12:
最近、直人の無自覚っぷりが酷くなってきている。
(今朝の頭ポンポンもそうだけど、今も相当ヤバイよコレ……!)
今は、放課後の部活時間。
昼頃から降り出した雨により、ドミニクたち一年生は
ここ数日でゴム弓から
所狭しと並ぶ「ゴム弓組」とは違い、
そんな中で、只今絶賛、直人と密着中。
「よーし、このままあと十秒維持してみようか」
凜が一年生の指導の際によくやる「男子の妄想を実現してみた」ようなことを、直人が「ドミニクの願望を実現してみた」かのようにやっているのだ。
「じゅ、十秒モ……!?」
この密着具合をより具体的に言うと、
五年前にも、直人のお爺さまはこうやって教えてくれていた。
……当時の記憶では、互いの頬が接するほどの距離ではなかったはずだが。
「じゃあ、一――二――」
直人が時間を数え始めた。
……酷くゆっくりに聞こえるのは気のせいだろうか。いや、今はそれよりも――次第に増していくこの胸の高鳴りが直人に伝わってしまわないか、ドミニクは気が気でない。
しかも、チラチラと直人の方へ視線をやってしまうため、鏡に映る周囲の目にも気づいてしまうのである。みんな、自分の練習の手を止めてこちらを見ていた。
近い内に自分たちも
だから余計に、ドミニクは無様な姿を見せまいと躍起になっているのだ。
(みんな、自分の練習に集中しててヨ……!)
自分自身が集中できているのかどうかを棚に上げ、ドミニクは心の中で叫ぶ。
「――三――四――」
弓道には、終始無表情で事を為すという『モットー』がある。
顔色の揺れは心の揺れ、ということである。
つまりドミニクは今、このトキメキにかまけて表情を
普段から素直に感情をさらけ出すドミニクにとって、これは拷問にも等しい夢のような時間だった。……言葉は変だが、つまるところはそういうことだ。
しかし幸いなことに、その溢れんばかりの情動は弓の負荷が容赦なく抑えてくれている。
正直なところ、今は息が詰まって一杯一杯なのだ。胸の高鳴りは単に、呼吸を止めたせいで酸素が足りなくなってきているからである。
「――五――六――」
左肘は棒のように突っ張ってしまってもう機能していないし。
おかげで弓の負荷が左肩に直接かかってきてしまい、
完全に、弓に押し負けているということだ。
「――七――八――」
一方、
右肘は指先の痛みを和らげようとしてか、
「――ほら、頑張って――」
直人が「九」を言わなかった。
不意に、ドミニクの脳裏を「そんなまさか
……我ながら、さすがの日本
そんな感心する余裕を持てたのは、直人のおかげだったと気づいたのはその一瞬あと。
両腕から、弓の負荷がなくなっていた。
正確には、直人が弓の負荷を肩代わりしてくれたおかげで、ドミニクが自身の両腕の重さだけを感じ取れるようになっていたからだった。
右肘は
「――まずは息を吸って、吐く――」
言われるがまま、ドミニクは一呼吸。
息はまだ荒いながらも、活力は少し戻った。
「――よし。じゃあ、九ぅぅ――」
両腕に弓の負荷がまたかかってきた。
心なしか、さっきよりも負荷が強いと感じるのは疲労のせいだろうか。
「――ぅぅぅぅ――」
直人が息を吐き続けながら「九」を引き延ばしていく。
とっくに十秒は経っている。それでもまだ、まだまだと延ばしていく。
(……んぅぅ……!)
しかしながら、ドミニクの両腕はもう限界だった。
せっかく直した
「――十。よし、戻そうか」
完全に
ドミニクは一気に脱力して、
「キツイだろうけど、ゆっくりやろうね? これも鍛錬の内だよ」
頬の接触が離れ、今度は直人の吐息がドミニクの右頬にかかってきた。
こそばゆい感覚と、ちょっとだけ寂しい感情……とはいえ、そんな感傷にいつまでも浸っていられるほど余裕はない。
「お、オケ……!」
この時、弓の負荷はほとんど直人任せだった。だというのに、両腕や
体がフワフワと浮いているかのような錯覚。だが、ちゃんと床には足が着いている……直人に体を抱え上げられているわけでもないのに、不思議とそんな感覚だった。
そうしてドミニクが
「――うん。今のところ、十二キロくらいで限界みたいだね」
ここでいう『キロ』というのは、弓の強さのことだ。
キロ、というと弓本体の重量を指す
習い始めの初心者が引ける弓の強さは、男女差や体格差もあるが、高校一年生であれば十キロ前後が妥当とされている。もちろん、最低限以上の鍛練を積んでいることが絶対条件だ。
しかし過去の経験値があるドミニクは、この限りではなかった。
この二週間でだいぶ感覚を取り戻してきていると直人が判断したため、今回、試しに十キロを超える負荷を経験してみることになったのだ。
とはいえ、弓道部で買い揃えていた
「やっぱり、まだ弱い弓で慣らしていこうか」
「ムゥ……。もうちょっと強くても大丈夫だと思ったのニ……残念」
ドミニクは脱力して胸元に弓を抱えつつ、そう言って大きく息を吐く。
抱えている弓――それは、木材に
竹弓のような曲線を描きながらも、その印象は優美よりも――美術的に洗練されてきた竹弓と比べると、ではあるが――
不慣れな初心者の手荒い扱いにも耐えられる「頑丈な弓」と言えるだろう。
直人が所有する竹弓以外、弓道部にある弓はすべてこのタイプのものだった。
「無理して強い弓を引いても、今は体を痛めるだけだよ。じっくりいこう」
「じっくり、かァ……」
ちなみに、五年前のドミニクが練習で使っていた弓は七キロである。
手足が今よりも短かったことを考慮すると、負荷としては五、六キロぐらいになるだろうか。それでも、当時の倍以上の負荷に耐えられるようになっていたとわかり、ドミニクは確かな成長を実感せずにはいられない。
ここで気がはやらず、大人しく引き下がれたのはそのおかげだった。
「ウィ、それもそうだネ。じゃ、返すヨ」
今の
「それにしてもサ……ナオト、どうやったら今のわかるノ?」
「え? 今のって、弓の負荷のこと?」
小休止がてら、ドミニクは今の一部始終について聞いてみた。
「ソウソウ。だってその弓、十八キロの強い弓なんでショ? アタシの手伝いもしてて、しかも左右の手も違うから、感触だって全然別物のはずなのに……ナンデ?」
言葉にしてみて、改めて思う。
利き手を逆にするという時点ですでに大変なことだが、初心者ではとても引けそうにない強さの弓を危なげなく引き、その上で、ドミニクが耐えられる十二キロ相当の負荷を分け与える。
それがどれだけ難しいことか。
利き手を矯正するだけの話ではない。腕から背中や足腰にいたるまで、全身の筋肉の使い方を鏡合わせをするようにして、
それがこうして実践できるようになるまで、一体、どれだけの修練を重ねてきたのか。
「うーん……わかるようになるまでやってみたから、って答えじゃ駄目かな?」
それを直人は、こう言う以外に答えようがない、と困り顔を浮かべた。
「ワォ……」
この返答は、直人らしいといえば直人らしいものだった。
きっと、普段通りに弓を引くのと同じくらいに、今のように利き手を逆にして、何千、何万回と
五年前に別れた頃はやっていなかったと記憶しているから、修練を積んだのは再会するまでのこの五年間のはずだ。それを半分に割っても二年半――高校三年生が最後のインターハイに臨むくらいであると考えれば……うん、ギリギリ納得がいくというものである。
周囲の部員たちが、口々に驚嘆の声を上げていく。
「うそぉ……?」
「どんだけだよ」
「ウチの賢者様、マジ半端ねぇな」
「さらりと言ってのけたのも、いっそ清々しいわ」
そんな声が直人の耳にまったく入っていなかったのは、律儀にドミニクへの別回答を考えてくれていたからだった。
「遅かれ早かれ、初心者を指導することになるとは思ってたしね。同じ材質の弓で体験してみないと引き心地もわからないと思って、この弓も買ったんだし」
聞けば、竹弓の感触に慣れてばかりでは一年生たちを正しく指導できないと思い、スカウトの声がかかってすぐにこの弓を購入し、ずっと使い慣らしてきたのだそうだ。
「だから、こうなるべくしてなったんだよ、きっと。僕はそう思う」
先を見越した上での修練を重ね、そうして、その通りになった。
弓の負荷を加減する技能は、その過程で自然と身につけたものであり、特別なことでもなんでもない。直人にとってはそれが自然で、普通のことなのだ。
直人が言いたいのは、つまりはそういうことらしい。
そしてそれは、いずれドミニクたちにも備わってくる技能であり、その時を迎えるためには習得しておかなければならない技能だということだ。
来年の、入部するであろう新一年生たちのために。
それが『先輩』としての心構えの一つなのだと、そう感じさせられた。
「そっカ。さすが、ナオトだネ」
それを自然体のままで体現しているというところが、実に直人らしい。
「さすが、って言われるほどじゃないけどね。まだまだ学ばなきゃならないことで一杯だよ」
「そういうところが、ナオトらしいってコトだヨ。フフ」
謙遜する直人の顔の前で、ドミニクは
からかわれたと察したのか、直人は小さく肩をすくめた。
「サ。練習練習」
そう言って休憩を切り上げ、ドミニクは本来使うべき十キロの弓を取りに
直人も気を取り直し、他の人の指導に回る。
「じゃあ、次は新牧さん」
ピクッと、ドミニクの勘が直人の声に反応した。
一瞬、女の勘かとも思ったが、すぐに相手が男子だったことに気づいて鳴りは潜まった。そもそもこの
この勘はきっと、ちょっと心配な事に気づいた時のそれだ。
「おう、ごちそうさん」
「え?」
「――間違えた。待ちくたびれたぜ」
その声を聞き流しながら、ドミニクは弓を持ってまた
ゴム弓を引く大悟と、大悟の
「ちょ、ちょ――大神さん、近ぇ。怖ぇ。
「あ、ゴメン。そっか、僕が近くにいたら邪魔だよね」
ゴム弓の負荷に耐える大悟を、直人はドミニクにもしてくれたように、左右の手を逆にして介助をしていた。当然、互いの顔は至近距離にまで近づいている。
だがドミニクと同じようなことになる前に、大悟が戸惑いの声を上げてそれを阻止。おかげで直人は大悟から一歩下がり、ハタから見ても程良い指導の距離感に落ち着いた。
(フゥ……ナオトらしいってことも、ちょっと考え物かナ?)
弓道での指導は、指導される人の手や肩、背中や腰など、体に直接触れて矯正することが多い。特に、まだ
それを幼少の頃から知っていたドミニクは、それを不快に思ったことはない。
上達するためには必要なことだし、弓矢という『武器』を扱うその危険性から、監督者や責任者がすぐ近くで安全に配慮するのは至極当然のことである。
ドミニクとしては、直人が接近してくれるのならいつでも「バッチコイ!」ではあるが。
……ともあれ。
他の人――特に女子にも同じように指導しては、直人のことをセクハラ指導者と誤解されかねない。接触の多さを『指導』と割り切れるか、それとも『セクハラ』と捉えてしまうかは、その人がどれだけその指導者を信頼しているかで左右されてしまうのである。
みんながみんな、ドミニクのように「バッチコイ!」となるわけではない。
このことは、あとでしっかりと直人に注意しておこう。
凜が男子にやる指導とは、まるでワケが違うのだということを念押しして。
(……でもホント、今のが女の子じゃなくて良かったワ)
あのトキメキが自分だけのモノになったと、ドミニクは密かに歓喜する。
そして今一度その感触を思い出そうと、再び構えた弓を
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