第30話 クローン
早見先生は校舎にもたれながら、リサはその眼前に立っていた。
心臓が形を変えるように締め付けられた。大浴場で天川月乃のハダカを見てしまったときの比じゃない。
ふたりが元々の知り合いであることはわかっているつもりだったけれど、こうして夜中に密会しているのを見ると……。
早見士郎はリサの姉とチームを組んでいた。だからそのときに、リサとも知り合ったのだろうか。
マサトが申し訳なさそうにぼくを見上げているのが、余計に堪えた。
「悪ィ。行こうぜ、イツキ」
静かにマサトがそう呟いた瞬間――、
「誰だ?」
早見先生の鋭い声がぼくらを突き刺した。リサがぼくらの隠れている位置に視線を向けて、無表情のまま無感情に呟く。
「イツキとマサト」
一瞬戸惑った。彼らは薄明かりの中にいるけれど、ぼくらは闇の中だ。なのにどうしてぼくらだとわかったんだろう。
射撃の名手だからだろうか。
やむを得ず、ぼくらは植え込みから姿を現した。
早見先生がわずかに困ったような顔をして、両腕を組む。
「盗み聞きか? 趣味がよくないな。高桜、多岐」
「すみません、先生。大浴場の帰りにたまたま話し声が聞こえたもので、事件性がないものかと心配になって、近づいてしまった次第です」
マサトが飄々と嘘をついた。
態度にはまるで不自然なところはないし、半分は本当のことだ。こいつのこういうところは意外と頼れる。
早見先生が、着替えの入ったぼくのナップザックに視線をやってから腰に右手を当てた。
「話の内容は聞いたか?」
「……?」
マサトと顔を見合わせて、同時に首を左右に振った。
「そうか。ならいい」
リサは別段ぼくらを責めるような視線を送るでもなく、ぼーっと月を眺めている。
「じゃあ、おれたちはこれで。おやすみなさ――」
「聞かれてマズいようなことを話していたんですか」
思わず口をついて出てしまった。
マサトの顔面がわずかに引き攣り、ぼくの脇腹を肘で軽くつつく。
「――おい、イツキ」
ぼくはマサトの制止を無視して一歩前に出た。早見先生は困ったような表情のまま、ぼくをじっと見つめてきている。
違う。これは違う。これじゃただの嫉妬だ。くそ……。早見先生は――早見士郎は命の恩人で、目標とする人なのに。
少し冷え込んだ夜気を胸一杯に吸って、ぼくは意識的に表情筋を弛めた。
「すみません。九年前、危ないところを助けていただきありがとうございました。お礼を言い損なっていたもので、良い機会だと思って」
リサがふいに夜空から視線を落とした。真っ赤な瞳が静かに空間を彷徨って、ぼくで視線を止める。
「……早見先生」
しかし、彼女の言葉はぼくにではなく、早見先生に発せられたものだった。
「なんだ? アバカロフ」
「その件に、わたしは関わっていた?」
……? どういうことだ? なぜ、そんな言葉が出てくる? ぼくが六つの頃なら、リサだって同じ年齢だったはずだ。そんな子供が、どうやってあの戦争に関わる?
「応えることはできない。それが答えだ」
早見先生が静かに呟いた。リサの視線が緩慢に早見先生へと向けられる。
「この身体はイツキに引き寄せられる。けれど、わたしは知らない。タカザクラ、イツキを」
どういう意味だ……?
リサの小さな身体が、まるでグライドするかのようにすぅっとぼくの目の前に迫った。
真っ赤な瞳が月を映し出し、わずかに黄金色に染まる。
「この感情は、知らない。学ぶことが必要」
リサが憎むようにぼくを睨み上げ、次の瞬間には頬を弛め、最後に悲しげに瞳を細めた。苦しげに額に手を当ててうつむく。
「リ、リサ?」
リサの小さな身体が傾いて、ぼくはあわてて肩を抱き止めた。リサがゆっくり、ゆっくりと、顔を上げる。
「大丈夫。バランス調整が終わったから、もう転ばない。ありがとう。……ああ」
数歩、後ずさって。ぼくから離れたリサが眉を寄せて瞳を閉じ、セーラー服の胸をくしゃりと両手で握りしめた。
ぼくにはそれが切ない表情に見えて、息苦しくて。
「……この身体は、不便。こうして時々機能障害を起こす。早見先生にも、イツキにも」
月光に怯えるように、リサの呼吸が荒くなってゆく。
彼女に呼応するように、ぼくの心臓も徐々に速度を増してゆく。視線が絡み合い、ぼくは一度強く瞳を閉じた。湧き上がる衝動を強引に抑え込む。
もしもここにマサトや早見先生がいなかったら、ぼくは理性の鎖を引きちぎってリサを抱きしめていたに違いない。
小さな身体に目一杯夜気を吸い込んで、リサがふぅっと息を吐いた。
「……眠い」
誰の返事を待つこともなく、女子寮の方角へと向かってリサが静かに歩き去ってゆく。
何だったんだ、今の……。
「君達も早く戻って眠れ。明日、メタルが出現しないとは限らない。常日頃からゆっくり身体を休めることもパイロットには重要だ」
「あ……」
早見先生が背中を向けた瞬間、言葉を出せなかったぼくの代わりにマサトが声をかけた。
「あの、先生。もしかして……その……」
マサトが気遣うようにぼくを見てから、意を決したように声を出した。
「もしかして、リサ・アバカロフは
クローン? 何を言っているんだ? SF映画じゃあるまいし、人のクローンなんて。
けれど、早見先生はピタリと足を止めた。
「クローンだと? ……多岐、どこでその技術の完成を知った?」
押し殺した声。
現在、増えすぎた人類による食糧危機を打開すべく、家畜のクローン研究はかなりの域まで完成に近づいていると聞く。けれど確か、人のクローニングは国際条約で禁止されていたはずだ。
無意識にぼくは唾液を飲み下す。
だけど、もしもリサがあの人のクローンだとするなら、彼女の態度や言葉に説明がつく。ぼくや早見士郎を肉体が記憶していることも、あるいは起こり得ることなのかもしれない。眼球移植を受けた人が、時折前世の幻を見るように。
全身に冷たい汗が浮いた。
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