8:

 道場を飛び出してからおよそ三十分後。

 部屋の後始末を寮長夫妻と真矢に託し、直人は道場へと戻ってきた。

「もう運んできたの? 早いなぁ」

「ええ、まあ。それで橘さん、武器庫は使ってもいいですか?」

 玄関の掃除をしていた飛鳥が、ほうきを置いて道場の中へと促す。

「うん、会長の承認はもらっといた。でも先に、全部袋から出してみよう」

 部屋から救出した弓は三じょう

 深紅あかあお、黒の袋に包んである弓たちを持ったまま、直人は靴を乱雑に脱ぎ、そして揃えることなく、足音を立てて道場の奥へと足早に向かった。

 射場しゃじょうのある左手側ではなく、玄関を上がって廊下をまっすぐに。男女兼用トイレと更衣室、倉庫と武器庫を通りすぎて、巻藁まきわらの置かれた部屋へ。

 巻藁まきわらとは、藁を束ねに束ねて綱紐つなひもで巻き絞った、練習用の標的だ。

 直径は約四十センチ、奥行きは七十センチほど。一俵いっぴょう米俵こめだわらとほぼ同じ大きさだ。それを、高さ一メートル半ほどの頑丈な木製の台座に設置するようになっている。それが三組、廊下から突き当たる壁際に等間隔で並べられていた。

 台座の背後にははずれた矢を止めるため、使い古された畳が壁一面に立てかけられている。

 さらには、上座かみざよろしく巻藁まきわらの右正面の壁には姿見すがたみ――四人横に並んでも映れるかなり大きな鏡が設置され、射手いてが自分の弓を引く姿を客観的に見られるようになっていた。

 巻藁まきわらでの練習は、二メートル前後の至近距離で弓を引くことになる。そのため、この巻藁まきわら部屋の天井は射場しゃじょうと同じ高さだが、広さは射場しゃじょうの四分の一ほどである。

「直人くん、もう戻ってきたの? 部屋は大丈夫だった?」

 その巻藁まきわら部屋には、凜がいた。

 後片付けの最中のようで、台座の足下に落ちた藁クズを箒で集めている。

「今はそれより、先輩も手伝って下さい。全部袋から出します」

「おっけー、大体察した」

 凜は手にした箒を一旦床に置いて、直人の弓を一じょう受け取った。

 直人は飛鳥にも一じょう手渡し、三人で弓を包んだ袋を――弓袋ゆみぶくろを解いていく。緩めた袋の口から出てきた弓の片先を床につけ、袋だけを何度か手繰たぐって中身を取り出す。

 取り出した弓には、あらかじめ弓巻ゆみまきと呼ばれる細長い布を巻き付けていた。

 細長い袋状の弓袋ゆみぶくろと違い、弓巻ゆみまきは弓に直接巻き付けていくタイプだ。布地の長さは三メートルほどで、巻き付ける手間はかかるが、つるを張ったままでも弓を保護できる利点がある。

 しかし弓袋ゆみぶくろ弓巻ゆみまきも、元の生地は薄手の布だ。どちらも単体だけでは雨に弱い。

 雨除けのビニール袋や雨を通さない丈夫な革素材でできた物もあるが、気密性が高い分だけ通気性は落ちるため、竹弓を長期間保護するのにはあまり向いていない。

 弓袋ゆみぶくろ弓巻ゆみまきで二重に保護していたのは、雨除けと通気性を確保するためだった。

「直人くん、つるは張るの?」

 凜と飛鳥に渡した弓は、どちらも二寸伸にすんのびだ。

 まだ使う予定がないので、つるは元から取り外してある。

 今一番気がかりなのは、直人が持っている並寸なみすんの弓だった。これは直人が『本気』で引く時に使っている弓で、祖父から受け継いだ竹弓の中で最も大切にしているものだ。

「ひとまず、僕が持ってるコレだけでいいです」

 末弭うらはずと呼ばれる弓の上端につるの赤い輪をかけ、輪の位置を微調整。次に、姿見すがたみの右上の角と隣接した、中央部分にへこみをえぐった木片――弓張板ゆみはりいた末弭うらはずを軽く押し当てる。

 へこみへまっすぐにあてがうと、直人は弓のにぎりの少し下にある節の部分で、うちを形作った。つるのもう片方の白い輪を口にくわえて、弓の下端である本弭もとはずに右手を添える。

 そのまま足踏あしぶみを開くようにして立ち、弓と体を平行に。上体を屈ませ、左腕は弓と垂直になるようにまっすぐと。目は末弭うらはずの位置がずれないよう弓張板ゆみはりいたを注視。

 一呼吸を置いて直人は、床すれすれの本弭もとはずを右手でゆっくりと引き上げにかかった。次第に増す弓の負荷が左腕全体にかかってくるが、弓はまっすぐと抑え続ける。

 しなりの程良いところで弓の下に左膝を滑り込ませ、右手に代わって太腿ふとももしなりを保持。すかさず口に咥えていた白い輪を右手で摘んで、目視でしっかりと本弭もとはずにかけてやる。

 つるが弓のしなりだけで張られていくのと同時に、弓がつるだけでそのしなりを保持されていく。

 直人は両手の力を徐々に緩めつつ、姿勢を元に正しながら様子を確認していった。

「…………」

 時折、末弭うらはず本弭もとはずの部分からキン、キンと音が鳴る。

 これは弓の力でつるの輪が締まっていく音だ。悪い音ではない。

 他に、必要以上にみしみしとしなったり、パキッと何かがはじけたりするような音はなかった。

「よし」

 薬品の影響が懸念されていたが、とりあえず、弓の調子が狂った兆候は見られない。

 実際に二、三回ほどまとに向かって引いてみれば、すぐに調子の良し悪しはわかる……しかし、竹弓はつるを張ってすぐに引くと、材料に使っている竹がヒビ割れてしまう恐れがある。

 つるを張った際に『音』の感触を気にかけていたのはそのためだ。

 最低でも十分くらいは、このまま様子見で慣らしておかなければならない。

「さっきから思ってたけど、この弓袋ゆみぶくろ――うっ――結構ニオイがついちゃってるな」

「これ、除光液とかマニキュアの瓶をぶちまけた時と大差ないですね」

「直接付いたわけでもなさそうなのに……工業用とか業務用になると、濃度が高いのかも」

「それにしたってドギツくないですか? 何かと混ざって化学変化したっぽいですよ?」

 直人がつるを張っている間、飛鳥と凜は、弓袋ゆみぶくろから漂う悪臭に顔をしかめていた。

 おそらくは直人の着ているジャージも、同じようなニオイになっているのだろう。事故現場である直人の部屋はもっと酷かった。

 そのせいで、直人の鼻はすでに麻痺してしまっていた。

 弓に移ってしまったニオイの酷さを、正しく認識できなくなっている。

「そ、そんなに酷いんですか?」

「うん、相当よコレは。弓袋ゆみぶくろ弓巻ゆみまきも、今日中に洗濯ね。二度洗いしなきゃ」

「申し訳ないけど、変なニオイがついたままじゃ武器庫には入れられないね。一緒に保管してる弓矢にも移りかねないから。僕らももう鼻がバカになってるとはいえ、それでもキツイってわかるくらいだし、大事を取らせてもらうよ」

「そうですか……。わかりました」

「まあ今日のところは、そこの弓立ゆみたてで陰干しだね。会員の人たちにも注意しとくよ」

 そう言って、飛鳥は巻藁まきわらが置かれた反対側の壁を指さす。

 そこにはすでに、凜と飛鳥が取り出した二寸伸にすんのびの竹弓が二じょう立て掛けられていた。

 弓を支えているのは、歯車でも回りそうな凹凸おうとつが作られた、壁の端から端まである二つの長い木材。一つは直人の目線の高さに、もう一つは壁から三十センチほど離れた床面に、互いのへこみが向かい合うように設置されていた。

 弓立ゆみたてはそのへこみ同士にまっすぐ弓を収めることで、最小限のスペースで数多くの弓を支えられる構造になっている。もしこの弓立ゆみたてに弓を全部置いたなら、七十じょうほどは置けるだろう。

 その廊下側の半分ほどを、弓道部が借り受けて使用している。

 境界線のテープが貼られたそばには、つるの張られていない弓が七じょうと、水色の弓袋ゆみぶくろに入ったままの弓が一じょう、そして凜や真矢が使う、つるの張られた二張ふたはりの弓が置かれていた。

 ニオイ移りを考慮してのことか、直人の竹弓が置かれているのは一番端の方だ。四つ空きの間隔で置かれた二寸伸にすんのびの規則性に従い、直人は並寸なみすんの竹弓を弓立ゆみたてに置く。

(……弓にもニオイが残ってたら、どうしよう……)

 祖父曰く、弓は呼吸するものだ。ニオイが内側に染みこんでいても不思議はない。

 凜や飛鳥の反応が、どうしても直人を不安にさせる。

「あ、ナオト。おかえり――」

 とそこへ、射場しゃじょうの掃除を終えたドミニクがやってきた。

「――アゥ! な、ナニ、このニオイ……!?」

 巻藁まきわら部屋に充満するニオイに、ドミニクは咄嗟に鼻を摘んだ。

 二、三歩よろけて後退し、手に持っていたモップを取り落としそうになる。

 ……それほどのニオイなのか。

「クサイよ、ナオトぉ。寮の工事業者さんみたいジャン。モー」

 鼻声のドミニクが、しかめっ面で直人をにらむ。

 しかし助かった。今はニオイに慣れていない人が必要だったのだ。

「ご、ゴメン。でもちょうど良かったよ、ドミニク。悪いんだけど、そこにある弓のニオイをいでみてくれないかな。三つ全部」

 直人はドミニクと弓立ゆみたてから離れながら、そうお願いした。

 飛鳥と凜もそれとなく距離を取る。

「……ドッキリ、じゃないカ。このニオイが原因みたいダネ」

 一瞬だけ怪訝けげんな顔をしたドミニクだったが、すぐに場の空気を察してくれた。

「オケ。ニオイを嗅ぐだけでいいんでショ? 任せテ」

 モップのを杖代わりにし、ドミニクは竹弓に顔を近づける。

 まずは一番端の二寸伸にすんのびから。上部から次第に鼻先を下げていく。

「なんか、犬っぽいわね」

 凜の呟きには構わず、ドミニクは鼻をくんくん、すんすんと鳴らしていった。

 深呼吸を一度し、腰に手を当てて直人を肩越しに振り返る。

「……なんだか、ナオトのお爺さまがマニキュア塗ってるみたいなニオイだネ。この弓って、ナオトのお爺さまが使ってた弓?」

「そうだよ。三つ全部、お爺ちゃんからもらったんだ」

「ふーン。ま、ナオトなら正当後継者セイトウコウケイシャでも不思議じゃないカ」

 そんな大それたものじゃないんだけどな……。

 そう言っておきたかったが、ドミニクの邪魔をしないよう胸の内に留めておく。

 ドミニクは改めて弓に向き直り、またニオイを嗅ぎ始める。

「オゥ、この弓はアタシも見た記憶があるヨ」

「うん、お爺ちゃんが僕たちの指導をする時に引いてた弓だよ。……それで、最後はどう?」

「オケ。ちょっと待ってネー」

 答えつつ促した最後の弓は、直人が一番気になっている並寸なみすんだ。

 二、三度嗅いで、ドミニクはまた振り返る。

「あ。これはナオトのニオイもするヤ。つい最近まで使ってたヤツでショ?」

「う、うん。凄いなぁ、ニオイでそこまでわかるんだね」

 これには直人も驚いた。

 長年使っていた祖父のニオイに気づくのはまだわかるが、まさか直人のニオイまで嗅ぎ分けた上、使っていた時期まで言い当ててしまうとは……。

「フフフ? ナントナクだよ、ナントナク」

 ドミニクは自慢げに鼻をこすってみせた。

 昔からドミニクは察しが良いというか、鼻が利くというか……その場の空気やその人の表情などを見ただけで、状況を把握できてしまうのだ。今のように文字通り嗅ぎ分けてしまったのも、その高い観察力の為せる技なのだろう。

「でも安心したよ。嗅ぎ分けられるくらいなら、ニオイは大丈夫そうだね」

「ウィ。今のナオトたちほどじゃないし、ちょっと風に当ててればダイジョウブだヨ」

「良かった……。ありがとう、ドミニク」

 ニオイ移りがそれほどでもないことがわかり、ようやく直人は肩の力を抜いた。

 弓袋ゆみぶくろ弓巻ゆみまきで二重に保護していたおかげもあって、大事には至らなかったらしい。


「ところで蒸し返すけど――」

 凜がそう言いながら、折り畳んだ弓袋ゆみぶくろ弓巻ゆみまきの三組を直人に手渡す。

「――直人くんの部屋はどうなったの?」



     ◇◆◇



「とりあえず、一階のゲストルームを使ってもらうことになりました」

 道場から帰ってすぐ、直人は男子棟ラウンジで真矢から今後の説明を受けることになった。

 ソファーに座り、免責や補償などの関係書類に必要事項を記入していく。

「使わせてもらう分には、いいんだけどね……」

 そう呟きながら、直人はくだんの部屋へ視線を向ける。

 ゲストルームは、主に入寮者の親が泊まるための部屋だ。女子棟の増築と共に作られた部屋で、受付と女子棟エレベーターまでの中間あたりに設けられている。

 助け出した弓を市営道場へ持っていく前に、直人は一度、中を見ていた。

 部屋は細長く、入ってすぐ右手側に洗面台、クローゼット、机と続き、一番奥には横向きになったベッドが置かれている。窓がない以外は元の部屋とほぼ同じ作りだ。

 そのゲストルームは目下、寮長夫妻の手で緊急清掃が行われている。

「なーんだ、アタシの部屋とほとんど変わらないのネ」

 戸口から部屋の中を覗き込んでいたドミニクが、残念そうに喋っているのが聞こえた。

「ちょっと。どいてなさい、ドミニク。邪魔よ」

 寮長夫妻の手伝いをするつもりなのだろう。

 ドミニクの襟首を掴んだ凜が、戸口から強引に引っぺがそうとしている。

「モウ! アタシも手伝うんだかラ」

「じゃあ、あなたは荷物を出して。私が運ぶわ」

 戸口の脇には、段ボール箱がいくつか置かれていた。

 中に入っているのは、直人の部屋から避難させてきた私物だ。ドミニクがその箱から荷物を取り出し、凜がそれを中へと運び入れていく。

 あとで自分でやろうと思っていたのだが、今は二人に感謝だ。

「……それで、元の部屋に戻るまで何日くらいかかりそう?」

 直人はそんな二人から視線を逸らし、目の前の真矢にそう聞いてみる。

「部屋の修繕は二、三日で済むと思うんですが、ニオイがかなり厄介やっかいなので……おそらく、十日前後はゲストルームで暮らしてもらうことになります。本当に、申し訳ないです……」

「ううん、しょうがないよ。けど、十日か……観桜射会と重なりそうだね」

「ええ。なので、私からお爺ちゃんに頼んだんです。ゲストルームを使わせるなら大神くんにしてくれって。知り合いなら融通を利かせやすいですし、寮の風紀的にも、大神くんならまず間違いは起こさないと思いましたので」

 部屋の移動が必要な者は、直人と、直人の部屋の上と下の住人の計三人。

 それに対し、男子棟の空き部屋は五階に二部屋のみ。女子棟にも空き部屋はあるが、一時的にとはいえ、男子を住まわせるのはさすがに問題となる。

 そこで解決策として挙がったのが、普段あまり使われないゲストルームの使用だった。

 ……それにしても、直人なら間違いは起こさない、とは。

 元からそんな気はないが、その信頼が逆に不安だ。

「僕はそれで構わないけど……大丈夫なの?」

 というのも、ゲストルームの目と鼻の先には女子棟ラウンジがある。それに、直接女子棟に立ち入るわけではないとはいえ、西館エレベーターにも程近い。

 今回の部屋の移動で、寮の風紀や規則やら、何か問題や不満が出るのではないだろうか。

「大丈夫です。全部、規則の範囲で収めましたから」

 直人の思考を読んだかのように、真矢は自信ありげに即答する。

「何も、私が大神くんと知り合いだったから、というだけじゃないですよ?」

 そう続けて、真矢は直人が選ばれるに至った経緯を説明してくれた。

 一応は、直人以外の二人がゲストルームに移動した場合も考えてみたらしい。

 だが、軽微とはいえ寮の規則を守らない者や、学校での軽薄な態度が目立つ者では信頼に欠ける。寮での素行や学校での生活態度などを考慮した上での判断だった。

 その点、直人は学生寮の運営を手伝ったことがある。

「ちょうど忙しい時に手伝ってもらいましたからね。こちらは大助かりでした」

 入学式があった日に手伝った、入寮者の荷物の運搬。

 それが評価されたということだった。

「そういうことなら、わかったよ。学生寮の決定に従います」

「では、そんな感じでよろしくお願いします」

 頭を下げた真矢に、直人も返す。

「それと。部屋の修繕が終わったらすぐに移動しますか? 日取りは調整しますよ?」

 この申し出はありがたかった。

 大事な試合の前に、部屋の移動でいらぬ労力を費やすのは得策ではない。観桜射会を『堅実に』いくと決めた手前、あらゆる不安要素は排除しておきたかったのだ。

「できれば、大会が終わってからの方がいいかな」

「そう言うと思ってました。じゃあ、大会から帰ったらやっちゃいましょう」

「助かるよ、和泉さん」

「そう言ってもらえると、こちらも助かります」

 書類への記入を終えた直人は、ペンと一緒に真矢へ書類を渡した。

 記入漏れがないことを確認した真矢は「はい、たしかに」と、頷いてみせる。

 事務作業はこれで終わりと、二人揃って肩肘から力を抜く。そうして書類をまとめていると、真矢が思い出したように聞いてきた。

「……それで、肝心の弓は大丈夫だったんですか?」

「うん、なんとか。あとは橘さんに託してきたよ」

「良かったぁ……。大神くんが慌てるくらいだから、かなり不安だったんですよ」

 真矢は胸を撫で下ろし、安堵の表情と共にふぅと一息をつき――途端に顔をしかめた。

「忘れてましたけど、このニオイ……一気に吸うと鼻にツンときますね……」

「ゴメン、僕も忘れてた……。お風呂、もう大丈夫だったよね?」

「ええ、十八時からなのでもう入浴はできますが……着替え、ありませんよね?」

「あ、そういえば……」

 事故現場にあった直人の衣類はすべて回収され、脱臭のため大急ぎでクリーニングに出してもらっていた。返却は明日の昼以降である。

 なので今、直人の手元には学生服と胴着以外、まともな着替えが一切なかった。

「大丈夫です。お爺ちゃんが買ってきてくれたはずなので、少し待ってて下さい」

 そう言って席を立ち、真矢はゲストルームの中へ。

 入れ替わりで、紺色の作業着を着た寮長さんが出てきた。

「お待たせしました。今日のところはこの着替えと道具を使って下さい。差し上げますんで」

 直人は寮長さんが差し出したビニール袋を受け取る。

 袋のロゴは、学生寮から程近いホームセンターのものだった。中には新品の下着と寝間着、旅行用の入浴道具が入った半透明のポーチ、固形石鹸、そしてバスタオルが入っている。

「わざわざ、ありがとうございます」

「いやいや、悪いのはウチですから。本当にもう、申し訳ありません。今着ているジャージも、こちらで今日中に洗っておきますんで。あとで渡して下さい」

「それじゃあ、お言葉に甘えて」

 直人は寮長さんと共に大浴場へ向かった。

 脱衣所で脱いだ下着とジャージは、寮長さんに預けて洗濯へ。

 ニオイがついた弓巻ゆみまき弓袋ゆみぶくろは、浴場の中へ持ち込んで石鹸を擦りながらもみ洗い。一度水気を絞った後で、風呂桶たらいに張ったぬるま湯の石鹸水に、一個ずつ漬け込んでおく。

 それから髪も体もしっかりと二度洗いをし、湯船につかる。

(今日は一日が長かったなぁ……)

 直人は浴槽の縁に頭を預けながら、しみじみとそう思った。

(弓のこともそうだけど、やっぱり、部活が本格的に始まったのは大きいかな)

 指導される側だった昔の頃に比べ、今の指導する側の方が遙かに体感時間が長い。

 自分が無意識にやっていたことを改めて言葉に言い換えるというのは、相当に労力がいるのだなと一人感心する。そして苦心して振り絞ったその言葉でも、初心者には中々届きづらいということを併せて、肝に銘じておかなければならない。

 直人自身ができるからといって、他人もできるとは限らないのだ。

 人の考え方は十人十色。一個人の考えをそのまま押しつけるのは良くない。あくまでも参考の域に留め、各々の歩みに任せてみるのもまた必要なことなのだ。

 いつだったかの、祖父の言葉を思い出す。

『基本通りにやるのはもちろん大切なことじゃ。しかし基本だけでは、その者は真に輝くことはできぬ。己を極限まで抑え続けてなおも湧き出てくる活力こそが、その者の源泉。光るモノ。すなわち個性。それを見つけて伸ばしてやるのが、指導者の務めというものじゃ』

(そうだったね、お爺ちゃん)

『まあ、それを見つけるのが難しいんじゃがな。指導者の一生の命題じゃよ』

(……そういう時は、どうすればいいんだったっけ?)

『まずは基本を身につけねば、光るモノも光らん。じゃから直人。ドミニクもじゃ。弓を持たせてもらえないからといって、ふて腐れてはならんぞ? 急いては事をし損じるものじゃて』

(はい、師匠)

 過去に諭された祖父の言葉に、今また諭される。

 ……そうか、ドミニクと一緒に練習していた頃に言われた言葉だったか。

 祖父はいつも、基本に忠実であることをとしていた。最初期の頃からの徹底した基礎練習、そのおかげで、今の直人とドミニクがある。

 積み重ねてきた努力や修練は、決して自分を裏切らないのだ。

(それが、光るモノ……)

 まだたった一週間とはいえ、部員たちはもう射法八節しゃほうはっせつは一通り覚えている。

 あとはそれをどう表現しようかと、一人一人が試行錯誤を繰り返している段階だ。その過程を知り、その意図を理解できれば、おのずとその者の個性に触れることができるはずである。

(……よし、明日からはじっくり行こう)

 静かにそう決意を改め、直人は湯船から上がった。





 高校生という年頃は、昔で言う元服げんぷく――一人前と見なされる時期だ。

 つまりはこの時期の少年少女らはみな、大人になれるだけの潜在能力を秘めている。その成長速度は時として予想を大きく上回り、大人をも凌駕する才能が開花することもあるのだ。

 この日から程なくして、直人はその片鱗へんりんを持つ者たちを見つけることとなる。

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