第26話 奇人女子
微かな音を立て、水面に小さな波紋が広がる。
「おや? あややや。男の子か。これは失礼。今何時だっけ?」
「っうおあ!? ちょ、ちょっと! ――痛っ!?」
ぼくは驚いて飛び退こうとして、背中と後頭部を岩肌へとしたたかにぶつけた。
「うがぁ~……い……わ、わあああっ!」
後頭部を押さえたままぼくは逃げ出すように背中を向け、湯から飛び出ようとした瞬間に足を滑らせて水中へと転がり落ちる。
「ばぶぷぷぶっふぁ! ち、ちがっ! ご、ごめんなさいっ!」
「いやいや、ちょっと落ち着きたまえよ。怒ってないから。今何時?」
背中を向けたまま応える。
「に、二時を過ぎたあたりだと思います! すみません!」
あ、あ、あ、あ、あああ天川月乃だ! 食堂であの藤堂正宗をぶっ飛ばした二年生女子の!
末恐ろしいほどのプロポーション。リサの凹凸に乏しい身体とは違って、丸みを帯びた柔らかさと、緩やかな、けれど激しいカーブを描くボディラインが脳裏に焼き付いてしまった。
おまけに水滴という、魅力を惹き立てる宝石つきで。
今頃になって、心臓が痛いほどに脈打ち出す。
「あれー? ホントー? ご~めん、もう偶数時間だったのか。てゆーか、あたし、そんなに寝てたの? っちゃ~、やっちゃった……。うぇっへっへ」
さして身体を隠すでもなく、額に手を当てて苦笑いを浮かべる天川月乃。
ね、ねね寝てたって、さっき大浴場の中心で大の字になって浮いてたアレでっ!? 頭オカシイんじゃないのか!?
と、とにかく騒いじゃダメだ! こんなところを他の人に見られたら、言い訳のしようがなくなってしまう! 校則などないに等しいとはいえ、下手をすれば退学もあり得る!
ここは可及的速やかに撤退――。
「あれ? キミ、もしかして昨日の新入生くんじゃない?」
「……っ!?」
背中を向けたままだったぼくの頭部をワシっと両手でつかみ、天川月乃がムリヤリ自分の方を向かせた。
「よっと」
「痛い!」
首から奇妙な音がした。
人間の首の可動域はそんなに広くないです、先輩。
「あー、やっぱりぱり。あんがとね。あたしの後輩庇ってくれて。……聞いてる?」
「や、そ、そんな、すみません! すぐに出て行きますので!」
肩下までの濡れた黒髪が、しっとりと肌に貼り付いている。
混乱して会話など頭に入らない。どうやら豪腕の藤堂正宗さえもあっさりとねじ伏せたこの超人様は、それがいたくお気に召さなかったらしい。
完全に真顔に戻り、細い腰に片手を当て、やたらとドスの利いた声で囁かれた。
「聞けって言ってんの。この、あたしが――」
「……はい」
もう少し恥じらうなり何なりで胸なり前なりを隠してくれれば、多少は冷静に話せると思うのだが、この人、さっきからタオルも巻かない仁王立ちのまま、平然と話しかけてくる。
どうしたらこんな人間ができあがるんだ?
ぼくに恐怖が欠けているように、天川月乃にも羞恥心が欠けているのだろうか。これじゃ視線のやり場がない。
「と、とりあえず、その、つ、浸かりませんか、天川先輩? ほ、ほら、せっかくの温泉だし、あの、あまりにもナニが――」
「堅い、堅いなあ、新入生くん。帝高は明日命を散らしたって不思議じゃない学校なんだよ。やりたいことやって、好きに生きなきゃ損。堅いのは、おぽこぽこだけでいいんじゃない?」
おぽこぽこ――。
「そんなことどうでもいいんで――」
「あと、天川先輩は禁止ね。ツキノ。割と気に入ってるの、この名前。ステキでしょ」
両手を腰に当てて、堂々と胸を張る天川月乃。
ちょっとした動作で揺れるのは圧巻だ。
「……あんたこそ人の話を聞いてくださ――」
「ノンノン。ツキノ。おーけー?」
驚くほど会話が成立しない。
「お、おーけー、ツキノさん。とりあえず、座りましょう?」
天川月乃があっけに取られたかのように、ぴたりと動きを止めた。別段からかう様子もなく、真顔で首をかしげる。
「見たくないの?」
「や、そ、そりゃ見えるにこしたことは――いや、ま、まあ、ええ~……?」
何だこの質問? 罠か? ぼくにどうこたえろと? どうすれば通報されたりぶん殴られたりせずに済むんだ?
そも、この体勢でぼくだけがしゃがみ込んだら、それこそもう位置的に言い訳できない視界になってしまう。とにかくこの人を座らせないと。
「新入生くんが月が見たいってさっき言ったんじゃん?」
数秒後、ぼくはようやくその言葉の意味に気がついた。月と月乃。
まったくもって、くだらない。
要するに、からかわれているのだ。
「……ああもう、失礼しますッ!」
目を固く閉じてぼくは先にしゃがみ、湯の中を掻くように右手を伸ばして勢いよく横一文字に振り抜く。途中にあったツキノさんの足首をつかんで。
「へっ? きゃああぁぁぁ――ばぷぼぼ……ぼッ……!」
勢い余って逆さになったツキノさんの右足がぐぐっと引き絞られた。でも目を閉じていたぼくにそんなものは見えるはずもなく、見えなければ避けることもできなくて。
バキッ!
「――痛ッ!」
ぼくは側頭部に強烈なキックを受けて湯に沈み込んだ。
か……っ! やっぱこの人、異常だ! ひっくり返された瞬間に反撃してくるなんて、どんだけ足癖悪いんだよ! 野良猫も真っ青な反射神経じゃないか!
ぼくが浮上するのと同時に、野生の天川月乃が水面から顔だけを出す。
「いきなり何すんのよッ! 新入生のクセに! お風呂でそんなことしたら危ないでしょうがっ! 常識的に考えなさい!」
「アブナイのはあんたの頭だっ! 常識なんて言葉、あんたにだけは言われたくないよ! 何度も何度も座れっつったでしょーがっ!! その耳は飾りですかっ!?」
「それくらい聞こえてたわよっ! ババアじゃないんだから!」
うーわ、ダメだ……。
驚くほど会話が成り立たない。
「と、とにかく、もう少し恥じらいとか持ってくださいよっ。ま、丸見えじゃこっちも……その……」
「なんであたしが新入生ごときに命令されなきゃならないの? わけわからんっ」
こっちもわけがわからない。
もうあきらめて、正直なところを言うことにした。
「……ぼくの都合上の話です。あれ以上、天川先輩を見てたら――」
「ツキノ」
額に青筋が浮いてしまいそうだ。
下半身から頭に血が昇ってくれたことには感謝するが。
「あれ以上ツキノさんを見ていたら、こっちが見せられない状態になるんです」
「おぽこぽこ? あたしは気にしないけどなー。むしろスタンバってる状態には興味あるし見せてよ」
さっきから何だその
とりあえず、一端落ち着こう。
「……」
「……」
岩肌の壁に背中を預けたぼくの隣に天川月乃がすすっと移動して、そのまま出て行くのかと思いきや、ぼくと同じように背中を岩壁に預けた。
「……広いですよね、この大浴場」
「そーね」
ぼくは彼女を正視できず、反対方向に首をねじ曲げる。
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