12:

 最近、直人の無自覚っぷりが酷くなってきている。

 ドミニクこっちの気も知らないで、とやらかしてくれるのだ。

(今朝のもそうだけど、今も相当ヤバイよコレ……!)

 今は、放課後の部活時間。

 昼頃から降り出した雨により、ドミニクたち一年生は射場しゃじょうと廊下と巻藁まきわら部屋の三カ所に分かれ、指導を受けることとなった。

 ここ数日でゴム弓から素引すびきの練習に完全移行となっていたドミニクは、ゴム弓を貸し与えられた十数人と共に、巻藁まきわら部屋で射法八節の練習を始めていく。

 所狭しと並ぶ「ゴム弓組」とは違い、姿見すがたみの前に立つドミニクの周りには、少しだけ空きスペースが確保されていた。弓の取り回しをしやすくするための措置なのだが、周囲の者からはドミニクの姿がよく見えるということでもあるわけで……。

 そんな中で、只今絶賛、直人と密着中。

「よーし、このままあと十秒維持してみようか」

 物見ものみを向けたドミニクの右頬に、直人の左頬を通じて温もりと声の震えが伝わってくる。

 凜が一年生の指導の際によくやる「男子の妄想を実現してみた」ようなことを、直人が「ドミニクの願望を実現してみた」かのようにやっているのだ。

「じゅ、十秒モ……!?」

 この密着具合をより具体的に言うと、素引すびきでかいの体勢を支えてもらっているところだ。

 引分ひきわける左右の手を反対に、直人はドミニクのかいを真似るような体勢となっている。これは、万が一ドミニクが弓とつるを手放さないよう、必要最小限の力で抑えてくれているのだ。

 五年前にも、直人のお爺さまはこうやって教えてくれていた。

 ……当時の記憶では、互いの頬が接するほどの距離ではなかったはずだが。

「じゃあ、一――二――」

 直人が時間を数え始めた。

 ……酷くゆっくりに聞こえるのは気のせいだろうか。いや、今はそれよりも――次第に増していくこの胸の高鳴りが直人に伝わってしまわないか、ドミニクは気が気でない。

 しかも、チラチラと直人の方へ視線をやってしまうため、鏡に映る周囲の目にも気づいてしまうのである。みんな、自分の練習の手を止めてこちらを見ていた。

 近い内に自分たちも素引すびきの練習をすることになるから、どんなふうに指導されるのかを前もって知っておこうとしているのだろう。

 だから余計に、ドミニクは無様な姿を見せまいと躍起になっているのだ。

(みんな、自分の練習に集中しててヨ……!)

 自分自身が集中できているのかどうかを棚に上げ、ドミニクは心の中で叫ぶ。

「――三――四――」

 弓道には、終始無表情で事を為すという『モットー』がある。

 まとあたった・はずれた、所作しょさを間違えた・失敗したなど、その一瞬の一喜一憂を顔色で判断できてしまっては、まだまだ未熟ということを自ら証明してしまうことになるからだ。

 顔色の揺れは心の揺れ、ということである。

 つまりドミニクは今、このにかまけて表情をほころばせるわけにはいないのだ。

 普段から素直に感情をさらけ出すドミニクにとって、これは拷問にも等しい夢のような時間だった。……言葉は変だが、つまるところはそういうことだ。

 しかし幸いなことに、その溢れんばかりの情動は弓の負荷が容赦なく抑えてくれている。

 正直なところ、今は息が詰まって一杯一杯なのだ。胸の高鳴りは単に、呼吸を止めたせいで酸素が足りなくなってきているからである。

「――五――六――」

 うちは今にも形が崩れそうで痛いし。

 左肘は棒のように突っ張ってしまってもう機能していないし。

 おかげで弓の負荷が左肩に直接かかってきてしまい、物見ものみを向けた顎先に肩が当たってしまう始末。正しい射法八節しゃほうはっせつができているなら、顎先が左肩に当たるはずがない。

 完全に、弓に押し負けているということだ。

「――七――八――」

 一方、つるを掴んでいる右手。

 つるが指に食い込んで痛くならないよう、緩衝材としてハンカチを一緒に握っているのだが、結局はそれも気休め程度。親指以外の四本は血流がとどこおってきたせいで痺れを発症していた。

 右肘は指先の痛みを和らげようとしてか、かいの位置から大三だいさんの位置へと引き戻されようとしている。力を緩めているつもりなどないのに、だ。

「――ほら、頑張って――」

 直人が「九」を言わなかった。

 不意に、ドミニクの脳裏を「そんなまさか殺生せっしょうな」、「御無体ごむたいな」、「お許し下さい御代官おだいかん様」という命乞いのちごいの台詞がよぎっていく。

 ……我ながら、さすがの日本贔屓びいきである。

 そんな感心する余裕を持てたのは、直人のおかげだったと気づいたのはその一瞬あと。

 両腕から、弓の負荷がなくなっていた。

 正確には、直人が弓の負荷を肩代わりしてくれたおかげで、ドミニクが自身の両腕の重さだけを感じ取れるようになっていたからだった。

 うちは形を持ち直し、左肩は顎先を離れてあるべき位置へ。

 右肘はかいの位置まで下がり、麻痺していた指先に血流が巡っていく。

「――まずは息を吸って、吐く――」

 言われるがまま、ドミニクは一呼吸。

 息はまだ荒いながらも、活力は少し戻った。

「――よし。じゃあ、九ぅぅ――」

 両腕に弓の負荷がまたかかってきた。

 心なしか、さっきよりも負荷が強いと感じるのは疲労のせいだろうか。

「――ぅぅぅぅ――」

 直人が息を吐き続けながら「九」を引き延ばしていく。

 とっくに十秒は経っている。それでもまだ、まだまだと延ばしていく。

(……んぅぅ……!)

 しかしながら、ドミニクの両腕はもう限界だった。

 せっかく直したかいがまた同じように崩れていき、とうとううちが負けて――

「――十。よし、戻そうか」

 完全にかいが崩れてしまう直前になって、ようやく直人が合図を出す。

 ドミニクは一気に脱力して、大三だいさんの体勢へ戻そうとした――だが、その勢いは直人にすぐさま抑え込まれてしまう。

「キツイだろうけど、ゆっくりやろうね? これも鍛錬の内だよ」

 頬の接触が離れ、今度は直人の吐息がドミニクの右頬にかかってきた。

 こそばゆい感覚と、ちょっとだけ寂しい感情……とはいえ、そんな感傷にいつまでも浸っていられるほど余裕はない。

「お、オケ……!」

 引分ひきわけてきた軌道を戻るようにして大三だいさんへ。

 この時、弓の負荷はほとんど直人任せだった。だというのに、両腕やうちにかかる負荷の加減は逆再生でもされているかのように再現され、導かれていった。

 体がフワフワと浮いているかのような錯覚。だが、ちゃんと床には足が着いている……直人に体を抱え上げられているわけでもないのに、不思議とそんな感覚だった。

 そうしてドミニクが打起うちおこしの体勢にまで戻ると、ようやく直人は弓とつるから手を離した。

「――うん。今のところ、十二キロくらいで限界みたいだね」

 ここでいう『キロ』というのは、弓の強さのことだ。

 キロ、というと弓本体の重量を指すキログラムと誤解されやすい。しかし弓道で用いる場合は、その弓をかいまで引分ひきわけるために『どれくらいの加重が必要か』を示している。

 習い始めの初心者が引ける弓の強さは、男女差や体格差もあるが、高校一年生であれば十キロ前後が妥当とされている。もちろん、最低限以上の鍛練を積んでいることが絶対条件だ。

 しかし過去の経験値があるドミニクは、この限りではなかった。

 この二週間でだいぶ感覚を取り戻してきていると直人が判断したため、今回、試しに十キロを超える負荷を経験してみることになったのだ。

 とはいえ、弓道部で買い揃えていた七杖じょうの弓はすべて十キロ。今回ドミニクが引いていた弓は、直人が『堅実に』事を為したい時に使う弓を貸してもらっていた。

「やっぱり、まだ弱い弓で慣らしていこうか」

「ムゥ……。もうちょっと強くても大丈夫だと思ったのニ……残念」

 ドミニクは脱力して胸元に弓を抱えつつ、そう言って大きく息を吐く。

 抱えている弓――それは、木材にガラス繊維グラスファイバー炭素カーボン素材を組み合わせた、おそらくは日本中どこの弓道部にもある一般的な和弓だ。

 竹弓のような曲線を描きながらも、その印象は優美よりも――美術的に洗練されてきた竹弓と比べると、ではあるが――無骨ぶこつといった方が当てはまるだろう。繊細な扱いが要求される竹弓と違って、温度や湿度などの環境的な影響をほとんど受けない作りになっている。

 不慣れな初心者の手荒い扱いにも耐えられる「頑丈な弓」と言えるだろう。

 直人が所有する竹弓以外、弓道部にある弓はすべてこのタイプのものだった。

「無理して強い弓を引いても、今は体を痛めるだけだよ。じっくりいこう」

「じっくり、かァ……」

 ちなみに、五年前のドミニクが練習で使っていた弓は七キロである。

 手足が今よりも短かったことを考慮すると、負荷としては五、六キロぐらいになるだろうか。それでも、当時の倍以上の負荷に耐えられるようになっていたとわかり、ドミニクは確かな成長を実感せずにはいられない。

 ここで気がはやらず、大人しく引き下がれたのはそのおかげだった。

「ウィ、それもそうだネ。じゃ、返すヨ」

 素引すびきで使っていた弓を直人に返し、ドミニクは袖口で額の汗を拭う。

 今の素引すびきで一気に疲労が溜まった両腕をだらりと下げ、深呼吸を一度。両肩だけを軽く回してストレッチをしてやり、筋肉をほぐす。

「それにしてもサ……ナオト、どうやったら今のわかるノ?」

「え? 今のって、弓の負荷のこと?」

 小休止がてら、ドミニクは今の一部始終について聞いてみた。

「ソウソウ。だってその弓、十八キロの強い弓なんでショ? アタシの手伝いもしてて、しかも左右の手も違うから、感触だって全然別物のはずなのに……ナンデ?」

 言葉にしてみて、改めて思う。

 利き手を逆にするという時点ですでに大変なことだが、初心者ではとても引けそうにない強さの弓を危なげなく引き、その上で、ドミニクが耐えられる十二キロ相当の負荷を分け与える。

 それがどれだけ難しいことか。

 利き手を矯正するだけの話ではない。腕から背中や足腰にいたるまで、全身の筋肉の使い方を鏡合わせをするようにして、射法八節しゃほうはっせつに当てはめていく必要がある。

 それがこうして実践できるようになるまで、一体、どれだけの修練を重ねてきたのか。

「うーん……わかるようになるまでやってみたから、って答えじゃ駄目かな?」

 それを直人は、こう言う以外に答えようがない、と困り顔を浮かべた。

「ワォ……」

 この返答は、直人らしいといえば直人らしいものだった。

 きっと、普段通りに弓を引くのと同じくらいに、今のように利き手を逆にして、何千、何万回と素引すびきをしてきたに違いない。

 五年前に別れた頃はやっていなかったと記憶しているから、修練を積んだのは再会するまでのこの五年間のはずだ。それを半分に割っても二年半――高校三年生が最後のインターハイに臨むくらいであると考えれば……うん、ギリギリ納得がいくというものである。

 周囲の部員たちが、口々に驚嘆の声を上げていく。

「うそぉ……?」

「どんだけだよ」

「ウチの賢者様、マジ半端ねぇな」

「さらりと言ってのけたのも、いっそ清々しいわ」

 そんな声が直人の耳にまったく入っていなかったのは、律儀にドミニクへの別回答を考えてくれていたからだった。

「遅かれ早かれ、初心者を指導することになるとは思ってたしね。同じ材質の弓で体験してみないと引き心地もわからないと思って、この弓も買ったんだし」

 聞けば、竹弓の感触に慣れてばかりでは一年生たちを正しく指導できないと思い、スカウトの声がかかってすぐにこの弓を購入し、ずっと使い慣らしてきたのだそうだ。

「だから、こうなるべくしてなったんだよ、きっと。僕はそう思う」

 先を見越した上での修練を重ね、そうして、その通りになった。

 弓の負荷を加減する技能は、その過程で自然と身につけたものであり、特別なことでもなんでもない。直人にとってはそれが自然で、普通のことなのだ。

 直人が言いたいのは、つまりはそういうことらしい。

 そしてそれは、いずれドミニクたちにも備わってくる技能であり、その時を迎えるためには習得しておかなければならない技能だということだ。

 来年の、入部するであろう新一年生たちのために。

 それが『先輩』としての心構えの一つなのだと、そう感じさせられた。

「そっカ。さすが、ナオトだネ」

 それを自然体のままで体現しているというところが、実に直人らしい。

 実直じっちょくで、素直に、そして真っ直ぐな熱意を宿す人に育って欲しい……直人の名付け親であるお爺さまが、昔そう言っていたのをドミニクは思い出した。

「さすが、って言われるほどじゃないけどね。まだまだ学ばなきゃならないことで一杯だよ」

「そういうところが、ナオトらしいってコトだヨ。フフ」

 謙遜する直人の顔の前で、ドミニクは蜻蛉トンボを捕まえるみたいに人差し指を回して見せた。その指先が目で追われ始めたのを見計らい、ちょん、と鼻先に触れてやる。

 からかわれたと察したのか、直人は小さく肩をすくめた。

「サ。練習練習」

 そう言って休憩を切り上げ、ドミニクは本来使うべき十キロの弓を取りに弓立ゆみたてへ。

 直人も気を取り直し、他の人の指導に回る。

「じゃあ、次は新牧さん」

 ピクッと、ドミニクの勘が直人の声に反応した。

 一瞬、女の勘かとも思ったが、すぐに相手が男子だったことに気づいて鳴りは潜まった。そもそもこの巻藁まきわら部屋には今、ドミニクの他に女子はいない。

 この勘はきっと、ちょっと心配な事に気づいた時のそれだ。

「おう、ごちそうさん」

「え?」

「――間違えた。待ちくたびれたぜ」

 その声を聞き流しながら、ドミニクは弓を持ってまた姿見すがたみの前に立つ。

 ゴム弓を引く大悟と、大悟の射法八節しゃほうはっせつを整えていく直人の姿を鏡に捉えながら、その経過をしばし観察しておく。

「ちょ、ちょ――大神さん、近ぇ。怖ぇ。はなれできねぇって……!」

「あ、ゴメン。そっか、僕が近くにいたら邪魔だよね」

 ゴム弓の負荷に耐える大悟を、直人はドミニクにもしてくれたように、左右の手を逆にして介助をしていた。当然、互いの顔は至近距離にまで近づいている。

 だがドミニクと同じようなことになる前に、大悟が戸惑いの声を上げてそれを阻止。おかげで直人は大悟から一歩下がり、ハタから見ても程良い指導の距離感に落ち着いた。

(フゥ……ナオトらしいってことも、ちょっと考え物かナ?)

 弓道での指導は、指導される人の手や肩、背中や腰など、体に直接触れて矯正することが多い。特に、まだ射法八節しゃほうはっせつが馴染んでいない初心者の場合は、必然的にその接触が多くなる。

 それを幼少の頃から知っていたドミニクは、それを不快に思ったことはない。

 上達するためには必要なことだし、弓矢という『武器』を扱うその危険性から、監督者や責任者がすぐ近くで安全に配慮するのは至極当然のことである。

 ドミニクとしては、直人が接近してくれるのならいつでも「バッチコイ!」ではあるが。

 ……ともあれ。

 他の人――特に女子にも同じように指導しては、直人のことをセクハラ指導者と誤解されかねない。接触の多さを『指導』と割り切れるか、それとも『セクハラ』と捉えてしまうかは、その人がどれだけその指導者を信頼しているかで左右されてしまうのである。

 みんながみんな、ドミニクのように「バッチコイ!」となるわけではない。

 このことは、あとでしっかりと直人に注意しておこう。

 凜が男子にやる指導とは、まるでワケが違うのだということを念押しして。

(……でもホント、今のが女の子じゃなくて良かったワ)

 あのが自分だけのモノになったと、ドミニクは密かに歓喜する。

 そして今一度その感触を思い出そうと、再び構えた弓を打起うちおこすのであった。

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