第三章 積み上げること、積み重ねること

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 直人が寮の部屋を移動して一週間。

 家具の配置が元の部屋とほぼ一緒だったおかげで、直人は何も問題なく日々を過ごしていた。

 朝五時に起床後、ジャージに着替えていつも通りにランニングへ。帰ったその足で、そのまま朝食を取りに食堂へと向かう。

 早朝すぐの時間帯だと、食堂はまだ閑散としていた。今日も一番乗りのようである。

 席はより取り見取りだが、出入り口から一番近いところへ。部活紹介の打ち合わせをして以来、この場所が直人たち弓道部幹部の定位置となっていた。

 直人がいつも座るのは、壁際の列の二番目。

 ご飯とみそ汁、焼きじゃけに大根の漬け物をトレイに乗せ、席についた。

「いただきます」

 両手を合わせ、直人は黙々と食べ進めていく。

 ご飯のおかわりを盛りに立った頃になると、ようやく一人、また一人、時間を示し合わせた友人同士など、徐々に人が増え始めてきた。

 そんな人の流れを横目に眺めていると、寝起きのドミニクがのそのそとやってきた。

 ボサボサの髪。開いているのかわからないまぶた。よれて乱れた服装。意識がまだハッキリとはしていない状態だったので、直人はドミニクの定位置である、自分の隣の椅子を引いた。

 自然とそこへ腰を落ち着けると、直人の肩に頭を預けてくる。

「まだ眠そうだね。もうちょっと時間おく?」

「ぬゥ……ぃいま食べるノぉ……」

 ドミニクはゆらりと自力で体を起こし、鼻声で「むゥ」とか「んゥ」とか唸りながら椅子に座り直した。受け答えができたので、とりあえずは大丈夫そうだ。

「じゃ、深呼吸して待ってて」

「うィ……」

 食事台帳の記帳をまた忘れているドミニクに代わって、直人は書きに立った。

 書きに行くすれ違いざまに、肩紐がずり落ちそうなキャミソールを直してやる。

 書いて戻ってきた時には、耳元に息を吹きかけて目を覚まさせてやり、猫背な姿勢を一瞬でも正しくさせてみた。

「――オゥ!?」

 ビクリと身悶みもだえをし、ドミニクは目を見開く。

「おはよう、ドミニク」

 そう声をかけながら、直人は持ってきた空の食事トレイをドミニクの前に置いた。

「ぼ、ボンジュール、ナオト。……あー、ビックリしタ」

「さ。起きたなら朝ご飯だよ。取りに行って」

「ハーイ」

 学生寮の朝食は、ご飯食かパン食かを選べるようになっている。

 朝食は必ずご飯だと決めている直人と違って、ドミニクはその日の気分でころころと変えていた。あとの配膳はドミニクに任せ、直人は食事を続けながら様子を眺めておく。

 今朝はパン食のようだった。

 席を立ったドミニクは、業務用保温ジャーの隣にある、食パンやクロワッサンなどが並べられた金属トレイの元へ。二枚の食パンをトングで皿に取り、またテーブルへ戻って来た。

 朝食の時間帯にだけ、各テーブルにはオーブントースターが一台ずつ用意されている。それにドミニクは食パンを二枚セットして、次は日替わりスープを盛りに行った。

 ……やり忘れていたトースターのダイヤルを、直人が代わりに回しておく。

 今日の日替わりスープは、ベーコンと玉ねぎのスープだったはずだ。

 それを盛ってきたであろう器を、ドミニクはそろりそろりと運んで来る。

 静かにトレイへ置かれた器には、スープが縁一杯になみなみと満たされていた。置いた左手の指先を五本とも舐めたことから、入れすぎた上にこぼしたのだとわかる。

「見ちゃダメ」

 と、直人の視線に気づいたのか、ドミニクは両手で顔の前に壁を作った。

 チラリと指で隙間を空けて、じとっとした目で一覗き。しかしすぐに壁をどけて、はにかんだ笑みを見せた。

 そうして今度は、席のすぐそばにあるガラス扉の大型冷蔵庫を開ける。

 扉を背中で抑えつつ、アルミ箔で包まれた一口大の何か――バターだろうか――を一粒と、パックの野菜ジュースを一本、汚れていない右手で取り出す。

 お尻でトンと扉を閉めると、最後にドミニクはフロントカウンターへ足を向けた。給仕のおばさんからスプーンとナイフを受け取って、小走りでまた席へと戻ってくる。

 そしてすぐさま両手を合わせ、一言。

「いただきマス」

 そこで、チン! とトースターのベルが鳴った。

 蓋を開けてみれば、カリッとした焼き上がりにはまだ早い、うっすらと日焼けした程度の状態だった。しかしこの、パンの柔らかさと水分が残った半生はんなまの状態が、好みの食感だという。

「ワォ、焼き色もタイミングもバッチリだネ」

 直人はいつものようにダイヤルを「このくらいだろう」と回してみただけだったのだが、まさかタイミング良く焼き上がるとは思わなかった。

 我ながら、ちょっと嬉しい。

「あちっ、アチ、あっツ……!」

 熱々のトーストを、ドミニクはパンの耳を摘んで皿へと重ねた。

 バターの包装を手早く剥がし、皿を回しながらナイフで一面に塗り広げる。塗った面を下に向け、もう一枚と重ねてバターを挟むサンド

 両手で持ち直すと、すぐさま手前の耳の角を頬張った。

「ンフフ」

 ほっこりとした表情を浮かべ、ゆったりと味わっていく。

 そんなドミニクの様子になごみつつ、すでに朝食を終えていた直人は席を立った。

「ごちそうさま。じゃ、先に行くね」

「ウ、ウィ。アタシもすぐ行くからネ」

 慌ただしく食べだしたドミニクを置いて、直人は食べ終わったトレイをフロントカウンターへ返却した。

 そこへ、凜と真矢が揃って食堂へやってくる。

「お。直人くん、おはよう」

「おはよう、大神くん」

「おはようございます。今日も先に行ってますね」

 入れ違った二人と短く挨拶を交わし、直人は食堂を出てゲストルームに戻った。

 現在時刻は七時十五分。

 学校の始業まではまだ一時間以上も余裕があり、徒歩十分という道のりを考えれば、登校するには早すぎる時間ではある。

 しかし先週の半ばから、弓道部では朝練が始まっていた。

 現在の弓道部の活動時間は、平日で午後三時半過ぎから六時頃まで。その内、凜たち経験者の練習時間はおよそ三十分しか取れていなかったため、大会が近いことから、一年生の練習時間を朝練という形で代替しようということになったのだ。

 当初は希望者だけでやる予定だったが、予想以上に朝練には人が集まっていた。

 朝練に来た者は午後五時で帰っても良し、そのまま居残っても良し。

 どうやらこの午後五時で帰れるというところが、部員たちからすれば中々嬉しいことらしい。曰く「早く部活が終われば、ちょっと遊びに行ける」のだとか。

 もちろん、朝練に来られない者はしっかりと部活の活動時間で指導している。いても十人ほどなので、コーチの飛鳥に指導を任せ、直人たちは各々の練習に集中できていた。

 それに、人によってはやむを得ず部活を休まなければならない日もあるだろう。そういう人は朝練に早くから参加することで、練習時間の補填ほてんとすることが可能となっている。

 そんな人たちには、一番朝の早い直人が対応することになっていた。

 だが、あくまで朝練は本格的な練習が始まるまでの暫定ざんてい措置だ。

 この措置は、弓をまだ持てない『初心者』だからこそ対応が可能となっている。直人たち『経験者』となれば、実際に弓を引いてみないことには実のある練習とはなりにくいからだ。

 ……『熟練者』ともなると、弓を引かない練習もまた重要になってくるのだが。

 ともあれ、早く支度をしなければ。

 直人はすぐにジャージを脱ぎ、学生服へ着替える。脱いだジャージを簡単に畳んで丸め、登下校に使うリュックにしまった。歯を磨きながら今日の時間割を眺め、教科書や筆記用具、忘れ物がないかを確認。昨夜の内に準備はしていたので、抜かりはない。

 部屋の鍵を忘れずに持ち、リュックを肩にかける。

「行ってきます」

 そう言って、机の上の写真立てを見る。

 写っているのは二人。群青色の紋付き和服姿の祖父と、中学の学生服を着始めて間もない直人。今はなき祖父の武道場の入り口を背に、二人で立ち並んでいる。

 この写真は、中学の入学式があった日に撮られたものだ。

 祖父はその日、弓道の昇段審査で審査員を務めるために早朝から不在だった。しかし正装するこの機会に、節目の晴れ姿を撮影しようと提案してきたのだ。

 撮影したのが夕方だっため少々周りは暗いが、写る二人の表情は明るい。

 ……似たような構図で、八年前にもドミニクと三人で撮影したことがある。

 その時の写真は、この写真の奥にある。だいぶ色褪せてしまったため今は重ねて隠しているが、当時のことは今も忘れない。ドミニクと一緒に弓道を始めた日に撮影した写真だ。

 こうやって何かしらの節目に写真を撮るのは、いつも決まって祖父の提案だった。

『想い出として残すなら、写真はとても良いものじゃ』

『昔の儂が派兵先で頑張れたのも、婆さんの写真があったおかげじゃからなぁ』

 祖母のことは、直人は遺影でしか見たことがない。

 直人が産まれる前に亡くなったそうで、祖父が話す祖母のことは、いつも決まって写真の話題から始まっていた。写真というのは、祖父にとって強い思い入れがあるものなのだろう。

 直人の実家には今、二人の遺影が並んで飾られている。

 心なしか幸せそうな二人の遺影を思い出し、直人はふと思った。

(そうだ。いつか弓道部でも写真を撮ってみよう)

 それが大会で活躍したときの写真なら、なお良い。

 その思いつきに一人で頷くと、直人は写真から視線を外し、部屋を出る。

 部屋に鍵をかけ、リュックを背負い、足早に学校へと向かった。


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