トレイを置いてリサの額に手を当てると、リサがビクっと震えた。額は少し熱い。


「おそらく違う。教えてほしい。わたしのアーカイバには明確な解が存在しない。わたしは、あなたのことを知らない」


 アーカイバ……脳……いや、記憶のことか……? なんでそんな言い方するんだ?

 珍しくリサが表情を歪めて眉を寄せ、苦しげに、かろうじて聞き取れる声で囁いた。


「……これは、わたしの体細胞がイツキを求めているから……?」


 どういう意味かを尋ねたかったのに、ぼくはその言葉に声を失った。

 もう、ぼくらの会話を聞いているものも、行動を見つめているものもいない。食堂内はざわめきに溢れかえっていて、昨日の授業による筋肉痛で出遅れた朝食をとりにくる新入生たちで混雑し始めていた。


「……幸福に近い感情。わたしはイツキが好き……?」


 かぁっと顔が真っ赤に染まってしまった。いや、そんなレベルじゃない。血流が上昇する音を耳で聞いた。心臓が、九年前のあの日のように恐ろしい勢いで跳ね回っている。

 けれど、そんなことを訊かれても……どうこたえろってんだ……。


「アーカイバも演算処理も介さない、カラダから発生する非合理的――感情? マサトは言った。それが人間だと」


 見つめ合ったままのぼくらを、食堂に訪れた学生たちがどんどん通り過ぎてゆく。

 すぐにでも返事をしなかったのは……身体中が求めているのにリサを受け入れる勇気を持てなかった理由は……。


「わたしはおそらく、イツキが好き。これは、恋愛感情で合ってる?」


 この言葉さえ、リサがぼくをからかって言っているわけじゃないことはわかってはいた。だからぼくは態度を繕って、なるべく平然と見えるように微笑む。赤面だけは、もうどうしようもなかった。

 だけどぼくの口をついて出た返事は。


「うん……たぶん……。……ありがとう……」


 とても曖昧なものだった。

 数秒の沈黙の後、リサはいつもの無表情な彼女に戻った。


「ん。では、また後で」


 リサが背中を向けて去ってゆく。食器返却口からこっちに向かってくるマサトとすれ違い、カレーうどんの器をトレイごと返却口に置いて、ひとり廊下へと。

 勇気が持てなかった理由は、ぼくの頭の中にはリサ・アバカロフではなく、同じ姿をしたリア・アバカロフが未だに微笑みかけてくれていたからだ。

 リアはもう、この世界にはいない。リサからの告白はとても嬉しかったはずなのに、ぼくはたまらなく悲しくなったんだ。

 リサとリア。


 ――ふたりの少女は、記憶の中で統合されてゆく。

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