第25話 温泉のヌシ

 眠れなかった。

 寝返りを打つたびに、リサと早見先生のことが頭に浮かぶ。それは再会の喜びだったり、感謝や尊敬だったり、ふたりに垣間見られる絆に対する嫉妬だったり。

 相反するふたつの感情は消化できずに、いつまでも頭の中をかき乱す。


 あの後の授業で、ぼくらは基本動作のひとつであるグライドをある程度マスターできた。もちろんリサや早見先生のように、超高速での移動というわけにはいかないけれど。

 慣れれば時速一〇〇キロ以上でも走れるようになると言っていたっけ。


 授業の記憶は断片的だ。とてもじゃないけど、集中できるような気分じゃなかった。

 それでも装甲人型兵器ランド・グライドの授業というのは筆記ではなく、常に実技で身体でおぼえてゆくものだから、身になってはいるとは思うけれど。


「ああ、ダメだな……」


 目を閉じて数時間が経過していた。それでもぼくの脳は眠ってくれそうにない。時計を見ると、もう深夜の二時になっていた。

 明日は金曜日で授業もあるというのに。


 この部屋には時間を潰すものがない。まだ来たばかりで、娯楽に繋がるものがないんだ。本もゲームも、何も。

 食堂はとうに閉まっているし、学内コンビニも〇時にはシャッターが下ろされる。深夜の散歩も、何だか目的地がないと行く気になれない。

 部屋にこもっていてもやることはないし、外に出ても行き先が……。


「そういや、天然温泉の大浴場があるんだったか」


 シャワーはもうユニットバスで済ませてしまったけれど、一度どんなものか見てみるのも悪くはないだろう。掛け流しの天然温泉ゆえに、常に適温に保たれていて利用が可能だ。

 確か教師生徒問わず、偶数時間は男湯に、奇数時間は女湯になるはずだ。

 とはいっても、生徒は、特に女子生徒は、ほぼ誰も利用していないそうだ。

 そりゃまあ時間で分けられているとはいえ、年頃の女が赤の他人である男子と同じ湯に好きこのんで入るのも妙な話だといったところか。

 それに、どういうわけか男子生徒の方も数えるほどしか利用していないらしい。


 その方が気楽でいい。

 ベッドから身を起こして下着の替えを用意し、薄明かりの廊下へと静かに歩み出る。当然のように誰もいない。


 静かな夜だ。

 もともと全校生徒合わせて三〇〇名もいない学校だから、そううるさくもないのだけれど、それでも視界に人が入らないのは新鮮に思えた。

 男子寮を出て食堂方面とは逆の方向へ歩いてゆく。虫の声がチラホラ聞こえて、芝と土の香りが漂う夜の風は、昼のそれよりも優しい。


 人が消えてわずか九年。東京は傷を癒すがごとく、凄まじい勢いで緑化を初めている。街路樹の根はアスファルトを砕いて範囲を伸ばし、場所によっては草原になってしまった地域だってある。


 S字に舗装されたアスファルトを歩く足音が、やけに響く。

 結局のところ、自室を出てから大浴場に到着するまで、ただの一度も人とすれ違わなかった。

 灯りはついているし、カギもかかっていない。まあ、盗まれるようなものを置いておく施設でもないだろうから、脱衣場にロッカーさえあれば問題ないだろう。

 人目もないため、ぼくは乱雑に服を脱いでロッカーへと投げ入れて施錠した。結露した横開きの扉を開けて、目を見はる。


「広すぎだろ……」


 ほんの九年前までは、こんなもの何十億出したってできっこない施設だったろうに。

 広いなんてもんじゃない。競泳用の五十メートルプールを少々歪な円形にしたようなものだ。ふわふわと全体から立ち昇る湯気が、どこか幻想的な雰囲気を醸し出している。

 ぼくは壁際のシャワーを浴びてから、広大な温泉に向かう。湯の温度を恐る恐る確かめる。意外と温い。


「よっと」


 片足を入れて、静かに全身を浸けた。胸まで浸かって高い天井を見上げ、首を岩肌の壁に置いた。

 体内に蓄積されていた疲れが、温泉に溶け出してゆくようだ。

 ぴりぴりと全身が痺れる心地よさ。ひとりで楽しむのは惜しい。今度はマサトも誘ってみようか。


「あの天井がなけりゃ、月が見えてもっと最高なのになあ」

 ――月なら見えるよ。

「うえっ!?」


 突然聞こえた声に、ぼくは驚いて跳ね上がった。あわてて視線を左右に振るが、誰もいな――いや、広大な温泉のど真ん中に湯気で隠れてるけど、ひとつ、顔が浮いている。

 頭部ではなく、顔だ。

 かなり距離があるため気がつかなかったが、先客がいたらしい。

 それにしても、奇妙なポーズだ。よくよく目を凝らせば、その人は顔を天井に向けて、大の字になってぷかぷか浮かんでいる。

 誰だ? 教師か? 二年生や三年生の先輩?


「な……にしてるんですか……」

「キミはここに何をしに来たの? キミと同じに決まってるじゃないの」


 ごもっとも。

 納得したとたんに、その人がくるんとこっちを向いて、次の瞬間ぼくの視界から消失した。潜ったのだ。

 どえらいフリーダムな人だ。声もなんだかガキっぽかったし。

 キョロキョロと捜す。見つからない。上がる姿もない。

 まあ、溺れはしな――っ!?


「ばあ~っ!」


 目の前の湯が突然盛り上がったと思った直後、その人は両手を万歳ポーズにして火山が噴火する瞬間のように飛び出した。


「…………」

「……びっくりした?」


 視線があった。切れ長の瞳、長いマツゲがパチパチと。その悪戯顔が、ぼくを見た瞬間に真顔に戻った。

 肩下へと艶っぽく貼り付いた髪から、丸みを帯びた大きな胸を伝って、水滴がひとつ、黒湯に落ちた。

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