第35話 おはしが使えません

 天川月乃の言動で静まりかえっていた券売機付近が、にわかにざわめきだした。

 ぼくは疲れたため息をついて、リサに向き直った。


「天川……ツキノさんと何を話してたの?」


 リサは少し考えるように赤い瞳を斜めに上げて、ぼくに戻した。


「……いくつかは秘密。でも、さっきも藤堂正宗を追い払ってくれた」

「また?」

「ん」


 あの野郎! 性懲りもなく!


「素直に下がったのか、あいつ?」

「ん。おそらく要因は、筋組織の疲労と推測。ツキノが睨んだら、藤堂正宗はどこかへ行った。わたしはツキノと行動をともにするのが、合理的?」


 筋肉痛か。だとするなら、たまたま運が良かっただけだ。

 リサの言うとおり、彼女が天川月乃と常に一緒に行動できるのならそれに越したことはないのだが、一年生と二年生では難しいだろう。

 ぼくとマサトが目を見合わせてうなずいた。


「よぉ、お姫さん。今度から一緒にメシ食うときは、おれとイツキが女子寮の前まで迎えに行くから、ひとりで先に行かないようにしてくれ。ツキノさんに頼りっぱなしってのもかっこつかねえしな」

「……? それは非合理的。イツキとマサトが女子寮に来るには、一度食堂校舎に近づいてからまた離れなければならない」


 マサトが顔をしかめてパタパタと手を振った。


「いーんだよ。くだらねえことでお姫さんにケガでもされちゃ、チームメイトとしてはこれ以上に非合理的なことはねーだろ?」


 マサトはフェミニストだ。

 ぼくとリサは依然としてクラスでも浮いたままだけど、マサトだけはすでに数名のクラスメートと親交がある。それも女子ばかり。

 とても頼もしいやつだけど、リサにまでカッコイイことを言われると、ぼくが焦ってしまう。


「ん。確かに。わたしがいなかったら、イツキとマサトの早見士郎に対する勝率は二パーセント未満だった」


 極めてアヤシい数字だけど、言い返せないのが悔しい。

 マサトが苦虫を噛みつぶしたような表情で呻いた。


「そうそう。だから気にすんな。ほら、メシ食おうぜ」

「ん。メシ食う」


 オウム返しをしたリサの額に、ぼくは軽く手刀を振り下ろした。


「……うぃ? なぜ?」

「女の子なんだから、マサトみたいに口汚いこと言わない。ゴハン食べる」


 リサが数秒ぽかんとした後、コクっとうなずいた。


「わかった。ゴハン食べる」


 ホントにわかってんのか。どうにもリサは同い年には見えない。言葉足らずがそう見せているのか、まるで小さな女の子のようだ。


「イツキ、届かない」


 券売機の上のボタンに手を伸ばして、リサが振り向いた。

 幼いのは体型もか。身長もプロポーションも、天川月乃に比べてしまえば、まるで天と地の差だ。


「跳躍して押すことは可能。でもその場合、失敗して麦とろご飯定食になる可能性が十五パーセント。助けてほしい」

「何にするの?」

「カレーうどん。ツキノのおすすめ」


 ……ぼくなら天川月乃に勧められたら、あえて避けたくなるところだ。

 朝食にしては少々重そうなカレーうどんのボタンを押して、出てきた食券をリサに手渡してやると、やはり幼子のように小さな食券を両手の指先でつまんだ。


「ありがとう」

「どーいたしまして」


 IDカードを券売機に通して、マサトが迷わずにボタンを押した。


「おれはカツ丼」

「キミら、朝からヘヴィだな」

「どうせ一日三食まではタダなんだから、食いてえもん食わなきゃもったいねーだろ」


 食堂は意外と空いていた。

 食券を食べ物と交換して、ぼくらは適当なテーブルにつく。ちなみにぼくの朝食は、ベーコンエッグとトーストとサラダ。栄養補助にはヨーグルトドリンクだ。

 席についてから気がついた。


「リサ、お箸いらないの?」

「フォークある」


 カレーうどんをフォークで? 無理がないか?

 マサトと一緒になって、ハラハラしながら見つめる。

 リサがカレーうどんにフォークを差し込んだ。茶色の液体をかき混ぜて、白い麺を引きずり出し、そのまま持ち上げて口に運ぼうとした瞬間、案の定、うどんたちはツルリと滑ってカレースープへと転落した。

 ビシャっとカレーが飛び散って、リサの制服を汚す。


「……?」


 リサが首を傾げて、もう一度うどんをフォークで持ち上げ、また滑らせてカレースープの中へと落とした。

 再びビシャっとカレーが飛び散って、リサの頬に数滴当たった。


「………………ん。熱い……」


 さして表情を歪めるでもなく、リサがボソっと数秒後に呟いた。

 あれ? でもよく見ると、よほど熱かったのか、涙目になってないか?

 ごしごしと制服の袖で拭って、さらに挑戦をしようとしたところで見かねたぼくは、テーブル中央に置いてあった割り箸を取ってやった。


「ほら、割り箸使いなよ。フォークでうどんは無理だって」


 リサがパチパチと瞬きをした。


「……オハシ……」


 リサは割り箸を受け取ったものの、どうしていいのかわからないのか、しげしげと見つめている。そういや昨日まで、ナイフやフォーク、スプーンで食べられるものしか選んでなかったな。

 日本語が達者だから長く日本国内に住んでいたものだとばかり思っていたけれど、もしかしたらリサはロシアから来たばかりなのかもしれない。帝高に入学するために海外から訪れる学生だって少なくはないから。


「こういうふうに使うんだよ」


 パキっと中央から割って、ぼくは右手でお箸の持ち方を見せてやった。そのままベーコンエッグをつかんでトーストに乗せ、少々非常識ではあるけれど、目玉焼きトーストを箸で持ち上げて囓る。


「ね?」

「理解した」


 同じくリサも中央から割り箸を割って、右手で……微妙に指が震えて、ポロっと落ちた割り箸がテーブルの上を転がった。


「……」


 数秒間、転がった箸を見つめるリサ。

 無言で拾ってもう一度持とうとして、また箸を取り落とす。

 しばらく無表情に箸を見つめていた赤い瞳から、何やら涙がこぼれ落ちた。

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