第六章 漆黒の傭兵と古代の太陽

第一話 お金でも薬でも<前>

 死ぬというのはなにも無くなることなのだと、誰が言っていたのだろう。


 体が熱いとか痛いとか、感じる自分自身が無くなるのだから、死ぬのは怖くないのだと。それなら、真っ暗なのは、ものを見ることもできなくなったからなのか。瓦礫の下でも確かに、死んでしまえば痛いもなにもないのだろう。

 しかし、痛い熱いは判らなくても、腕が何か柔らかいものに触れているとか、床が固くて冷たいとか、近くで誰かが呼吸をしているというのは判るものなのだろうか。

 そこまで考えて、グランは目を開けた。

 すぐ横で、転がったままのルスティナがあっけにとられたように上を眺めている。

 グランはおそるおそる体を起こした。周囲の床に大きな瓦礫はひとつもなく、伏せたりかがんだり立ちすくんだりしていた者らは皆、ぽかんとした様子で天を仰いでいる。

 グランも顔を上げた。

 落ちてきた天井は、天井と二階の踊り場の中間くらいの高さで、落下するのをやめていた。

 瓦礫が大きすぎて壁につかえたでもしたのか、と思ったが、それもどうも違う。まるでホール全体に、透明で大きな丸い椀が伏せられているかのように、なにも遮るもののない不自然な位置で瓦礫がせきとめられているのだ。浮いているようにすら見える。

 周囲は目に見えない力で充ちている。さっき床からわき上がった力が、半球形にホールを覆っているのを、その場にいる誰もが感じていた。

 その中心にいるのは、片膝をついて床に手を当てたエレムだった。

「これが……レマイナの力……?」

 グランの差し出した手を取って起き上がったルスティナが、驚きを通り越した様子でグランとエレムを交互に見た。エレムは肩で息をしながら、床についた自分の手元を呆然と眺めている。

 さっきの叫びすら無我夢中だったのだろう。エレム自身、なにが起きているのかよく判っていないらしい。今声をかけていいものかも、グランにはとっさに判断がつかない。

「とにかく、今のうちに外に出るんだ! 急げ!」

 我に返ったエスツファの声が合図となって、静まりかえっていたホールの中が、再び慌ただしくなった。滞っていた避難の列が、ホールの外に次々と吸い出されていく。像の下から引っ張り出された使用人が、担架代わりの敷物にくるまれて、兵士数人の手で運び出される。

「これは……僕が?」

 球形の屋根のように頭上でせき止められた瓦礫と、その下で次々と建物の中から逃れていく人波とに視線を巡らせて、エレムが吐き出すように呟いた

「知っていることと、信じて頼ることは別のこと……か」

 シャスタの街でラムウェジが語った言葉が、ふとグランの口をついた。エレムが怪訝そうな顔でグランを見る。

 グランは続けて口を開きかけたが、頭上で鈍い音がして反射的に身構えた。また風の固まりが建物にぶつけられたのかと思ったが、違った。

 見えない力で宙にせき止められていた瓦礫との距離が、さっきより縮まっている。落ちてきた屋根の一部が二階の踊り場に触れて重量をかけているらしく、支える柱がぎりぎり言い始めているのだ。この力も長く効果のあるものではないのだろう。

「急げ! 長く持たないぞ!」

 グランは叫んだ。だいぶまばらになったが、ホールの中にはまだ人が残っている。脚が悪いのか歩きが遅い老年の男を、二人の兵士が支えながら扉に向かっているのが、列の最後のようだった。

 ルスティナがはっとしたように頷いたので、グランは、まだ半分呆然と床に片膝をついたままのエレムの腕をつかんで立ち上がらせた。

「閣下、急いで!」

 怪我人を運んだ兵士達と一緒に一旦外に出ていたエスツファとフォルツが、扉の近くで叫んでいるのが見える。三人が駆けだそうとしたのとほぼ同時に、落ちてきた天井の重さに耐えきれなくなった二階の踊り場が右半分、大きくひしゃげた。

 轟音と一緒に砂煙が上がり、踊り場を支えていた柱が数本、折れて吹き飛んだ。

 三人とホールの出口との間に、天井の瓦礫が雪崩のように落ちてきて視界を奪う。細かい砂埃と石つぶが飛び散ってきて、グラン達は反射的に反対側へ飛び退いた。

 下敷きになるのは避けられたものの、瓦礫が扉をふさぐようになだれ落ちてきたので、彼らがまっすぐ出口に向かうことはできなくなった。首を巡らすと、左側の階段部分と二階の踊り場の一部はまだ崩壊を免れている。落ちてきた天井の瓦礫が右側部分に集中したからだろう。階段を登り切った先には、踊り場から奥の広間へ続く扉が開かれたままだ。

 迷っている暇はなかった。レマイナの守りの力が完全に切れて全ての瓦礫が落ちてくる前に、あの扉をくぐってこのホールから出なければいけない。天井に穴が開いて外の光が注ぎ込んでいるのも、今は都合が良かった。

 わずかな差だが、先に立って駆け上がったのはルスティナだった。恐怖に我を忘れて、というのではない。先頭に立って短剣を抜き、飛んでくる瓦礫の雨を払いのけながら二人を先導しようとしているのだ。

 最初の驚きから我に返れば、ルスティナは確かに勇敢で判断力のある優れた騎士だった。栗色の髪と銀色のマントを踊らせ、物怖じせずに突き進むその後ろ姿は、確かに皓月将軍と呼ばれるのにふさわしい勇ましさであり、美しさだった。

 支える力を完全に失って、宙に止まっていた瓦礫が次々とホールの床に落ちていく。振動が砂埃と一緒に階段をせり上がって、三人を追いかけてきた。一度は崩れるのがやんだように見えた二階の踊り場も、階下からの振動に煽られて、右端から再び崩れだしている。

 踊り場の奥へ続く扉をルスティナがくぐり、グランが駆け込み、エレムが飛び込んだ、それが合図になったかのように、最後まで残っていた二階の踊り場半分も、皿が落ちるように一階へ抜け落ちていった。

 ひときわ大きな振動が建物を揺るがせた。

 石つぶてを含んだ砂埃が扉から轟音と一緒に吹き出し、床に伏せた彼らの背中や頭に降り注ぐ。

 しばらくは砂埃のせいでまともに目も開けられず、うっかり口を開けて息を吸うこともできなかった。ホールではまだ振動が続いているが、こちら側は踊り場の床とは基礎が違うらしく、影響を受けて一緒に崩れることはなさそうだ。

 体に当たる砂埃の勢いが弱まってきたので、グランは自分の上に積もった砂埃やら小石やらを払いながら起き上がった。

 逃げ込んだ先は、屋内での会合に利用される大広間だった。窓がなく、そのままベランダへ通じているので、広めで贅沢な通路といった方が的確かも知れない。装飾の施された柱の間から、中庭の向こうにある月花宮の白い壁が一部見える。

「二人とも、怪我はないか?」

 立ち上がったルスティナは短剣を収め、二人を振り返った。グランは頷いて、今出てきた扉の向こうに視線を向ける。この広間の薄暗さにくらべれば、ホールとつながる扉から差し込む太陽の光は、とても明るくて爽やかだ。だが、もうあの下は瓦礫の山なのだ。

「……それにしても、神官殿は法術も使えたのか。レマイナの法術はひとの傷を癒す力だと思っていた」

 さっきの光景を思い出したのか、ルスティナが感嘆の表情を隠さずにエレムを見た。砂をかぶった犬のように全身から埃をふるい落としたエレムは、そう言われてもまだ困惑が抜けきらない様子である。

「僕も……素質はあるとは言われてたんですが、今まで全く使えたことはなかったんです。それにまさかこんな形で……」

「レマイナはすべての命の守り手なんだろ」

 髪の間に入り込んだ砂粒を手櫛でのけながら、グランは言った。

「金でも薬でもどうしようもなんねぇ部分のお前の求めに、レマイナが応えたって事じゃねぇの。……よく判らねぇけど」

「お金でも薬でも……」

 おうむ返しに呟いて、自分の右手を眺めるエレムを見るルスティナが、柔らかく微笑んだ。それも一瞬で、

「この先のベランダから中庭に降りられる。とにかく早く屋根のない場所に出よう」

 マントを大きく払い、ルスティナが早足で歩き始めた。

 後に続こうとしたグランの腕を、不意にエレムがつかんだ。埃に汚れた髪の下で、思い詰めたような目がグランを見据えている。

 グランは意図を察して小さく息をついた。

 こんな事になってしまったら、自分が黙っていてもエレムが勝手にしゃべり出す。それなら、一番効果的でこちらに不利にならない時機(タイミング)で話してしまったほうがいい。余計な聴衆がいない今が、一番のように思われた。

 グランは頷いてエレムの手を外し、ルスティナの後ろ姿に向かって声をかけた。

「公女アルディラの居場所を知っている」

 一拍おいて、ルスティナが足を止めた。

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