10:

 十分もかからずに直人は学校に到着した。

 誰もいない生徒玄関で内履きに履き替え、体育館へ直行する。

(さて、今日も一番乗りかな?)

 弓道部の朝練は、早朝の誰もいない体育館を使って行われている。

 その内容は、徒手としゅによる射法八節しゃほうはっせつの反復練習と、ゴム弓への昇格試験及びゴム弓の練習。そして、執弓とりゆみ姿勢しせいを維持したままでの立ち方、すわり方、歩き方といった基本動作の確認だ。

 特に、歩き方の練習には重点を置いている。

 これまでも何度か市営弓道場の射場しゃじょうで練習はしてみたのだが、班を分けても元の部員数が多いため、射場しゃじょうでは少々手狭だったのである。

 その点、広々と使える体育館ならば一斉にやっても問題ない。

 それに、体育館の床に引かれたバスケットボールやバレーボールのコートラインも便利だ。歩く距離を決めるのにも使えるし、部員たちの目からはまっすぐ歩く指標にもなる。

 その指標が確かな分、歩く際の体の歪みや姿勢の乱れは初心者でも見つけやすい。そうして初心者同士で指摘し合っていくと、たまにだが見えてくるものがあるのだ。

 その者の『良いところ』が。

「おはようございます――っと」

 締め切られていた体育館のドアを開けると、すでに女子生徒が一人来ていた。

 眼前を横切ろうとしていた彼女とぶつからないよう、そして足先を踏まぬよう、直人は体育館へ踏み入れようとしていた左足を引っ込める。

「――あ、おはようございます」

 彼女は直人の姿を認めてすぐ、歩みを止めた。

 執弓とりゆみ姿勢しせい、内履きを脱いで白い靴下となった状態……どうやら歩き方の練習をしていたようである。彼女が指標に定めて歩いていたのは、赤いコートラインだ。

(……なるほど)

 踏み出していた彼女の右足先が、コートライン上から逸れていない。

 ……得てして人は、集中した状態下で周囲から思わぬ干渉を受けると、それまでやっていたことが突然制御できなくなってしまう。今のような場合だと、視線が動いた方へ足が逸れてしまうか、足を止めた際に体勢を少し崩してしまうものだ。

 だが彼女の歩みは少しも逸れず、体勢にも変化はなかった。

 良い意味で感覚が鈍いのか、それとも運動神経が優れているからなのか……どちらにせよ、今の一瞬で見た限りでは、彼女の身体機能にこれといった歪みはないように思える。

 たとえ歪みがあったのだとしても、それを直人にわからせないほど微調整が上手い。

 つまり彼女は、脳と体の統制を取ることに長けている。

 彼女の持つ『良いところ』はそれだと、直人はこの一瞬で思い至った。

「ビックリさせないで下さいよ、大神さん」

 言葉の内容は驚いたことを示しているが、その声色は平坦そのもの。

 彼女――崎守さきもりともえはそんなふうに言うと、執弓とりゆみ姿勢しせいをやめて直人に向き直った。

 くりっとした目に、知的な銀縁眼鏡。両耳を覆い隠すボブカットの黒髪が、小顔な輪郭をさらにまろやかに見せている。身長は直人の肩ほどか。体つきはやや細身ながらも、健康的なふくよかさ――出るところは出て、引っ込むところは引っ込んでいる。

 幼いその外見には似つかわない、落ち着いた雰囲気を有する少女だった。

「ゴメンね。僕より早く来てる人がいるとは思わなくてさ」

「だって私の家、学校の隣ですし。歩いて十秒もかかりませんよ」

 学校の隣ということは、校門脇にある一軒家がそうだろうか。

 たしかに、あそこからなら始業ベルが鳴ってから家を出ても間に合いそうである。

「へえ、そうだったんだ。なら納得だね」

「今日みたいに放課後に用事がなきゃ、もっとゆっくり登校したんですけどね……」

 うんざり、といった様子で巴は「はぁ」と溜息をついた。

「それと関連するんですが……明後日の大会、出場しない私が行っても良いものですか?」

 明後日の二十九日は祝日ということで、学校は休みだ。

 加えて、直人と凜、真矢の三人が大会で不在。さすがに飛鳥一人でドミニクたち七十人弱を一度に指導するのは厳しいため、先週末にその日は部活も休みということになっていた。

「……何かあった?」

 巴のその質問を聞いた時、直人は「おや?」と思った。

 巴は一日に一回は必ず、直人たち経験者に質問をしてくる。そしてその質問は大抵、他の人たちにも通じるような――そう、良い質問なのだ。

 先週の腹式呼吸のコツに始まり、凜には立ちすわりでの腰の据え方を。似た背格好の真矢には、足踏あしぶみの際の重心の置き方を事細かに聞いて困らせていた。

 その意欲的な姿勢は、ドミニクを除けば初心者の中で一番だろう。

 ……なのにその質問の毛色が、いつもとまるで違うのである。

「ちょっと、行きたくない家の用事がありまして……」

 そう切り出した巴の瞳の奥に、直人は「逃げたい」という感情を垣間見た。

 聞けば、その日は親戚一同が集まってのお花見会――宴会があるということだった。巴の家は毎年料理の担当で、今日の用事はそれの買い出しだという。

 花見の当日は部活を理由に参加しないつもりだったが、休みになってしまったためにその理由が使えなくなり、急遽きゅうきょ、他の口実を探していたとのことだった。

「酔っぱらいの機嫌取りは、もうしたくありません」

 キッパリと、巴はそう言い切った。

 行っても良いかと聞いた割りには、すでに行く気は満々のようである。

「そっか。なら来なよ。大会の空気を感じる良い機会だし」

「本当ですか!? やった!」

 跳びはしゃぐ巴。外見相応の笑顔を浮かべ、ガッツポーズまでしている。

 ……そんなにその宴会がイヤだったのか。

「試合なら、何か雑用とかってありますよね? 私、何でもやりますよ」

 どうやら、大義名分たいぎめいぶんとして何か役目が欲しいらしい。

 まあ確かに。ただ「大会を見に行く」と言うよりは「役割が当たっている」と言った方が断りやすいだろう。

「じゃあ、崎守さんには記録をお願いしようかな」

「記録、ですか? 『○』『×』をつけるくらいなら、たぶんやれます。大丈夫です」

 そこでふと、直人は思い直す。

「あ、でも一人じゃ大変か。さすがに一日がかりだし、交代する人が欲しいな……。ドミニクも来るとは思うけど、記録に慣れてないから難しそうだし…………よし。他の人たちにも記録に慣れて欲しいから、あとで何人か人手を募ってみよう――」

「――そういうことなら、俺も行っていいか?」

 と、背後から声が。

 振り返ると、そこには男子生徒――新牧あらまき大悟だいごの姿があった。

 野球部かと見間違わんばかりの丸刈りに、一冬を越えてなお活動的な茶褐色を宿す肌。左肩には『市立第五中学校野球部』の金文字が刺繍された、黒いスポーツバッグを提げている。

 大悟はその風貌の通りに、元・球児だった。

 ガッシリとした体躯は直人の二回りは大きく、おそらくは弓道部で一番の上背うわぜいであろう。

『ドミニクじょうの色香に誘われて弓道部に鞍替えした、数多あまたのスポーツ男子・そのD』とは、本人の言葉である。Dは大悟の頭文字らしい。

「ただ休んでると、親父に「野球部に戻れ!」ってどやされるしな」

「なら、お願いしようかな」

「よっしゃ!」

 スポーツバッグを勢いよく壁際へ放り投げ、大悟は肩を回す。

「それで? バランス良くいくなら、あと男子は一人くらいか?」

「うん、二人ずついれば充分かな。崎守さんは、ドミニクと一緒でいい?」

「ええ。構いません」

「あー、けど、お嬢が行くと知ったら男子は殺到するな……」

 大悟の言葉はもっともだった。

 巴も頷き、あとに言葉を続けていく。

「女子も女子で、一緒に行きたいって人は必ずいるよね」

「となると選抜するしかねぇけど……どうやって後腐れなく選ぶ?」

「問題は、先に私たちが内定してるってことよ」

「間違いなく不満は出るだろうな」

「どうしようか……?」

「どうしたもんかな……?」

 アレやコレやと首を捻る二人を見かね、直人はポンと手を打った。

「大丈夫。こういう時は、みんなで一斉に試験をやるのが一番だよ」

「え!? じゃ、じゃあ、私たちも選び直しですか!?」

「お、俺も!? そりゃないぜ、大神さん!」

「ま、まあまあ」

 焦る二人をなだめ、直人は自信を込めて二人に告げる。

「安心して。練習の成果は裏切らないから」

 しかしなぜか、ここで数秒の沈黙が流れる。

 ……あれ? 何も変なことは言っていないはずなんだけど……?

「いや、みんな練習量はほとんど一緒だろ? 大して変わらないと思うんだが……」

「そうですよ。ほとんどの人がドミニクちゃん目当てで来てるんだし、部活を休むなんてことするわけありません」

「……う、うん。まあ、そうなんだけどさ」

 むぅ。いまいち意図が伝わらなかったようだ。

 巴が言うように、昨日までで部活を休んだ者は一人もいない。

 直人はいつも部活の始めと終わりに人数を数えているから、それは確かだった。部活時間での練習量はみんな同じである。

 だが、朝練は別だ。

 朝練はすでに、部員の半数以上が一回は休んでいた。

 さらに言えば、この二人を含めた十人ほどはきちんと朝練に参加した上で、午後五時以降も部活を続けている。そしてもっと言うなら、朝練が始まる八時を目安に来る者が大半のため、この二人のように、朝早くから来て自主練に励むという者はほとんどいないのだ。

「二人は毎回、朝練に参加してるでしょ?」

「は、はい。私は家も近いし、参加しやすいので」

「部活も、途中で帰らずに最後までいるよね?」

「お、おう。五時で帰ったら夕飯作るの俺になっちまうからな」

 朝練の参加は強制ではない……だからそこで練習量に差がつく。

 朝練に参加すれば、午後五時で帰っても良い……だからそこで練習時間の差が開く。

 練習量の差は、日数に換算しても最大で二日分程度しかないだろう。

 けれど、確実に差は開いているのだ。

「そして今日も、朝早くから来た――」

 そこで直人は大げさに頷いて、

「――それなら、大丈夫。せっかく二人にお願いしておいて、勝算もない試験はやらないよ」

 安堵する二人に笑って見せた。

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