2:

 午後六時半を過ぎた頃。

 凜は受付窓口の中で、今日入寮した生徒たちの書類を整理していた。

 荷物の受領書や入寮のための誓約書など、およそ二十人分の関係書類を個人ごとにまとめ、クリップで閉じていく作業だ。

 最後にドミニクの書類をまとめていると、誓約書のサインをもらっていないことに気づく。

 あとで書いてもらわないと。

「あ、部長さン」

 ちょうどそこへ、部屋の片付けが一段落したドミニクが、大浴場でシャワーを浴びて戻ってきた。今はタンクトップと短パン、肩にバスタオルをかけたラフな湯上がり姿をしている。

「ナオトがどこ行ったか知ってル?」

 ドミニクは窓口に両腕と両胸を乗せ、身を乗り出してそう聞いてきた。

 ……正直な感想を一言。

 本当に『』が二つ乗るとは思わなかった。

 前傾姿勢だからって……いやいや、それにしたって、ええぇ? 胸って乗るものなの? 身を乗り出して――いや『実』は乗ってるけど。間違ってないけども。

 ……はっ! いかんいかん。これは無駄な思考だ。

「えーっと、もうちょっと羞恥心は持とうね、ブレッソンさん。寮の風紀が乱れるから」

 ドミニクの姿に一瞬声が出なかったが、凜はひとまず呆れながらそうとがめた。

 似たような格好で歩き回る人は、男女問わずに一定数存在する。

 一人暮らしに慣れてきた二年生や三年生ならば、良くはないが特に不思議はない。

 しかしまさか、入寮初日からとは恐れ入った。それによくよく思えば、他の入寮者にそんな注意をしたことは一度もなかったような気がする。

「あ、それと。コレにサインを一筆」

 そう言った声色を静めたのは、風紀の話がまだ終わっていないことを示すためだ。

 誓約書とボールペンを窓口から差しだし、ドミニクに渡す。

風紀フーキ? 服はちゃんと着てるし、ダイジョウブでショ?」

 そう話しながら、ドミニクは素早くペンを滑らせた。

 最後に末尾へトンと一突きをして、誓約書とペンを返してくる。

「いやいやいやいや。そんなんじゃ下着も同然でしょうが」

「だって、片付けの時に着てたのは今お洗濯中だモン」

「モンじゃない。周りの男子が見てるでしょうに」

 その声が聞こえたのか、付近にいた助兵衛すけべえな男子たちが一斉に視線を逸らした。

 大人びて見えるドミニクだと、湯上がりの相乗効果で妙につやめかしく見えてしまうのだ。男子の反応は正常だ。凜が「注意すべきだ」と思うほどに一線を越えてしまっている。

 ……おい、さっき視線を逸らした男ども。チラ見すんな。

 ドミニクのお尻を見るな、お尻を。

「そんなことより、ナオトはどこなノ?」

 気づけよ! と怒鳴りたい衝動を抑えられたのは、玄関の自動ドアが開いたおかげだった。

 人影は二つ。見知った青いジャージと、胴着姿の二人。

「……ほら、噂をすればなんとやらよ」

「あ、ナオトー!」

 凜がそう教えてやると、ドミニクは即座に直人の元へ駆け寄っていった。

「ドミニク、そんな格好じゃ湯冷めするよ?」

「そうかナ? 大丈夫だと思うけド」

 さすがに昼間の再会劇みたいな勢いではなかったが、それでも肩からバスタオルが落ちるくらいの勢いはあった。今日は時差ボケもあるはずなのに、その疲労をまったく感じさせないほど元気も体力も有り余っているようである。

 そのタフさを、隣でへばっている真矢にも分けて欲しいものだ。

 夕食の時間までにと必死で走ってきたのだろう。真矢は崩れるようにして仮設の郵便箱にもたれかかり、肩を上下させて息を整えていた。

「真矢ちゃーん。息が上がってるところ悪いけど、早く着替えて厨房入ってねー」

 悪いなぁとは思いつつ、凜はいつもの業務の遂行を真矢に願う。

「……す、すぐ行きます……!」

 真矢は荒い息のまま応じた。

 玄関口で靴を脱ぐと、真矢は小走りで凜のいる受付窓口の中に。凜の背後にあった下足棚に靴を投げ込むと、その隣の引き戸を開けて奥の部屋へと姿を消す。

 そこは寮長室、真矢たち和泉家が住む部屋いえになっていた。

「さて。私もそろそろ切り上げるとしますか」

 やれやれと肩をすくめつつ、凜は入寮者の関係書類をまとめにかかる。

「あ、そうだ。直人くんも一緒に食べに行かない?」

「夕食ですか? 良ければご一緒します」

 そう答えた直人は、いつの間にかシャツ姿になっていた。

 そのすぐ隣のドミニクを見てみれば、左胸に『一年三組 大神直人』と刺繍が入ったジャージを着ている。湯冷めをしないよう、直人が貸してあげたようだ。

 おかげで寮の風紀は守れそうである。

「オゥ、もうそんな時間? なら、早く行かないト」

 さっきよりはマシな格好になったドミニクが、さも当然のように便乗してきた。

 直人と腕を絡ませ、凜のことを待たずに先へ行こうと引っ張る。

「弓道部のことも聞きたいから、ちゃんと待とうね」

「オゥ? なら、しょうがないネ」

 しかし直人は直立不動のままドミニクを抑え、瞬時に言い聞かせていた。

 ……直人あんたは子供をあやすお母さんか。いや、お父さんか。

「じゃ、あと二十秒くらい待っててねー」

 ならわたしは、準備の遅いお母さんということになる。心外だ。

 などと不毛な思考をしながら、ドミニクに書いてもらった誓約書を確認。

 流麗な筆記体は英語なのかフランス語なのかすら判読できなかったが、サインとしては有効なのでこれで受理しておこう。他の誓約書とひとまとめにし、分厚くてやたら重い今年度版の名簿帳に挟んで見えなくしておく。

 席を立ち、和泉家の部屋いえに「すいませーん、ご飯食べてきまーす!」と一声。寮母さんの「はいはーい」との返答をもらいながら、窓口に『学生長不在』の札を立てた。

 玄関ロビーに出て、受付の鍵を閉める。

「お待たせ。さ、行こっか」

 凜は直人とドミニクを引き連れ、食堂へ向かった。

 受付窓口のさらに奥、大浴場と共用洗濯場を通り過ぎて、廊下の突き当たり。

「よい、しょ」

 寄りかかるようにして、凜は食堂へのドアを開ける。

 気圧と温度変化の層を風のように受けると、直後に独特な香辛料の匂いに包まれた。

「このニオイ……これはカリーだネ!」

 前もって献立表を見ていた凜は知っていたが、ドミニクの推察通りだ。

 育ち盛りの男子高校生を多数抱えるこの寮において、カレーライスは人気が高い。毎回肉や野菜を変えながらも、誰もが食べやすい辛さに仕上げているのがその秘訣だ。

 今日の夕食はチキンカレーと葉物の野菜サラダだった。

 凜はフロントカウンターで給仕の人たちに挨拶をし、食べたことを証明する食事台帳に自分の部屋番号と名前を書き記す。カウンター脇の小さな洗面台で手を洗うと、それを確認した給仕のおば様から、空の食器が乗ったトレイを受け取った。

 直人とドミニクもそれに倣い、凜のあとを付いてくる。

 順次、業務用保温ジャーと大鍋からご飯とカレールゥを盛る。先に盛り終わった凜は、三人でまとまって座れる場所を探した。

 食堂に用意された席数は五十。

 長テーブルを五列並べ繋げただけの簡素な配置にしている。

 食堂は改修工事をしていないため、共学化した一昨年から一列増やしてしまったこともあり、かなり手狭になってしまっていた。満席になれば通路がなくなってしまうほどだが、今は夕食時間が始まったばかり。十人ほどの先客がいる程度で、空席の方が目立つ。

 壁掛けテレビが一番見やすい中央列の最奥部には、すでに一グループが陣取っていた。あとは思い思いの場所に散らばって、黙々と食事を続けている。

 隣り合わないよう三秒で考慮し、入り口から一番近い席に座ることに。

 凜の対面に直人が座り、直人の隣にドミニクが座る。

「や、野菜サラダでーす。どうぞー」

 そこへ給仕姿の真矢もやってきた。息がまだ荒い。

 今は白地の三角巾とマスク、緑のエプロン姿。手には野菜サラダの小鉢こばちを乗せたお盆と、もう片方には給水ポットが握られていた。

 給水ポットを自然に持ち代わった直人が、凜たちの空のコップへ水を注いでいく。

 その間に真矢は小鉢を配膳し、また厨房へ戻っていった。

 その後ろ姿を見ると、はかまを脱いで学校指定のジャージを穿いただけの格好なのが丸わかりだった。胴着を畳むのには少々時間がかかる。だから真矢は上衣じょういを着たまま、はかまも帯も足袋たびも脱ぎ散らかしてそのまま給仕に入ったようだ。

 ぐぅぅ~。

 と、ドミニクの方から空腹を訴える音が。

「エヘヘ、お腹すいちゃっタ。早く食べヨウ」

「それもそうだね」

「そんじゃ、いただきます」

 三人は両手を合わせ、食事を始めた。

 凜は小鉢の野菜にフォークを刺した所で手を止め、直人とドミニクの様子を眺める。

 ドミニクはカレーライスを一口一口、ゆっくりと味わっていた。久々の日本の味を堪能しているようで、その表情は誰が見ても「おいしそう」と思わせるほどに嬉々ききとしている。

 その横で直人は、淡々と十二口でカレーライスを平らげた。静かに席を立って、おかわりを盛りに行く。同じと鉢合わせるが、盛り付けの順番を先に譲っていた。

 今度は厨房の真矢を眺める。

 木ベラでかき混ぜている大鍋は、追加のカレーだろうか。ようやく息も落ち着いたようで、声は聞こえないが、隣のおば様方との談笑に軽く相槌を打っている様子が見て取れた。

 三人の性格というか、感情の表し方というか、気質というか。

 そういうものが良く現れているなと思う。三人とも、いい具合にバラバラだ。

 それらを見て、凜の思考にふと天啓てんけいが降りてきた。

 一番見栄えが良いのは、誰だろうか。

(……よし。部活紹介の路線はコレにしよう)

 週明けの一学期初日には、新入生のための部活紹介という一大行事が待っている。

 凜は弓道部の部長として、弓道部の存続が懸かったその大一番に、行事のプレゼン側として参加することになっていた。意識はしていないつもりだったが、やはり緊張はするものである。

 当初は、凜が紹介文をただ読むだけの平凡な内容だった。

 だがたった今、それよりも断然良い案が浮かんだのである。

(きっと、大丈夫。私の見立ては間違ってないから)

 自分に言い聞かせるように、心の中でそう呟く。

「……よし。さ、私も食べるかー」

 心と肝を据え、ようやく凜はフォークに刺したレタスを口に入れた。

「ヨシ、アタシも負けないヨ!」

 直人から遅れて、ドミニクも負けじとおかわりを盛りに席を立つ。

 入れ替わりで直人が戻ってきて、給水ポットで三人の水を注ぎ足してくれる。

 ……しかしこの流れは、私もおかわりをした方がいい感じなのかしら?

「そうだ、先輩。弓道部のことで質問があるんですが、いいですか?」

 スプーンに持ち変えようかと思っていたところで、席に着いた直人がそう聞いてきた。

 しゃきしゃきとレタスを咀嚼そしゃくしつつ、凜は直人に言葉を促す。

「弓道部って、現時点での部員は先輩一人だけなんですよね?」

 口の中の物を胃へ落とし込み、水を一口。

「うん、私だけ。弓道部を創る時にかき集めた部員は、中学の同級生に頼んで名前を使わせてもらっただけの幽霊部員よ。だから、即戦力の直人くんと真矢ちゃんを入れても、あと三人は絶対に確保しなきゃいけないの」

「となると、ドミニクだけじゃ足りませんね……。何か勧誘の策はありますか?」

「んー、それね。あるにはあるよ?」

 今さっきひらめいた策ではあるが、自信はある。

 凜はちらりと、直人の隣の席を見やった。

「なにせ、ウチにはとびっきりの広告塔がいるしね」

「? コウコクトウ?」

 大盛りの皿を持って帰ってきたドミニクが、そう言って首をかしげた。

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