第二章 射法八節《しゃほうはっせつ》

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 弓道場の玄関から入って左手側に少し行くと、主な稽古場である射場しゃじょうがある。

 射場しゃじょうの広さは中学や高校の一般的な教室一個分ほど。黒々とした板張りの床、木目調の壁。二メートルを超える和弓わきゅうを扱うため、天井は五メートルと高く設計されている。

 射場しゃじょうに入ってすぐ右手側には、射場しゃじょうの床から人の膝丈ほど高く作られた審判席――上座かみざがあり、新入生たちはまずそこに通された。

 しかし上座かみざの広さは六畳ほどしかなく、平机や本棚が置かれているため全員はすわれない。

 上座かみざは道場への先着順ですぐに埋まり、残りの生徒たちは壁際に沿って、射場しゃじょうの床にすわることになった。

「なんか、実際に見ると小さいね」

「うん。もっと大きいかと思った」

「やべぇ、当たる気がしねぇ」

「でも当たるんだから不思議だよな……」

 新入生たちは口々にそう呟く。

 話題の種は、格子窓がついた壁の反対側。屋内にいながらにして見える外の景色のこと。

 背の低い草花が茂る自然の絨毯じゅうたん――矢道やみちと呼ばれるその二十八メートル先に、道場よりも二回り以上は小さい掘っ立て小屋が建っている。射場しゃじょう側に面する壁面は元からない。屋根と三方の壁面で囲っているのは、安土あづちという名称の、傾斜がつけられた土の山だ。

 その安土あづちには今、白と黒の多重円が特徴的な標的――霞的かすみまとが五つ掛かっている。土の山の三合目あたりにまとが位置するよう高さを揃えて、横一列に等間隔で並んでいた。

 射場しゃじょう安土あづち。この二つが一対となって弓道場は成り立っている。

「大きさって、十円玉くらいじゃね?」

「十円玉……ああ、見た感じはそれくらいだな」

「あれに当てるって、難しそうだね……」

「というか、本当に当たるのかな?」

 新入生たちが呟く通り、射場しゃじょうからまとを見ると大体十円玉サイズに見える。

 だが霞的かすみまとの直径は三十六センチと、実際は人の顔よりも大きい。安土あづちのそばで待機している真矢と対比しなければ、見たままの大きさに惑わされて誤解していたことだろう。

「おお、結構いるんだね」

 いい具合に話題が煮詰まってきたところで、射場しゃじょうに一人の青年がやってくる。青年は胴着に身を包み、弓をひとはりと矢を一本たずさえていた。

 その青年の後ろをついてきた凜が、射場しゃじょうの入り口で待機する。

 青年は射場しゃじょうの中央に歩み立つと、

「コーチのたちばな飛鳥あすかといいます。これからよろしくお願いします」

 そう挨拶して、新入生たちに向かって軽く頭を下げた。

 短く整えた髪、中高年に人気が出そうな甘い容貌マスク。柔らかい物腰は優男のそれに思わせて、しかし上衣じょういの上からでも引き締まった上半身が見て取れる。右手にはゆがけと呼ばれる鹿革製の装身具をつけていた。

「あ、学食のパン屋『たちばなベーカリー』も、どうかご贔屓ひいきに――」

 爽やかな笑顔で宣伝をつけ加えると、飛鳥は弓矢を構えた。

「――それじゃあ、部活紹介の時には見せられなかったって部長から聞いたから、今から一本だけ引いてみせます」

 左手に弓を、右手に矢を。

 腰骨の位置に左右の手を置き、弓の上端を床から十センチほど浮かせて保持。矢は矢尻やじりの部分をゆがけで隠しながら、弓矢で虚構の二等辺三角形を形作った。

 まとに向かって小さく頭を下げると、弓を引く定位置――射位しゃいあしで進む。

 射場しゃじょうの床には五カ所だけ、射位しゃいを中心線とした、白く掠れた逆ハの字型の跡があった。その五カ所とも、爪先の位置がそれぞれのまとの中心から伸びる延長線上と重なっている。

 飛鳥が立ったのは、三番目のまと射位しゃいだ。

 床の掠れた跡と重ねるように左、右と両足を踏み広げ、上座かみざ側に体の正面を向ける。

 弓を宙に持ち立てて素早く矢をつるつがえると、両手を添えたまま左膝へ弓を降ろし、置く。右手だけを一旦腰骨の位置に戻し、軽く一息をついた。

 そうしてゆっくりとまとの方を向き、深呼吸を一度。

 吸う息で視線をまとへ向け、吐く息でまとを見据え、吸う息でまた視線を正面に戻す。

 その一動作で、場の空気が張り詰める。緊張が射場しゃじょうに満ちていった。

 新入生たちは自然と口を閉じ、息を飲んで飛鳥を注目する。

 飛鳥は右手、左手とそれぞれの形を整えて構えてやると、一際鋭い視線をまとへ向けた。

 吸う息に合わせて、静かに弓を垂直に高く掲げる。

 息を吐いて、また吸う。

 今度は肘先だけを動かして弓をまとの方へ押しやる。みしりと弓のしなる音が聞こえた。

 つるがかかった右手がわずかになびくものの、なびいたのはこれまた肘先のみ。計算されたかのように、つがえられた矢は床と平行になっていた。

 飛鳥の呼吸音が射場しゃじょうという空間に溶け込んでいく。

 一拍の間ののち、飛鳥はゆっくりと弓を引いていった。

 みしみしとしなっていく弓。震える両腕。

 まばたきを忘れた双眸そうぼうまとを捉えて逃さない。

 左腕はまっすぐとまとへ向けられ、右腕は右耳の後ろを通って、両肩、両肘の高さが揃う。

 矢は床との平行を保ったまま、口の高さにまで下ろされた。

 充分に引き絞ったその体勢のまま、飛鳥は静止する。

 それから二拍の間ののち、どこからともなく微かな音が鳴り始めた。

 およそ秒刻みで鳴り続ける、その音。

 新入生の誰も気づかないほど、しかし徐々にだが、その音は大きくなっていった。

 回を重ねること、十回。

 十二分に引き絞られた弓から、矢が放たれた。

 ――――!

 弦楽器のように短く、高く。

 しかし弦楽器では出しえないほどの大きさで、つる射場しゃじょうえ渡る。

 つんざくという意味そのままに、矢は矢道やみち上の大気を突き裂きながら飛翔。そうして、新入生たちが弦音つるねの衝撃と余韻よいんを理解し終える前に、矢は目標へ到達した。

 ――――!

 安土あづちの方から、紙鉄砲を鳴らしたかのような小気味よい破裂音が聞こえてくる。

 矢はまとの二時方向、中心から的枠まとわくまでの中間点に突き刺さっていた。

「「おおぉ……」」

 新入生たちが小さく驚嘆の声を上げた。

 外で待機していた真矢が矢道やみちに入り、飛鳥の矢をまとから抜きにかかる。

「……ふぅ……」

 大の字の体勢となっていた飛鳥は、両手を腰骨の位置に戻して再び二等辺三角形を形作った。緊張で引き締まったままの顔を上座かみざ側に戻し、踏み開いていた足を右、左の順で閉じる。

 そうして「ふぅー」と脱力しながら息を長く吐き、弓を立てて構えを崩した。

「――っとまあ、こんな感じかな」

 ほっと胸を撫で下ろし、飛鳥はそう言って新入生たちに向き直る。

「あー、あたって良かった。本当に」

 冗談めいたその言葉で、新入生たちの緊張が解けた。



「はーい、みんな注目」

 飛鳥のデモンストレーションが終わったのを見計らって、凜は声を発した。

 手に持っていた入部届の用紙を掲げて見せる。

「とりあえずみんな、今から回すこの紙にクラスと名前を書いて下さい。体験入部のつもりの人も一応書いておいて。最終的な確認は勧誘期間が終わった日にするわ」

 射場しゃじょう上座かみざすわる生徒たちへ一枚ずつ、鉛筆と一緒に入部届を手渡す。

 新入生たちは今のデモンストレーションを話の種に、再び雑談をしながら自分の元に用紙が回ってくるのを待った。小声での雑談だが、数が集まれば中々に騒々そうぞうしい。

 しかし、今はこの騒々しささえも心地好ここちよい。

(……これよ、これ。こうあるべきなのよ)

 去年は見られなかったその賑やかな光景に、凜は嬉しさを隠せなかった。

 同様に微笑んでいた飛鳥と、静かに拳を握り合ってガッツポーズを交わす。

 しかし、どうしよう。

 さっきから指先の震えが止まらないのだ。

 抑え込めるかと思って拳を握る力をさらに加えたら、もっと酷くなった。だけど手汗が気持ちいいなんて……なんなんだコレは。

 いかん、頭もぼーっとしてきたぞ。

 とりあえず、テンパってるのはわかる――あ、テンパってるのか。

 と、とにかく。

 これからどうやって弓道部を回していこうか、まるで見当が付かない。

 去年の一人だった時と比べて、今は優に百人はこの場にいる。一人で練習していると広すぎたこの射場しゃじょうが、明らかに収容人数を超過しているとわかるのだ。

 この全員が一斉に練習するようになれば……一体、どれだけ楽しくなってしまうのか。

 指導の声が飛び交い、互いに指摘し合って、様々な弦音つるね的中音てきちゅうおんが聞こえてくる……それを想像すると、今からワクワクが溢れて止まらないのだ。

「「こんにちわー」」

 と、玄関の方から直人とドミニクの声が。

「お、来たわね」

 ちょうどいいタイミングだ。

 今ので一呼吸できたおかげか、頭から血の気が降りた。

 乾きかけていた唇を、唾液で粘つく舌で一舐めしてやる。

「よーし。じゃあまずは一週間、お試しプランで練習をやっていこう思うんだけど――」

 凜はそう切り出して、新入生たちに勧誘期間中の練習内容を話し始めた。


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