第一章 弓道部、勃興《ぼっこう》

1:

 陽気が暖かい、午後三時を過ぎた頃。

 入学式を終えて、黒々とした真新しい学生服とセーラー服に身を包んだ少年少女たちと、着飾ったその両親らが、明仁高校と提携している学生寮へと戻ってきていた。

 学生寮は学校から徒歩十分。住宅地を通り抜けた程近い場所にある。

 建物は作業用の足場と防塵カバーで覆われており、今は外壁を統一する塗装工事の真っ最中だった。そのため、和洋折衷な家々が並び建つ付近の景観からは浮いている。

 学生寮は五階建てで、提供できる部屋数は九十部屋。建物を真上から見下ろすと『U』の字型になっており、その東館を男子部屋、新しくできた西館を女子部屋として分けている。

 明仁高校の共学化に合わせ、昨年の暮れにようやく西館の増築を終えたばかりだった。

 急な増築だったため、受付のある玄関ロビーは現在手狭な状態である。

 入寮者の物である段ボール箱が、山を作って受付窓口の脇に積み上げられていた。それに加え仮設の郵便箱と下足棚が、残った狭いスペースをさらに狭くしている。

 新一年生の父母らが寮長に一言挨拶をしようと順番待ちをしているせいもあって、今日はなおさら密度が増していた。

 老夫婦の寮長たちが懸命に応対しているが、焼け石に水な状態。

 居住者である上級生らは、難しい顔を浮かべながらその群衆の隙間を通っていく。洗濯かごを持つ者や、洗面用具を持つ者、リュックを背負って部活動に向かおうとする者もいた。

 そんな、混み合った玄関ロビー、その右奥。

 漆塗りのテーブルとL字型の茶色いソファーが置かれた、東館エレベーターホール兼ラウンジの一角に、上級生らに混じって一人の少年が階段を下りてやってきた。

(僕が帰ってきた時より増えてる……)

 玄関ロビーの混雑を眺めながら、その少年――大神おおかみ直人なおとはそう思った。

 短く切り整えた黒髪、幼さの残る顔つき。身長は百七十センチに届くかどうかで、体つきは服のサイズを『M』か『L』かで悩む難しい頃合い。今着ている学校指定の青いジャージは、将来性に期待して少し丈が余る物となっている。

 入学式を終えて寮に戻ってきた直人は、付近の散策がてらランニングに行こうとしていた。

(まだかかりそうかな。もう少し待ってみよう)

 上級生たちのように混雑の中を突き進めば何の問題もないのだろうが、新参者である直人にはまだそんな度胸を持つ勇気はなかった。

 とはいえ、別に急ぐ理由もない。

 一区切りがつくまでと見計らいながら、直人は静かに全身のストレッチをし始めた。

 立ったまま片足ずつ足首をならしながら、両手の指先から順に手首、肘、肩、背中へと筋肉を入念にほぐしていく。

(…………?)

 仕上げに腰を回していたところ、一風変わった女子生徒の姿が目についた。

 玄関ロビーの左奥――西館のエレベーターから、その女子生徒が手ぶらで降りてきた。彼女が向かう先は、視線の方向から察するに受付窓口だろう。

 つまりは直人のいる方へと近づいてきていた。

 彼女の着ているセーラー服のリボンが白いことから、一年生だということはすぐにわかった。

 だが、どう見ても日本人の風貌ではない。

 一際目につくのは、颯爽さっそうとなびかせる黒みがかった長い金髪だ。鼻梁びりようの高さも欧米人のそれを思わせる。腰の高い、すらりとした長身。モデルのような歩き方。ただのセーラー服が、まるで高貴な衣装のように映えるほどの『はな』が、彼女にはあった。

 すれ違う人たちの視線を独り占めするその女子生徒が、ふと直人に気づく。

 彼女のあおい瞳が直人を見たのは一瞬のこと。他の人たちと同じように、少し視線を合わせただけですぐに逸らされてしまった。

「――!? ……?」

 しかし何を思ったのか。

 彼女は急に足を止めて、直人のことを二度見した。

 今度は眉をしかめ、まじまじと直人の顔を凝視する。五秒ほどその場で悩むと、直人に対して疑うような声色で尋ねてきた。

「……もしかして、ナオト?」

 ふいに名前を言い当てられ、直人は思わず頷いてしまった。

 その反応を受けて、彼女の雪のように白い肌が、頬だけみるみる赤く染まっていく。

 日本人離れした外見で、直人の名前を知っていて、しかも同年代の女の子……そんな人は、直人の記憶では一人しか思い当たらない。

 ドミニクだ。

「ナオトー!!」

 直人が口を開く前に、彼女は飛びかかるようにして抱きついてきた。

 昔からこうなのだ。仲良くなって意思の疎通が取れるようになった頃から、ドミニクは直人に対する挨拶を抱擁ハグという形で示すようになった。

 名前を叫んで抱きついてくる、この一連の流れ……五年ぶりの、慣れた感触。

 もう疑いようがない。

 彼女はたしかにドミニクだ。

(あ――ちょっと無理かも)

 しかし五年も経った今、飛びかかってきたその勢いは昔よりも遙かに強烈だった。

 抱きとめた直人は咄嗟に、その場で一回転することで勢いをいなす。滑りやすいスリッパを履いていたおかげもあって、なんとか軸足を起点に回ることができた。

 回転が止まると、ドミニクは自然な流れで直人の両頬にキスをみまう。

「……えっと、テーブルに足とかぶつけなかった?」

「ウィ! ナオトなら大丈夫って信じてタ! ホラ!」

 言いながら、ドミニクは背中側で何かをバタバタと動かす。

 直人は彼女の背中越しに覗き込んで、その何かを確認。白いソックスを履いた両足の裏が見える。楽しそうに踊る指先が、ソックス越しに器用に動いていた。

 どうやら「レ」の字に膝を折って回避したらしい。

 ……周辺にスリッパが散らばっているのはそのせいか。

「まあ、怪我がないならよかったよ」

 無事を確認し、直人は抱きかかえていたドミニクを降ろした。

 すぐにスリッパを回収し、またドミニクに履かせる。

「メルスィ、直人。それと、久しぶリ」

「うん、久しぶり。元気だった?」

 そうしてひとまず、直人は注目のまとになっていたのを解消するために『久しぶりに会った友人』であることを周囲に明かしておく。平静を努めながら、徐々に『何気ない日常風景』に溶け込もうとして会話を続けていった。

「元気も元気! でも、全然連絡できなくてゴメンネ? 忙しくてサ」

「日本語も上手になったね。あ、何も連絡がなかったのは勉強に集中するため?」

「さすがナオト! その通りヨ!」

「そっか、頑張ったんだね。片言だった頃が嘘みたいだ」

「そりゃあアタシだって成長するモン。身長だってナオトより大きいゾ!」

「あ、本当だ。僕の身長も子供の頃から結構伸びたんだけどなぁ。昔と一緒か」

「日本の若い人って成長遅いもんネ。でもきっと、ナオトはこれからだヨ」

「そうかな? じゃあ、いつか勝てるように頑張るよ」

 直人はドミニクと背比べをしながら、視界の端々に、止まっていた時間がまた流れ出したのを確認する。しかしまだ、友達同士と一緒にいる一年生たちの目がこちらを向いていた。

 かすかにだが話し声も聞こえる。

 例えば、

「おい。今の見たか、あの女子」

「ああ。だがあと少しで見えたものを……惜しいな」

「いや待て。スカートの中の秘境よりも、足を畳む姿の方が希少でより美味しいと思うぞ」

「つーか外国人じゃね? しかも超可愛いじゃん!」

 そんな男子の声とか。

「外国の人って、なんか憧れるよね。大人って感じで」

「綺麗だねー。あの子も一年生なのかな? 同じクラスだといいなー」

「私、この学校に入ってよかった……これからはお姉様って呼び慕うことにする……」

「そんなことより私は今みたいに抱きついて抱きとめられてシャランラーって回ってみたい」

 そんな女子の声とか。

(どうしよう……目立つつもりなんて全然なかったんだけど、でも、ドミニクがいるってことは大抵一緒にいるってことだし……かといって一人にするのも心配だし…………って、あれ?)

 そういえば今日、ドミニクの姿を学校で見た覚えがない。

 こんなに目を惹くドミニクを見逃したとも思えないし……。

「そういえばドミニクって、何組? 入学式に来てた?」

 直人の問いに、ドミニクは首を横に振った。

「飛行機が遅れちゃってサ。ついさっきここに着いたノ。だからクラスとかわかんないヤ」

「あー、それならしょうがないね」

「それに、オクニガラの違イ? ってヤツがあるみたいでサ……。アタシ、日本で言う早生まれの人だから、色々とヤヤコシイとかナントカって言ってたヨ」

「オクニガラ――ああ、お国柄か。そういえばそうか。日本とフランスじゃ学年分けの体系が違うんだったね」

 ドミニクが引っ越したあと、少しばかり調べてみたことがあった。

 フランスでは初等教育が五年、中等教育が四年で、新学期の始めが九月になっている。

 ドミニクがややこしいと言ったのは、おそらくは学年分けの違いのことだろう。

 日本の場合は、四月二日から翌年の四月一日までに生まれた子供を一学年にまとめる。しかしフランスの場合、一月一日から十二月三十一日生まれまでの子供を一学年としている。

 この違いのため、早生まれの日本人がフランスの学校に転入すると、学年が一つ繰り下がってしまうという事態が起こり得るのだ。

 ドミニクの場合はこれが逆転する。

 学年が一つ繰り上がり、その上、新学期が半年近くも早まってしまうことになるのだ。

「ソウソウ。だからアタシ、飛び級しながら勉強してきたノ」

 日本の学生の立場にドミニクを置き換えると、おそらくはまだ中学二年生、その半ばということになる。一つ飛び級するだけでも難しいことなのに、さらにその勉強と併行して日本語の勉強もとなれば……日本人の母を持つとはいえ、並大抵の努力では叶わなかっただろう。

「飛び級か……。凄いや、本当に頑張ったんだね」

「うン! アタシ、頑張っタ!」

 眩しい笑顔で、ドミニクは喜びを表す。

 その苦労は「頑張った」の一言では表せないほどだというのに……まったく。人目もはばからずいきなり抱きついてきたのも、今ならば軽く許せてしまいそうだ。

「ヨシ! ツモル話もあるし、続きはアタシの部屋で話ソウ!」

 そう言ってドミニクは、楽しそうに直人の腕を引っ張った。

 さっき来た道を戻って女子棟へ連れて行こうとする……だが寮則では、互いの棟には原則として立ち入り禁止ということになっている。なんとしても止めなければ。

「え、えっと、ドミニク? 寮の規則は守ろうね?」

「ホラホラ! 遠慮しないでイラッシャイナ!」

 駄目だ、話を聞かない。許した途端にこれか。

 五年も経って体が成長したおかげか、ドミニクの力は格段に強くなっていた。直人もそれなりに抵抗はするものの、子供の頃と同じ尺度での手加減ではどうも止めきれそうにない。

 と、

「はいはい。血気旺盛けっきおうせい若人わこうどでも規則は守ろうねー?」

 そんな言葉と共に、横合いから何かの帳簿がドミニクの頭上に振り下ろされた。

「――オゥ! な、なニ……!?」

「受け取りのサイン、お願いします」

 割り込んできた救いの少女は、そう言いながらドミニクの顔の前にペンを差し出した。

 その姿をみとめて、直人は安堵あんどの溜息をつく。

 化粧っ気のない、さっぱりとした雰囲気を持つ少女だ。

 後頭部に結いまとめた艶のある黒髪、端正な顔立ち。背は直人よりも少し低め。直人と同じ青いジャージを着て、その上に黒いエプロンを身につけている。

 彼女の名前は月嶋つきしまりん

 直人やドミニクと同じ武道教室に通っていた元生徒で、現在は明仁高校の二年生。

 直人がスカウトされた弓道部の創設者であり、去年たった一人で弓道部を運営し、そして支え続けてきた功労者でもある。

「さ、サイン……?」

 頭をさすりながら、ドミニクは凜の差し出したペンを受け取った。

「そ。引っ越しの荷物が邪魔だから、さっさと片付けて欲しいの」

 受付前に積み重なった段ボール箱の山を指さし、凜はドミニクに帳簿を差し出す。

 凜はこの学生寮の女子棟をまとめる女子学生長でもあるため、こうして寮の運営を手伝うことがあるのだという。

 昨日が入寮日だった直人も、今のドミニクと同じ場面でそう聞かされた。

「ムぅ……」

 ドミニクは渋々といった様子でそう唸り、記帳していく。

 ……実はドミニクも五、六年前に凜とは会っているはずなのだが、この反応の薄さからして、すっかり忘れてしまったようだ。

 当時の凜は柔道や空手を学んでいたし、覚えていないのも無理はない。

(あ、ちょっと傷ついてる)

 一方で凜の方は覚えていたのか。

 ドミニクが完全に忘れているとわかって、少し落胆した様子だ。

 しかしすぐに表情を明るく切り替え、直人に向き直る。

「というわけで直人くん、昨日ぶり」

「お疲れ様です、凜さん――いえ、もう凜先輩ですね」

「あはは、遂に先輩呼びかー。なんだかむず痒いけど……もっと言って。去年ずっと一人だったから寂しかったのよ。あ、先輩呼びも良いけど、部長って呼んでくれてもいいわよ?」

「じゃあ……凜部長。お疲れ様です」

 そう聞いた凜は、嬉しそうに悶え始める。

 両手を震えるように握り締め、そしてまた開き、勢いよく直人の肩を何度も叩いた。

「くあー! 一人じゃないってこの感じ、この響き! もー、後輩ってヤツはいいわー!」

 喜んでくれているようで何よりだ。

 対して、ドミニクは面白くなさそうな表情で帳簿をペンで叩き突く。

「ヨシ、終わっタ! ナオト、手伝っテ! それから話ソ!」

 凜との会話を断ち切るように、そう言ってドミニクは帳簿とペンを凜へ突き返した。

 直人はドミニクに手を引かれ、段ボール箱の山へ。手渡されるがままに、ドミニクのものと思しき荷物――海外の引っ越し業者のロゴが入った段ボール箱を二つ、受け取った。

 ドミニクも箱を一つ抱え上げると、さっき来た道を小走りで戻っていく。

 取り残された直人と凜は、思わず顔を見合わせた。

「……まあいいや。しょうがないから、直人くんもそのまま手伝ってもらえる?」

「は、はい。女子棟への立ち入りを許可してもらえるのなら、いくらでも」

「許可します。あ、台車持ってくるから、ちょっと待っててね」



 ドミニクの荷物は、台車に積んで二往復で事足りた。

 直人はそのままの流れで荷ほどきも手伝う心づもりでいたが、そこはさすがに凜の制止がかかる。「許可したのは運搬だけよ」と、残念がるドミニクを置いて玄関ロビーへ戻ることに。

 そうしたら、今度は残りの入居者の荷物を運ぶ仕事が待っていた。

「ごめん。さっきの口実はこれのタメだったりするんだけど、いい?」

「乗りかかった船です。手伝いますよ」

 父母らの応対で手が離せない寮長夫妻に代わり、直人は凜と共に奔走ほんそうする。

 この日の入居者は、女子棟に四人。男子棟に八人。

 いずれも、入学式に合わせて地方から出てきた生徒たちだった。

 男子学生長が部活で不在のため、男子棟の方も引き受けることになってしまった。人数に比例して運ぶ回数も増える。さらに追加で届いた荷物も含めれば、玄関ロビーと各階層を二十往復はしただろうか。

 玄関ロビーの混雑は時間が経つにつれ解消されていき、荷物の運搬が終わる頃には、すっかり空は茜色に染まっていた。

「いやー、ご苦労様。直人くんには何かお礼しなきゃね」

 そう凜が言うので、

「じゃあ、道場の場所を教えてください。これから散策がてら確認してきます」

「そんなんでいいの? 明日か明後日には案内するのに」

「夕ご飯まで暇ですから」

「相変わらず欲のない子ね。いいわ、ちょっと待って」

 道場への簡単な地図を書いてもらい、直人は当初の予定通りにランニングへ出かけた。

 荷物運びをしたおかげで、体はすでに暖まっている。

 外の肌寒い空気を心地よく全身で受けながら、直人は地図の通りに商店街を通り過ぎ、まばらになってきた住宅群の中を走り抜けていく。

 弓道部を新設して間もない明仁高校には、まだ弓道場がない。

 そのため、今は郊外にある市営弓道場を借りて練習しているとのことだった。

(ここの道に入って、もうちょっと、かな?)

 車一台が通れるかどうかという小道に入ると、小さな公園が見えてきた。

 ブランコや滑り台といった遊具は風化が始まっており、まだ遊ぶことはできそうだが手入れが必要な状態だ。公園に人の姿はない。

 小道から公園を挟んだ向こうには、多くの田畑と、その間に点在する家々があった。田畑には農作業をする人たちの姿がちらほらと見えている。

 用水路を流れる水の音、田畑を吹き抜けるそよ風、草木と肥料のにおい。

 田舎を彷彿ほうふつとさせる、長閑のどかな田園風景そのものだった。

(……なんだか、お爺ちゃんの道場があった場所と空気が似てるや)

 そんな感傷に浸りながら小道を走っていくと、半世紀は経ていそうな一本の立派な木と、その木の下に立つ『市営弓道場』と書かれた錆びた看板が見えてきた。

 舗装された市道から敷地の砂利道に入り、そこでようやく直人は足を止める。

 大樹は根本近くから大きく二股に分かれた形状をしていた。花は一輪も咲いていないが、枝先に膨らんだ桃色のつぼみから察するに、桜。ソメイヨシノの木だろう。

 その根をさけるようにして立てられた看板の記載によると、この道場は今年で築二十八年目になるようだ。

 一見して平家のような建物だが、住居としての平家よりは二回りほど大きな造りになっている。二階建ての家より少し屋根が低いくらいだ。

 最近塗り直したのだろう、鋼材の屋根は黒々と、モルタルの壁は白く明るい。

 直人から見て桜の木と同じ右手側に玄関があり、玄関すぐ脇の壁には『市営弓道場』と達筆に書かれた木札が打ち付けられていた。

 窓は玄関すぐ隣の曇りガラスのものが一つと、地面から二メートルほどの高い位置に並んだ格子窓が四つ。そのため、直人が今いる位置からは中の様子はわからない。

 だが道場に灯りはついており、自転車や乗用車が複数台停まっているため、誰かが練習しているのは確かなようである。

(うん。いいところだ)

 直人が見た印象としては、特別古くはないが新しくもない……使いこなれてきた感が漂う、味のある稽古場けいこばだと思えた。ここなら問題なく練習に励めそうだ。

 祖父の武道場があった場所と雰囲気が近いのも好印象である。

(よし。位置の確認も済んだし、あとは寮に帰ろう)

 きびすを返し、直人は薄暗くなってきた夜道を帰る。

 ――――!

 と、弓道場の中から、微かに甲高い音が聞こえてきた。

 続けて、パン! という破裂音が道場の向こう側から響いてくる。

(……少し、覗いていこうかな……?)

 後ろ髪を引かれる思いで結局立ち止まり、しかし、せっかく練習している所へ邪魔をしてはいけないと諦め……ああでも、やっぱり気になる。

 直人がどうしようか迷っていると、

「お先に失礼しまーす」

 弓道場の玄関から少女が一人、道場の中の人たちにそう挨拶をして出てきた。

 少女は白い上着の上衣じょういと、黒いはかまの胴着姿をしていた。

 女の人とすぐにわかったのは、男女で穿はかまに外見上の違いがあるためだ。

 男性が穿はかまは背中側に腰板こしいたがあり、腰骨の部分に帯を締め、はかまを着付ける仕様になっている。対して女性が穿はかまは腰骨の上に帯を締めて着付けるため、胴長に見える男性と違って足長に見えるようになっているのだ。その違いを、直人は自然に見分けていた。

 と、直人の姿に気づいたのか、少女がこちらを見た。

 直人はその場で軽く頭を下げ、少女の元へと向かいながら自己紹介をしていく。

「こんばんは。今年から明仁高校の弓道部に入ることになった大神と言います」

 そこまで言って、直人も気づいた。

 少女は黒髪のショートヘアーに、丸っこい童顔。小柄な体をさらに小さくするように、半開きの口を両手で覆って直人の方を見ていた。

 この少女――和泉いずみ真矢まやとは面識がある。

「あれ、和泉さん?」

 直人が祖父の死後に通い始めた弓道教室、そこに通っていた子だ。

 中学生で弓道教室に通っている子はそうおらず、ましてや同い年ともなると片手で数えられる程であり、中学を卒業するまで通い続けたのは直人と真矢の二人だけだった。

 大会では同じチームで出たこともあり、一緒に学んだ時間は同世代の子の中で一番多い。

「こ、こんばんは。突然でビックリしました」

「僕も。和泉さんはどうしてここに?」

 けれど話すことといえば弓道に関することがほとんどで、互いにそれ以上の詮索をしなかったこともあり、他人行儀がまだ抜けきれないというか、それが普通になってしまっている。

「私も、月嶋先輩に誘われて明仁高校に……あれ、聞いてませんか?」

 それは初耳だった。

 しかし部員数で困窮こんきゅうしているのなら、他にスカウトされた人がいても不思議はない。途中で弓道教室をやめてしまった人たちの中にも、戦力として数えられる人がいるはずだ。

 直人はそれを踏まえ、他にスカウトされた人がいないかを聞いてみた。

 が、

「私と大神くん以外は空振りだったそうです。他の学校に進学希望だったり、他にやりたい部活があるって人もいました。それでも一応、男女とも一人ずつ経験者を揃えられたので、先輩としては満足みたいですね」

「そっか……。まあ、部活は人のきがあるから、しょうがないね」

「でもその分、私たちが頑張れば良いんですよ」

 そう言って真矢は胸元で両手を握り、ガッツポーズを取った。

「……それもそうだね。頑張ろう」

 それに促されるまま、直人も同じように握った両手を真矢の方へ近づける。

 互いの両拳を突き合わせ、グッと押し合い、拳を離す……これは直人が真矢とチームを組むようになってから始めた『気合入れ』の儀式、みたいなものだった。

 緊張が高まる試合の直前には、よくこうして互いの呼吸を合わせていた。

 今のは「数少ない経験者として、一緒に一年生を引っ張っていこう」という意味合いが込められていたように思うし、直人も同じ意味合いを込めて応じたつもりだ。

 そうしていつもの儀式を終えたところで、

「よし、と。じゃあ帰りましょうか」

 そう言って真矢は歩き始めた。

 彼女の歩調と合わせながら、直人も帰路につく。

「一年生、どれくらい入ってくれるかなー?」

 道すがら、真矢は楽しそうにそう口に出した。

 直人は「男女とも、五人は最低限欲しいところだね」と応じる。

「ですねー。チームが組めるくらいには欲しいですもんね」

「あ、そうだ。一応、一人は確実に入ってくれそうだよ」

「そうなんですか? 幸先いいですね。その人、大神くんの友達ですか?」

「まあ、幼馴染み、かな? 小さい頃に引っ越しちゃったんだけど、さっき寮でバッタリ再会したんだ。お爺ちゃんの武道教室にも通ってたから、下地は大丈夫だと思うよ」

「へー、大神範士せんせいに学んでたんですか。期待が持てそうですね」

「でも、今まで勉強ばっかりで鍛錬はできてないと思うから、どうなるかな……。たぶん和泉さんと凜先輩に任せっきりになると思うし、今からよろしく御願いしておきます」

 と、真矢の歩く速度がわずかに落ちた。

 直人は自然とそれに合わせる。

「……ということは、女の子なんですね?」

「うん。彼女はドミニクって名前なんだけど、お父さんの血が濃いせいか欧米人寄りの骨格なんだ。僕より背も高いし、二人だけだとちょっと指導が難しくなるかも」

「は、はあ……。まあ、それは何とかしますけど…………そっか、外国から届いてたあの荷物がドミニクさんのだったんですね。送り主の字があまりに達筆で読めなくて、今朝まで荷物の取り違えとか配送ミスだったりとか色々悩んでたんですけど――ああ、良かった」

 真矢は合点がいったように一人でそう納得し、安堵するように何度も頷いた。

「? ドミニクの荷物を、和泉さんが受け取ったってこと?」

 いまいち事情を掴めない直人は、真矢に尋ねて答えを求める。

「ええ。言ってませんでしたが、私の実家、あの学生寮なんですよ」

「そうだったんだ。じゃあ、あの寮長さんは和泉さんのお爺さん?」

「はい。親子三世代、住み込みで運営して何とか回してます――って、ああああああああ!!」

 急に立ち止まって大声を上げたかと思うと、真矢は上衣じょういふところから年季の入った折り畳み式の携帯電話を取り出し、慌てて現在時刻を確認した。

 画面に表示された時刻は十八時二十分……直人の記憶ではあと十分で夕食の時間だった。

「私、給仕の仕事があるんでした! 先に行ってます!」

 そう言って真矢は走り出した。

 なびくはかまに気を取られ、とても走りづらそうにしている。

(危なっかしいなぁ)

 大会の運営で裏方を走り回ることはたまにあったが、それは長くて十数秒、それも室内でのことだ。あの様子と速度では、あと四百メートルも走れば息が上がってしまうだろう。

 そもそもはかまは走ることを想定して作られていないのだ。

 真矢が転んではいけないと思い、直人はすぐにあとを追って、あっという間に追いつく。

(……とりあえず、いつでも助けられるようにしておこう)

 そうして寮に着くまでの十数分、併走しながら『時間には間に合わないな』と思いつつも、直人は真矢のことを見守り続けた。

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