5:

 部活紹介の日から一週間。

 勧誘期間中に弓道部へ訪れた一年生は、およそ三百人。全日制に所属する一年生の数は三百二十人のため、ほとんどの生徒が見学に来たことになる。

 そしてその内の七十人が、この日、正式に弓道部の一員として認められた。

 男子は直人を含めて三十八人。女子はドミニクと真矢を含めて三十二人。そして部長の凜を合わせれば、合計七十一人の大所帯だ。

 そんな部員一同は、学校指定のジャージ姿。

 射場しゃじょう正坐せいざし、ひしめき合うようにして整列している。

黙想もくそう

 上座かみざの方を向いてすわっていた新入部員たちは、凜のその号令で目を閉じた。

 その新入部員と向かい合っているのは、上座かみざを背にしてすわる凜。凜の両脇で同じようにして正坐せいざする、副部長の座に着いた直人と真矢。そして上座かみざすわる私服姿の飛鳥。

 新入部員らは凜を境界線として分かれ、安土あづち側に女子、格子窓の着いた壁際に男子と並んでいた。ドミニクは境界線側の最前列にすわり、新入部員の筆頭として凜たちと向き合っている。

 部活を始める前の儀式とも言える黙想で、一同は意識を集中し、心を落ち着けていた。

「やめ」

 約一分の黙想ののち、凜の号令で一同が目を開ける。

「これから今日の部活を始めます。お願いします」

 凜は膝先の床に諸手もろてをつき、背すじを伸ばしたまま頭を下げた。

「「お願いします」」

 凜から遅れて全員が、声を揃えて同じように坐礼ざれいをする。

 一拍の間を置いて、一同は姿勢を戻す。

「筋トレのあと、いつものローテーションで練習開始」

 凜が手を叩いたのを合図に、全部員は射場しゃじょうに散らばってトレーニングを始めた。


     * * *


 弓道では、普段使わない筋肉を用いて弓を引く。

 一見すれば腕力で弓を引いているように見えるが、その腕力が意味する部位は異なっている。

 腕力を象徴するものとして思い浮かべるとしたら、大概の人は『力こぶ』をイメージするだろう。正しくは上腕二頭筋じょうわんにとうきんと言う。下から物を持ち上げたり、手元に引き寄せたりといった『腕をたたむ』動作をする時によく使われる筋肉で、日常生活では使用頻度が高い。

 だが弓を引くにはその反対側、上腕三頭筋じょうわんさんとうきんという筋肉を主に使う。

 いわゆる『二の腕のたぷたぷとした部分』だ。

 この部位は『腕を伸ばす動作』をする時に使われる筋肉で、引き絞られた弓が元の状態に戻ろうとするその力に対抗する役割を担う。だが力を抜きさえすれば腕は、ひいてはその他の部位も自然と伸びた状態になってしまうため、普段から意識的に使うことが少ない。

 普段使わない筋肉というのは、主にこういった『体を伸ばす筋肉』という意味だ。弓を引くために必要な『伸ばす筋力』をつけてからでないと、満足に弓を引きこなすことは叶わない。

 そのため弓道のトレーニングは、少々変則的になる。

 上半身を丸めずに背すじを伸ばしたまま体を起こす、上体起こし。

 ゆっくりと『伏せ』の状態から『立て』の姿勢にしていく、腕立て伏せ。

 姿勢を正したまま十秒かけて腰を落とし、また十秒かけて戻していくスクワット。

 これらをそれぞれ十回・二セット。

 回数はあまり重ねず、じっくりとやることで持久力を鍛えるのである。

 時間にして二十分ほどで終わる内容ではあるが、終わった後の疲労感は素早く数をこなした時よりも遙かに大きい。

 勧誘期間が終わった今日からは、さらにもう一セット追加となった。

 経験者である凜たち幹部を除けば、初日からまともにやり切れた者は十人もいなかった。新入部員の女子でただ一人やり遂げたドミニクとて、その疲労度は他の者と変わらない。

 しかし、ドミニクは新入部員の筆頭。

 これしきのことで、を上げるわけにはいかないのである。



 トレーニングが終わって、休憩時間。

 射場しゃじょう胡座あぐらをかく男子たちや、その場にへたっと座り込む女子たちとは違い、ドミニクは正坐せいざの姿勢を崩さない。一度習ったという先輩としての意地が、そうさせていた。

(やっぱり、たった一週間で埋まる差じゃないカ……)

 ドミニクは、息を荒げながらもやり通した。

 それと比べ、凜と真矢は終わってすぐに動けるくらいには余力を残している。さらに一人だけ別格だった直人は、終始涼しい顔でこなすという鉄人ぶりだ。

 実はこのトレーニング、日本を離れる五年前まで、直人と一緒にやっていたものとほとんど同じ内容なのだ。直人はきっと、あれから毎日欠かさず鍛錬を積み重ねてきたに違いない。

 勉強ばかりに明け暮れていたこの五年。

 仕方のないこととはいえ、直人とはずいぶんと差がついてしまっていた。

(ナオトは弐段にだん、リンさんとマヤは初段しょだん……)

 初心者ではあるが経験者、しかし経験者であっても段位や級位はなし。

 その微妙な狭間にいるドミニクは、早く直人たちに追いつきたい想いで、内心焦っていた。だが、広告塔である自分が部員たちから離れるわけにもいかないのである。

(でも三ヶ月って、短いけどケッコウ長いのよネ……)

 凜やコーチの飛鳥曰く、入部から三ヶ月が勝負なのだという。

 初心者が『一人で弓を引かせられる』ようになるまでが、大体それくらいかかるそうだ。

 つまりはそれまで、地道な基礎造りに重点が置かれるということになる。

 そのせいなのだろう。軽い興味本位で見学しに来た人は、その日に来て以降はもう道場には姿を見せていない。基礎練習に飽きた人も、日に日にその数を減らしていった。

 いわずもがな、その大半は男子だ。

 おそらくは「ドミニクとは学校で会えるし、無理して入部する必要はない」とでも考えたのだろう。色香で誘った身としてはアレコレ言う気はないし、そういう理由なら納得がいく。

 ……だからといって、今までと同じように愛想を振りまくとは限らないのだが。

 ま、とにかく。

 やる気のない人たちの影響で、他の部員の士気が下がるよりは全然いい。

 それでも男子は直人を含めて三十八人も残ったのだし、これは喜ぶべきことだ。

(これがアタシの役目だモンネ。ちゃんとやらなきゃダ!)

 部員を確保すること。

 それが自分の役目だと、ドミニクは認識していた。

 直人たちと一緒に大会で活躍したい気持ちは、確かにある。だが、中途半端な自分が出場したところで結果は目に見えている。大会での活躍は直人たちに任せるしかない。

 だから今は、自分ができることをやるだけだ。

 本格的な練習が始まるまでのあと三ヶ月、部員たちの興味を維持できるように努めなければ。

 そしてドミニク自身も、まともに弓を引けるようにならなければならない。

 さて。

 そうとあれば、いつまでも休んではいられない。

 休憩もそこそこに、ドミニクは動く。

 筋トレ中は長い髪が邪魔にならないよう、後頭部にお団子を作って結いまとめていた。

 それを一旦ほどき、髪留めに使っていたゴム紐を二つ口にくわえる。両耳周りの髪をまき込むようにして、左寄りの後頭部へ集めた。ゴム紐一つで左サイドテールに結い直し、毛先がばらけるのを防ぐため、もう一つのゴム紐で毛先を縛る。

「よっ、ト」

 髪を整え終わると、静かに一声を上げて立ち上がった。

 全身を走るピリピリとした痛みに耐えつつ、屈伸や背伸びで軽くストレッチをする。

 ドミニクのその動きに釣られて、他の部員たちもちらほらと立ち上がっていった。

 それを見て、上座かみざで打ち合わせをしていた凜たち幹部も動き出す。

「よーし。そんじゃあA班、外に行くわよー」

 凜がそう言って、直人と半数の部員を率いて射場しゃじょうを出て行った。

 B班のドミニクたちは射場しゃじょうに残り、飛鳥と真矢が指導を担当する。

「もう少し休めたんだけど、よかったの?」

 上座かみざから降りてきた真矢が、ドミニクにそう声をかける。

「今日から本番だモン。昨日以上に頑張るんだかラ!」

「じゃあそのやる気を買って、見本はドミニクにお願いしようかな。はい、これ」

 にこやかな表情と共に、ドミニクは真矢からゴム弓を手渡された。

 ゴム弓とは、弓のにぎりの部分を模して作られたプラスチック製の練習道具だ。

 白い本体の長さは二十センチほどで、幅と厚みは実物の弓とほぼ同等。持ち手部分には黒いゴムテープが巻かれ、野球のバットやテニスのラケットのように、グリップ力を高めていた。

 ゴムテープの巻き始めの部分には、輪になったゴムチューブが取り付けられている。それを矢に見立てて引っ張ることで、実際に弓を引く時と同じ負荷を再現することができる代物だ。

 直人と一緒に練習していた頃は、よくこれで練習していた。

「オゥ、懐かしいノが出てきたネ」

 ゴムを引っ張って小さな物を飛ばす、パチンコという『Y』の字型の玩具オモチャがある。

 ゴム弓とは形は違うが、ゴムを引っ張ってそれを離すという動作と仕組みが似ていたため、習い始めの頃に一度、そのパチンコに見立てて遊んだことがあった。

 直人に「危ないよ」と注意された後で、お爺さまからもやんわりと説教を受けた記憶がある。今思えば、あの時のお爺さまの話し様は時のそれだった。

 ……今になって、背中が少しヒヤリとした。ような気がする。

 そんな昔のことを思い出しながら、ドミニクは左手にゴム弓本体を握った。右手の親指をゴムチューブの輪に引っかけ、軽く伸ばしてみてゴムの具合を確認する。

「使い方は覚えてるみたいだね」

「なんとかネ。あとは体が動いてくれるヨ」

「じゃあ他の部員たちに、昔の通りにやって見せてあげて」

「オケ!」

「あと、ドミニクに弓を持たせるかどうかなんだけど、コーチの判断次第だってさ」

 真矢の言葉を聞いて、ドミニクは飛鳥を振り返る。

 飛鳥は部員たちに今日の練習内容を説明していた。

「――というわけで、今日からゴム弓で射法八節しゃほうはっせつの実践です。といってもゴム弓の数が足りないから、素手の徒手としゅ練習で良さそうな人から順に、ってことになるかな。今日は試しに全員二、三回は必ず引いてもらうから、そのつもりで。……いいですか?」

「「は、はい……」」

 不揃いな部員たちの返答。

 その声色は不安がほとんどを占めていたが、若干の期待の色も聞いて取れた。

 単調な基礎練習を続けて一週間。今日から本格的な練習が始まるとわかって、その気持ちのたかぶりが声に現れたようである。

「ナルホド。これは見極ミキワメってことネ?」

 ドミニクにすれば、これは忘れていたことを思い出せたかを問う試験のようなものだ。

 五年という錆びブランクを、この一週間でどこまで磨き、取り戻せたか。ここで一度習ったという経験を活かしきれなければ、本当の意味で弓道を再開したとは言えない。

 直人に追いつくのはまだまだ先のこと。

 今はとにかく、五年前の自分に追いつかねばならない。

「頑張ってね、ドミニク。私は他の準備があるから、またあとで」

 そう言って、真矢は射場しゃじょうを出て行った。

「じゃあひとまず、一年生たちは上座かみざすわって。これからブレッソンさんにゴム弓を引く見本をやってもらいます」

 飛鳥に手招きされ、ドミニクは部員たちの前に立った。

 ついでだからと射位しゃいへ促され、実際にまとを狙ってみることに。細かい所作しょさは大幅に省略し、ドミニクは五つ並んだまとの真ん中……一週間前に飛鳥がデモンストレーションで立った場所と同じ、三番目のまとを狙う〈三的さんてき〉に立った。

 五年前のドミニクは、まとに向かって実際に弓を引く練習――的前まとまえ練習をする前に引っ越してしまった。そのため、こうして実際に射位しゃいに立つのは初めてのことだった。

(フゥ……ドキドキするなぁ、モウ……!)

 直人が立つのと同じ場所に立っている……直人に追いついたわけでは決してないが、この胸の高鳴りは久しく味わっていなかった感触だ。

 両の手の平にじわりと汗をかきながら、ドミニクは構える。

(集中……集中……!)

 射法八節しゃほうはっせつとは、弓道のかただ。

 弓を引き、矢を放つ一連の動作における八つの行程のことをいう。

 この射法八節しゃほうはっせつを正しく行えば、放たれた矢は必ずまとあたるとされている。弓道人きゅうどうじんたちが長い年月をかけて積み重ねてきた研鑽けんさん……それを基に導き出した、正射必中せいしゃひっちゅうことわりだ。

 当時に習ったことを思い出しながら、ドミニクは動く。

(基本は、執弓とりゆみ姿勢しせいかラ……)

 姿勢を正し、あごを引いて、腹式ふくしき呼吸で息を降ろす。

 両手は腰骨の位置に。肩肘は張らず、ゆったりと構える。両足は接して揃え――男子の場合は三センチくらい空ける、だったか――体の重心は『土踏まず』の少し前に置くイメージで。

 視線は正面。足先から四メートル先の床――今の場合は射場しゃじょう上座かみざの段差の壁面、そこに打ち付けられている『射位しゃい』の札があるあたりに注ぐ。

 安易に視線を動かさず、目も見開かず、まばたきも最小限に。

 ……よし、大丈夫。

 この一週間で大体思い出せるようになっていた。

(……第一節・足踏あしぶみ……)

 まずは立つ位置を明確に。

 顔ごと安土あづちの方へ視線を向け、まとの中心を見据える。そうしてまとの中心から伸びる延長線上に、左の足先を合わせるように踏み開く。次に、顔を正面に戻してから足下を確認。右足を左足と同じくらいに踏み開く。

 射位しゃいから体の中心がずれないように。

 足は逆ハの字型。足を開いた間隔は自分の身長の半分ほどだ。

 思い出してきた知識に導かれるように、ドミニクの体は自然と次の動作へ移っていく。

(――第二節・胴造どうづくり――)

 本来はここで矢をつるつがえる行程があるが、今はゴム弓のため省略だ。

 先の手順を一つ前倒しにし、左手に持っていたゴム弓をしっかりと構えていく。

 にぎりを包み込むようにして、左手の小指、薬指、中指の順で爪先を揃えたら、親指は中指の爪に被せるように置く。人差し指は決してピンと伸ばさず、力を抜いてあるがままに。

 この握り方は『うち』といい、弓を安定して保持するための重要な行程だ。

(――第三節・弓構ゆがまえ――)

 弓構ゆがまえには取懸とりかけ、うち物見ものみの三つの行程がある。

 大まかに言って弓を支えるのが左手・うちの役目で、矢を支えてつるを引っかけておくのが右手・取懸とりかけの役目だ。

 取懸とりかけの形は、右手でコイントスをする形態に近い。親指を引っかけるのが中指であることを除けば、ほぼそのイメージで形作ることが可能だ。

 ゴムチューブの輪に親指を通し、取懸とりかけを形作る。

 左右の手は十五センチほど間隔を開けて、高さを揃える。

「……スゥー……フゥー……」

 そこでドミニクは、息をヘソのあたりへ落とすようにして、ゆっくりと深呼吸をした。

 大木を抱くように優しく両腕を構えた状態で、飛鳥に視線を送る。

「うん、いいね。次」

 飛鳥の了承を得て、次の動作へ。

 息を吸うのに合わせて、ドミニクは再びまとへ顔ごと視線を――物見ものみを向けた。

(――第四節・打起うちおこし――)

 まとに視線を注ぎつつ、弓構ゆがまえの状態をそのままに、ゆっくりと両拳を持ち上げていく。

 肩の筋肉を使わずに、両腕はあたかも「煙が立ちのぼるかのように」掲げる。あからさまに力を込めるのではなく、あくまで自然に形作られるのが打起うちおこしの姿だ。肩や腕に余計な力が入っていなければ、その角度は自然と四十五度ほどに落ち着くという。

(……第五節・引分ひきわけ……!)

 ここから、基礎トレーニングの成果が試される。

 ドミニクはゴム弓本体をまとの方へと押し向けながら、左肘を伸ばす。

 それと連動して右腕がまとの方へ流されてしまうが、ここがこらえどころだ。流すのは肘先だけで、肩から肘まではなるべく動かさない。

 両拳の位置は打起うちおこしよりも下がるが、まだ頭よりは上。左肘はまとに重なって見え、右肘は右耳の少し後ろにあるような感覚で。両手は大体同じ高さに位置取る。

 この時の姿勢は大三だいさんといい、弓を半分ほど引分ひきわけた状態を指す。

 今使っているこのゴム弓の場合は、ゴムチューブが五、六センチほど伸びた位置が、ちょうど良い大三だいさんの位置だった。

 ドミニクは呼吸を整えたのち、残りの半分を引分ひきわけにかかる。

(――大三だいさんをとったら、本腰ホンゴシ……!)

 ゴムチューブがさらに伸び始め、徐々に両腕への負荷が増え始めた。

 大三だいさんの位置まで戻されそうになるその負荷に耐えながら、左腕はそのまままとに向かって押し開く。右腕は肘で大きな円を描くように、手先が右耳の後ろを通るようにして所定の位置へ。

 両肘の一直線を下辺、引き収めた矢――この場合は引っ張られたゴムチューブを上辺とした、かなり平べったい平行四辺形を形作る。

 ここまでが第五節・引分ひきわけ。

 そして矢が放たれる直前までのこの状態を、第六節・かいという。

「…………!」

 両手・両肘が所定の位置に着く頃には、ゴムチューブは実際につがえる矢とほぼ同等の長さにまで伸びることになる。そしてその分、ゴムの反発力は増していく。

 その反発力と拮抗きっこうする体が、次第に震えを増してきた。右頬にゴムチューブを接することで震えを軽減させることはできるが、完全に抑えることはできない。

 当時より体が成長した今、ドミニクの両腕には想像以上の負荷がかかってきていた。

 落ち着いていた呼吸が速くなり、乱れ、顔が火照ほてりを増して息が苦しくなってくる……しかし決して、ドミニクはその苦を表に出すことはしない。

 無表情のまままとを見続け、耐えていく。

 ここまできたら、あとは負けまいとする気持ちが重要なのだ。

「よし。じゃあ合図するよ――」

 かいを懸命に維持すること六秒。

 飛鳥の声を聞いて、ドミニクは最後の力を振り絞る。

「――一、二の、三!」

 右手の親指を、コイントスと同じ要領で弾く。

 勢いよく放たれたゴムチューブは、鈍い音を立てて直後に反発。矢が飛んでいくはずの軌道を最初の二、三十センチだけ再現し、あとは急激に勢いを失って元の長さに戻る。左手に軽く当たったのち、電灯のヒモのようにぶらりと垂れ下がった。

 引分ひきわけの負荷がなくなった右手、そして右腕は、反動でまとと真反対の方向に跳ね飛んでいた。

 これが第七節・はなれ。

 そして、はなれの結果で大の字となったこの体勢が、第八節・残身ざんしんとなる。

(……フゥ……)

 物見ものみをそのままに、ドミニクは執弓とりゆみ姿勢しせいと同じように腰骨の位置へ両手を戻した。

 それから物見ものみを正面に戻す。射位しゃいから体の中心をずらさないよう重心を制御しながら、足踏あしぶみを右、左の順で半分ずつ閉じていく。

 そうして射法八節しゃほうはっせつの全行程を終えると、ドミニクは執弓とりゆみ姿勢しせいを崩して射位しゃいから退しりぞいた。

 両腕をぶらぶらと揺らし、筋肉の緊張をほぐす。全身にうっすらと浮かんでいた汗が、首元の隙間から生ぬるい空気となって蒸発していった。

「とまあ、ゴム弓の引き方はこんな感じ。ありがとう、ブレッソンさん」

 軽く頭を下げて礼を述べた飛鳥に、ドミニクはニコッと笑みを作って頭を下げ返す。

 飛鳥はさらに話を続けていった。

「で。ゴム弓がまともに引けるようになったら、次は実際の弓で練習。でも、コーチの僕や部長、副部長たちが「まだ危ない」と判断したら、前のステップに戻ってもらうから、そのつもりで。絶対に、基礎練習をおろそかにしないように」

 飛鳥の声が、説明調から真剣な調子に変わる。

「……弓矢は武器です。扱い方を間違えれば他人が、友達が、そして自分が傷つくことになる。今のブレッソンさんは特に目立った問題はなかったけど、ゴム弓でも充分に危険なことに変わりはありません。実際の矢は時速百五十キロを超えます。これは人が殺せる速度ですが、弓矢で人をあやめる時代はすでに終わっています。殺すのなら、自分の雑念を殺して下さい」

 そこまで言って飛鳥はハッとなり、声の調子を元に戻した。

「……こんな言葉を使って申し訳ありません。ですが指導を請け負う者として、これは必ず伝えないといけないことなので、言わせてもらいました。もう一度繰り返しますが、決して、他人や自分に危害を加えないように。そのことは絶対、忘れないで下さい……いいですか?」

「は、はい……」

「……はい」

 不揃いな部員たちの返答を聞くと、飛鳥は一同を見渡した。

 ゆっくりと全員の顔を見て、それから納得したように頷く。

「それさえ忘れなければ、弓道は楽しいスポーツだから」

 最後にそう締めると、飛鳥はこの場の雰囲気を切り替えるようにパンと手を叩いた。

「さて、それじゃあ次は誰に引いてもらおうかな?」

 そう言って、部員たちに誘いをかける飛鳥。

「……お前、先いくか?」

「いや、そう言うお前がいけよ」

「私でも大丈夫そうかな?」

「チャレンジャーね……怖くないの?」

「さすがに、ちょっと怖い」

 しかし、今の話を聞いてすぐに気持ちを切り替えられる者はいなかった。

 みんながみんな、口々に「どうしよう」と戸惑いながら互いの動向を様子見している。

(まあ、そりゃそうよネ)

 ドミニクは一人、そんな光景を見ながら小さく息を吐く。

 どうして日本人はこう、自ら率先して動こうという者が極端に少ないのだろう?

 引っ込み思案が強かった昔の直人でも、こういう場面の時は、いつもドミニクより先に名乗りを上げていた。直人は興味の湧いたことに対してはとても積極的なのである。

 まあ、今は直人のことは置いておくとして。

 今日でみんなも正式な部員になったのだから、それくらいの積極性は欲しいところだ。他の人よりも先に上達してやろうというその気持ち、持ってはくれないものか。

 それが叶えば、互いに切磋琢磨せっさたくまできる素晴らしい練習環境になるというのに。

 ……しかし、これが日本人の気質であり、美徳びとくなのは承知している。

 しょうがない。それならもう一度、自分が引いて時間を稼いでみようか……ドミニクがそう考えたところで、射場しゃじょうに真矢が戻ってきた。

 手にはゴム弓が二つと、つるの張られた弓を一張ひとはり持っている。

「橘さん、ドミニクはどうでした?」

「うん、大丈夫だと思う。さすがに一度習ってるだけあるね」

「じゃあ、素引すびきの段階に移っても?」

「そうだね。こっちは僕が見てるから、ブレッソンさんの方は任せるよ」

 飛鳥と簡単にそう打ち合わせると、真矢はゴム弓を預けてドミニクのそばへ。

「ということで、次は素引すびきだよ」

 ……さて、どうしたものか。

 素引すびき――矢はつがえず、素手で弓を引くこと――の段階に移れるのは素直に嬉しいが、このままでは新入部員たちとの距離が空く。

 ほどよい距離間ならばいい刺激になるだろうが、ゴム弓、そして素引すびきと練習段階が二つも開いてしまえば、部員たちの練習に臨む気持ちがえてしまうのではないだろうか。

 部員を確保するのがドミニクの役目だ。

 ならば、できる限りはほどよい距離間をたもっておきたい。

「ウィ。あ、でもその前に、今度はマヤに見てもらいたいナ。ダメ?」

 真矢と話しながら、ドミニクは部員たちの様子をうかがってみる。

 幸いなことに、真矢が来たおかげで少し時間が稼げていた。その間に気持ちの切り替えができた十人ほどが、手を挙げてゴム弓の初練習に立候補している。

 ……ドミニクがさらに次の練習段階に進むとわかって、慌てて動いたような空気だった。

 飛鳥の裁量で選抜された二名に、残りの者たちの視線が集中する。選抜から漏れてしまった者は特に、うらみとねたみが入り交じった鋭い目つきであった。ちょっと怖い。

 どうやらこのB班には、負けず嫌いな性格の者が多いらしい。これなら付かず離れずでいるより、少し先を行くくらいの距離感でちょうど良さそうだ。

 その様子に安堵し、ドミニクも気持ちを切り替えることにする。

「――そう、だね。一度見てた方が私も指導しやすいかな」 

 あっ、と何かに気づいた様子で、真矢がそう答えてくれた。

 こちらの視線と安堵したタイミングから、その意図を察してくれたようである。

「なら、決まリ!」

 そう言って、真矢にウィンクを返す。

 ドミニクは〈三的さんてき〉の一つ後ろの〈四的よんてき〉に場所を移し、再びゴム弓を構えた。立候補した二人を〈二的にてき〉と〈三的さんてき〉に加え、飛鳥の合図で三人揃って射法八節しゃほうはっせつを象っていく。

 加わった二人が逐一指導されるのに合わせ、ドミニクはさっきよりも良くしようと、射法八節しゃほうはっせつに自分なりの改良を加えていった。

 一つ一つがどう良くなったのかは、自分ではわからない。

 しかし真矢が口を出さないところを見ると、そう悪くはなっていないらしい。

「うん。いいんじゃないかな」

「ソウ? マヤにもそう言ってもらえるなら、アタシも安心だヨ」

「けど、やっぱりブランクは大きいね。特にうちが」

うチ?」

「うん。ちょっとやって見せるよ?」

 真矢はドミニクと立ち位置を入れ替え、射位しゃいに立つ。

 持っていた弓を見本に、弓の握り方をドミニクに見せた。弓のにぎりに対してほぼ直角に左手を添え、ドミニクがしたように指先を揃えて弓を包み込む。

うちを作った時はいいんだけど、打起うちおこしからかいまでいくと――」

 言いながらまとの方へ弓を向けて、少しだけつるを引っ張る。

 弓の負荷が真矢のうちにかかっていき、爪先を揃えた指が内側に握り込まれていく。親指もそれに引きずられるようにして、重ねていた中指の爪から第二関節の方へとずれていった。

 見た目には、拳を握っているかのような形となる。

「――こういうふうに、最初の形が崩れて握っちゃうんだよね」

「あ、思い出しタ。こういうのを『うちが負ける』っていうんでショ?」

「そうそう。本当なら弓構ゆがまえで整えたままの形を維持するのが理想なんだけど、親指の筋力が衰えてるから、どうしても握り込んじゃうんだよね。私も習い始めの頃はそうだったもん」

 さっき真矢が言っていたように、本来、うちとは『作る』ものだ。

 弓は握るが、握り込まない……その力加減や解釈の微妙な違いニュアンスが、うちを作るためには必要不可欠なのである。

「やっぱり、まだまだ筋力不足かな」

 弓道を再開してまだ一週間のドミニクが、一朝一夕いっちょういっせきで身につけられるようなものではない。

 ましてや五年の空白と錆びブランクすらまだ解消できていないのだから、うちが負けてしまうのは当然のことであった。

「ムぅ……」

 ドミニクは軽く握った左手に視線を落とし、開いたり閉じたりを繰り返してみた。

 手入れの行き届いた爪、きめ細かい手相、うるおいをたもった肌質……傷やマメ、タコといった何かしらの経験の跡が見えない、実に綺麗な手である。

 筋力不足もそうなのだが、ドミニクとしてはこの、手の綺麗さもまた気になる部分だ。

うち、かァ……)

 日本には『うちを見せるな』という格言がある。

 門外不出もんがいふしゅつとされていた刀鍛冶の技術や、戦場や果たし合いでの兵法ひょうほう、武術における一子相伝いっしそうでんの奥義など、いわゆる『匠の技』や『奥の手』がうちにあたる。

 例えばトランプで『ババ抜き』をしたとして、自分の手札を相手に見せようとする者はいないだろう。それと同じことだ。勝負事の駆け引きに勝ちたいなら、見せるものではない。

 うちとはいわば、その者だけの、創意工夫そういくふうを凝らした唯一無二の武器なのである。

「でもこう言っておいてなんだけど、筋力不足だけじゃ全然アドバイスになってないね……」

「ダイジョウブ。日頃の積み重ねがないとダメだってことは、よく伝わったカラ」

 肌荒れを気にしないで済む程度のうちでは、まだまだ未熟。

 唯一無二の武器と言えるほどの時間と経験が、全然足りていない。ひとまずはこの手の平に、マメやタコといった成果が見えるまで、ひたすら練習を積む必要がある。

 果たしてそうなるまでに、どれだけ時間がかかることやら。

うちって、大変なんだナぁ……」 

「私もゴメンね。指導にまだ慣れてないから、適当な言葉が思いつかなくて……」

 溜息混じりの、諦めと悔しさと自覚が込められた言葉。

 二人揃って左手を開閉し、首を傾げて苦笑する。

「ま、とにかく。うちに関しては、大神くんに教えてもらうのが良さそうだね。大神くんなら大神範士せんせいの指導の癖を知ってるし、ドミニクに合った方法で教えてくれるかも。実際に見せてもらえばわかりやすいんじゃないかな?」

「ナルホド。じゃあ班の交代時間が来たら、ナオトに頼んでみるヨ」

 今まで無意識に作ってきたうちは、ドミニクの体が昔の感覚を覚えていただけのものだ。

 記憶違いから間違ってやっていたり、忘れていたり、全然関係ないことをしでかしている可能性もある。今一度、原点に立ち返ってみるのもいいかもしれない。

「よし、じゃあ三人とも。もう一度やったら他の人と交代しようか」

 飛鳥の号令を受けて、ドミニクは気持ちを切り替えた。

 ひとまず、うちの話題はここまでだ。

 ドミニクはまたゴム弓を構え直し、三度みたび射法八節しゃほうはっせつを象っていく。

 より良くしようとした二度目の試みに加え、今度は終始、うちから意識を逸らさずにやってみよう。


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