1.03〈GFO事件〉

「だめ! 殺しちゃだめ!」


 膝をつき、シユウの頭を両手で抱え込んだ萌花もえかは、今にも体を貫くかもしれない銃の衝撃を恐れて、固く目をつむった。

 夕日の時間を過ぎ、黄昏の薄闇に包まれ始めた周囲に魔法の明かりがいくつか灯り、その光景を温かい黄金色の光でぼんやりと浮かび上がらせる。

 その姿は、まるで捨てられた子犬を抱きしめる小さな子供のようだった。


「もえちゃん! その人は危ないですよぉ! 離れてくださぁい!」


「萌花! なにやってるの?! 離れて!」


 駆け寄ることも、その場から逃げることも出来ずに、ただそう声をかける芽衣めいと早苗、その二人の友人の声に、萌花は目をつむったまま大きくかぶりを振った。

 萌花の背中を通して、シユウの眉間を正確にポイントし続けるヘンリエッタは、芽衣の叫んだ萌花の名前に一瞬銃口がぶれたが、すぐに落ち着きを取り戻して銃を構えなおした。


「だめよー。そのボットは捕獲しなくちゃいけないのー。あなたのわがままで、この世界を危険にさらすわけにはー、いかないのよー」


「だって! シュウさんは何も悪いことしてない! さっきだって私たちを助けてくれたもん! それに、横殴りもPKもやらないって――」


「――そんなレベルの話じゃないの!」


 突然、間延びした喋り方だったヘンリエッタが、強い口調でピシャリと萌花の言葉を遮る。

 その言葉の厳しさは、彼女に同行してきた戦士たちも驚いて振り返るほどだった。


「……そのボットはー、人じゃないのよー。悪意を持ってこの世界に被害を与えようとするプログラム。私たちが……命を……懸けて守ってきたこの世界をー、破滅させる悪の根源なのよー」


 普段の言葉づかいに戻ったヘンリエッタは、萌花を諭すように言葉を続ける。

 それに対して、まるで駄々をこねる子供のようにぶんぶんと頭を振った萌花はさらにキツくシユウの頭を抱え込んだ。


「仕方ないなー。ごめんねー。今日はゲームはあきらめてー」


 萌花の背中越しにシユウの眉間にポイントされていた銃口を少しずらし、レーザーサイトの光を背中から後頭部へと移動させる。

 まるで何かに邪魔をされてでもいるように、ジリジリと引き金にかかった指に力を入れるヘンリエッタを誰もが固唾を飲んで見つめていた。


 ふと、空中を満たしていた障壁の一部が色を失う。

 その瞬間を逃さず、萌花に何事か語りかけたシユウは、何のエフェクトも残さずにその場から忽然と消え去った。


「どうした?! 瞬間移動テレポート障壁ジャマーは?!」


 怒鳴り声をあげる戦士に、離れた場所から「すすすすみません!」と言う声が答える。

 障壁を維持できる限界時間を超えてしまったことと、ヘンリエッタの行動に集中力を奪われたことを言い訳する魔術師に目を向けると、ヘンリエッタは銃を下ろし、大きく深呼吸して、すぐに笑顔を取り戻した。


「逃げられちゃったことは仕方ないからー、みんなまた情報を集めてー」


 声をそろえて「はいっ!」と返事をして周囲に散ってゆく戦士たちを見送ると、ヘンリエッタはゆっくりと萌花に歩み寄り、にっこり笑って手を差し伸べた。



  ◇  ◇  ◇



「だぁはぁー、またやったー」


 電気もつけず、カーテンも引いていない部屋で、完全没入型フル・イマーシブゲームの世界から現実に戻った萌花は、イマース・コネクターのスイッチを操作してスタンバイモードに切り替えると、ベッドの上に一度起き上がり、そのまますぐにまたゴロリと寝転がった。


 すぐさま耳孔じこう内に騒々しいハードロックが流れる。父の影響で着信音に設定している10年前のヒットナンバーだ。

 萌花はスマホを手に取り、芽衣と早苗と3人で撮った画像が表示されている画面にピッと触れた。


「はーい」


『もしもし、萌花?』


『もえちゃん落ち込んでませんかぁ?』


 今の今までGFOの世界で一緒に冒険していた、聞きなれた2人の声がスピーカーから流れ出す。

 そこに表示されている現実の画像の姿も、ゲーム内のキャラクターの、まるでアニメのような髪の色以外はほぼ同じだ。

 イマース・コネクターからの信号で点灯させた部屋の明かりで照らし出された彼女の髪の色も、ゲームの中のような真っ赤ではなく、落ち着いた黒髪だった。

 高く結んだその黒髪をふかふかの枕に沈めて、萌花はそっと目を瞑る。


「さすがにちょっと落ち込んでる」


 いかにも不機嫌そうな、落ち込んでいる風にも聞こえる低い声で、彼女はため息とともにそんな言葉を吐き出した。


『そりゃあね、運営が不正プログラム取り締まるのを訳もわからず妨害したんだから、せめて落ち込むくらいしてもらわないとね』


「だってさー、モンスターから助けてくれた人が謎の集団に殺されそうになってたら、助けるでしょ普通?」


『まぁもえちゃんは博愛主義者ですからねぇ』


『そういう問題じゃないわよ』


 あの後、萌花たち3人は不正プログラムの影響を受けていないかの簡単な検査をされ、あの「蚩尤しゆう72」と言うボットは73体居る中華製ボットの一つであり、ヘンリエッタたちはそれらを取り締まるために、セキュリティ強化型イマース・コネクターを使用する者を中心として結成された公的なチームだということを始め、様々なことの説明を受けた。

 その説明の中には、7年前に完全没入型フル・イマーシブ技術の基礎が発見される発端となった、ゲームの世界にプレイヤーたちが閉じ込められてしまった事故、所謂『GFO事件』の内容も含まれ、ヘンリエッタはその時プレイヤーたちを解放した9人の英雄のうちの一人であることも語られたのだった。


「まーねー、[創世の9英雄]なんて言っても、本当の英雄は1人だけなんだけどねー。私も含めて残りの8人はー、助けられた側だからー」


 萌花は、そう語ったときのヘンリエッタの優しい瞳が妙に印象に残っていた。

 真剣なまなざしで見つめながら、ヘンリエッタは萌花と同じ[もえ]と言う名前の英雄が命がけで守ったこの世界を、自分の全てをかけて守らなければならないのだと言って、萌花の手をぎゅっと握ったのだった。


「……ほんとに命を懸けてGFOを守ってるんだもん。たかがゲームだと思ってた私が全面的に悪いよ……」


『ですねぇ』


『弁明の余地もないわね』


 取りつく島もない2人の即答に、萌花は半泣きでスマホを顔の前に持ちあげる。


「ちょっとー! 少しくらい慰めてくれてもいいでしょ!」


 落ち込んでいた声はどこへやら。萌花の声のトーンはさっさと普段通りに戻ってしまう。

 浮き沈みの激しい彼女の言葉に、皆でひとしきり笑った後、夕飯を告げる家族の声にそれぞれが返事を返して、今日は解散となった。


 このとき、3人のイマース・コネクターから微かな信号音が発せられていることに気付くものは誰一人いなかった。



  ◇  ◇  ◇



 静かな教室に、先生のボソボソとした英語が延々と続けられる。指先でシャープペンをくるりと回しながら、ぽかぽかと温かい月曜の午後、窓から差し込む麗らかな光を受けて、萌花は6回目のあくびをかみ殺した。


 結局、週末は一度もGFOに接続しなかった。

 早苗も芽衣も同じだと、そう言っていた。


 別にヘンリエッタさんたちに止められた訳でも、アレでGFOが嫌になった訳でもないのだが、なんとなく先週までのような単なる暇つぶしの感覚でゲームに接続するのが申し訳ないような気持になっていたのだ。


 あれから早苗がネットで調べた『GFO事件』のあらましは、彼女たちの心をそれほど重くしていた。



 五感を現実の出来事と同じように感じることが出来、もう一つの世界での夢の冒険が楽しめる『完全没入型フル・イマーシブゲーム』など夢物語だと思われていた7年前、米軍と中国軍の軍事衝突で関東全体を覆った電波兵器による干渉波は、普通のMMORPGだったギャラクシー・ファンタジア・オンライン、通称GFOジー・エフ・オーに接続していたプレイヤー数万人をその世界に閉じ込めた。

 実際にその世界で何が起こったのかは、あまり詳しく語られてはいない。


 それでも、死者49名、脳死者3,405名。

 その後のPTSDなど精神・肉体共々に不調を訴えた人などを含めると、その症状の重さは別としても約8千名以上が犠牲となったこの事件は、萌花もニュース解説番組や特番などで何度か見たことがあった。


 その事件からわずか2年後、この事件で何らかの障害を負った人たちの救済をお題目として、完全没入型フル・イマーシブ技術が実用化される。

 GFO後に心を病んでいた人々の治療にそれは絶大な効果を発揮し、更に1年後、限定的にとは言え早くもGFOは一般にも開放された。


 それからのフル・イマーシブゲームの隆盛は萌花たち中学生世代にもよく知られている。

 未だに人体への悪影響やハッキングなどを危ぶむ声も根強いが、それでもこの技術は、もはや一般的な当然の技術として浸透していたのだった。



 くるり、くるり。何度もシャープペンを回しながら取り留めもなくそんなことを思い出していた萌花の頭上で授業の終わりのチャイムが鳴り、彼女は現実に引き戻される。

 日直の号令で立ち上がり礼をすると、机に突っ伏した彼女の背中に、早速芽衣の声がかけられた。


「もえちゃん、寝てませんでしたか?」


「うーーん……ふぁ……ぁ、んー寝てないよ?」


 大きく伸びをしながらのその返事には、まったく説得力はなかったが、芽衣は「ならいいんですけど」とにっこり笑う。


「寝てなくてもほかの事考えてたら同じことだわ」


 かまびすしい教室を横切って芽衣の隣に立った早苗は、小さくため息をついた。

 萌花はあくびで滲んだ涙を手の甲で拭くと、早苗の肩をポンポンと叩く。


「しょうがないじゃない。わかんないものは」


「ですねぇ」


「しょうがなくないわ。芽衣もあまり萌花を甘やかすのはやめなさい」


 芽衣は苦笑いで返事を返し、自分の事で芽衣が責められたことに萌花が反論する。彼女たちにとってはその全てが新しくて大切な、いつも通りの光景を過ごし、今日は萌花の勉強がてら、甘城屋あまぎやで小倉ティラミスクレープでも食べようという話をまとめると、彼女たちはいそいそと学校を後にしたのだった。

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