7:

 部員たちへの指導は、日が暮れるまで続いた。

 その間、直人や凜、真矢の経験者たちは一度も的前まとまえ練習をしていない。各々の練習は部員たちの指導が終わってから行おうと、コーチの飛鳥も交えて四人でそう決めていた。

 今年度における弓道部の活動方針は、新人の育成に力を注ぐこと。

 一人や二人くらいならば、数週間で『一人で弓を引かせられる』状態にすることはできる。

 できるが、首尾良くそう仕立て上げたところで、五月の春季大会や六月の高校総体で活躍できるかと問われると……首を横に振らざるを得ない。

 あくまでそれは数合わせのための急場凌ぎであって、最終手段。

 今年で引退する三年生がいたなら、何がなんでも付け焼き刃の射法八節しゃほうはっせつを仕立てていたことだろう。だが幸いなことに、この弓道部には三年生が存在しない。即戦力となる直人と真矢もいるため、数を合わせる必要はあるにはあるが、それほど火急のことではないのだ。

 しかしそれでも、今ある機会を逃すことはしない。

 指導時間を終え、ひとまず部員たちをジャージから制服に着替えさせる。その間に直人たち四人は、上座かみざに集まって大会の要項と申込用紙を囲んでいた。

「さて、四月末の観桜かんおう射会しゃかいなんだけど……この競技形式、どうしたもんかね?」

「今年は男女別で、三人一チームですか……」

「僕ら、組めませんね」

 地元の弓道会が主催する、高校生を主体とした弓道大会・観桜射会。

 直人と真矢は、去年は大会の運営を手伝いながら一般枠で出場していた。そのため、観桜射会の競技形式が去年と違うことには気づいている。

「これなら、去年みたいに全参加者一括の個人戦の方が、まだわかりやすかったわね」

 去年に一人で出場した凜も、一昨年まで弓道会に所属していたため内情を知っていた。

 観桜射会という大会が設けられたのは、つい二年前のこと。

 今年でまだ三回目ということで、運営側の弓道会としても、競技形式をどういう風にすればいいのか決めかねているのが実状なのであった。

 今年はどうやら、男女別に個人と団体の受賞部門を増やすことにしたようである。

「はは、耳が痛いよ……」

 弓道会の会員である飛鳥が、申し訳なさそうに苦笑した。

 飛鳥は弓道会の会員ではあるが、ただの一般会員。こういう催し事に対しては何の権限も持たない。観桜射会は仕事のため不参加で、午後から運営を手伝うことになっているという。

「でもとりあえず、私と真矢ちゃんは組めるわね」

「そうですね。今回は最低二人いれば団体として認められますし」

「僕も、個人戦があるみたいなので一人で出られますよ」

 ひとまず経験者三人とも、大会には出られそうで一安心である。

「おっけー。じゃあ、書くだけ書いちゃうか」

 凜がペンを取り、申込用紙にそれぞれの名前を記していった。

 女子の団体一チームに凜と真矢。男子の個人に直人。指導者の欄には飛鳥の名前を。そして所属の高校名をしっかりと埋める。

「よし、と。まあ、三人一チームで一人足りないのはちょっと厳しいけど、どうせウチの弓道部は新参者だしね。私らは下克上げこくじょうを狙いつつ、当たって砕けろの精神で気楽にいきましょう」

「了解です、先輩」

 真矢が敬礼の真似事をして凜に応じる。

 次に凜は、直人の方を見た。

「で、直人くんはどうする?」

 きたか、と直人は思った。

「やっぱり入賞、狙いに行く?」

 今年度中に弓道部がやらなければならないことは、部員集めの他にもう一つある。

 今年度中に、凜以外の部員が大会で入賞することだ。

「別に今回じゃなくてもいいんだよ?」

「いえ。早めに解決できるなら、それに越したことはないです」

 直人は、この弓道部における経験者の筆頭である。大会で入賞するのとは別に、八年という弓歴きゅうれきに恥じない実力を、しっかりと後輩たちに魅せる必要があるのだ。

 それが上に立つ者の役目だと、昔から祖父に言われてきたことでもある。

「それが僕の役目ですから。試合は堅実にいきますよ」

 それに、新入部員たちに後々入賞のかせを負わせるわけにはいかない。彼ら、彼女らには何のしがらみもなく、伸び伸びと弓を引いて欲しいのだ。

 入賞を狙いにいくのは、そういう思いがあったからとも言える。

「私、大神くんが『本気』で引いてる姿が見たかったです……」

「ごめんね、和泉さん。まずは『学生弓道』の場でどういう心境になるのか、試してみたいんだ。だからある意味じゃ、僕は『本気』で試合に臨むのと変わらないと思ってるよ」

 学生弓道。

 一般の弓道と分けて、高校と大学の弓道をそう呼ぶことがある。

 時に「てっこ」だと評される学生弓道は、的中至上主義の世界である。あたりの数のみで勝敗を決するその競技方式は、誰が見てもわかりやすい。

 それは一般の弓道でも変わらない。

 競技である以上、決着は必ずつけなければならないからだ。

 しかし、直人は祖父からよくこう言いつけられていた。

『弓道はあたりを目的とするものではないんじゃ。てに走れば、それはもう弓術さね』

『人に勝とうとしてはいかん。それよりも大切な、学ぶべき事柄はたくさんあるんじゃよ』

 弓道としては、それが正しくあるべき姿なのだと。

 なのになぜ、学生弓道は的中至上主義となってしまったのか。

 直人はその理由が知りたいのだ。

「そう、ですか……」

 真矢はしゅんと顔を俯け、引き下がった。

 直人の『本気』で引く姿を、真矢が自身の見本として参考にしているのは知っている。

 真矢と出逢って間もない頃、大会で急遽彼女の使う弓で試合に臨んだことがあった。それ以来、普段の練習ではいつも彼女に引く姿を見られ、指導をお願いされてきた。

 だが今回の大会で確実に入賞するには、その『本気』が障害となる可能性がある。

 的中至上主義である戦場――その試合で、今まで培ってきた経験と技術を万全に発揮するためには、いつも以上に平常心を保てるようにしなければならないだろう。

 ならばこそ、今回は『堅実に』ことを為すことが最善策。

 気持ちが入りすぎて、試合中に頭が真っ白になっては元も子もないのだ。

「そんなに変わらないんじゃないかなぁ? 一般弓道も学生弓道も。あたってナンボじゃん」

 去年その学生弓道の世界で戦ってきた凜がそう言うなら、実際そうなのだろう。

「でもやっぱり、自分で体感してみたいじゃないですか」

 けれど自分でその違いを感じてみなければ、学生弓道に慣れたとは言えない。

「うーん、それもそうだけどね。……ま、直人くんがそう言うならいいんだけどさ」

 そう言って、凜は納得したように申込用紙を片付け始める。

「今回の観桜射会、よろしく頼んだからね?」

「はい。最善を尽くします」

 少々引き止められはしたものの、とにかくこれで直人の心は定まった。

(よし。あとは本番に向けて、やれるだけのことをしていこう)

 心静かにそう決意し、直人は軽く両拳を握って体に決意を込めてやった。

「着替え終わったヨー」

 そこへ、セーラー服に着替えたドミニクが射場しゃじょうへ戻ってきた。

「おっと。じゃあ、ひとまず一年生たちを帰すとしますか。みんな、整列してー」

 凜の号令で直人たちは射場しゃじょうへ降り、上座かみざを背にした、いつもの所定位置へ正坐せいざする。

 他の部員たちもぞろぞろと射場しゃじょうに戻ってきて、上座かみざに向かって正坐せいざし、いつものように整列。ほどなくして、射場しゃじょうに全部員が揃う。

 直人はその数を確認し、凜に頷いてみせた。

「よし。じゃあ、これで今日の部活を終わります。ありがとうございました」

「「ありがとうございました」」

 凜から遅れて全員が、背すじを伸ばしたまま頭を下げ、声を揃えて頭を下げる。

 一拍の間を置いて、一同は姿勢を戻した。

「ほい、解散」

 凜がパンと手を叩き、それを合図に一年生たちは動き出す。

 すぐさま立ち上がって射場しゃじょうを出て行くドミニクと、何の気なしにぞろぞろと固まって渋滞を作る集団、渋滞に巻き込まれながら「このあとどうする?」と話し合う集団。

 前者の集団は男子で、後者の集団は女子だ。

 この集団が帰らないことには、直人たちは稽古ができない。

 それを待つ間、直人たちは準備運動を始めていた。

 凜と真矢は正坐せいざのまま体を屈して、何かを仰々しく拝むように両腕を前方へ伸ばした。片方ずつ肩を床へ近づけ、腕と肩、そして背中の筋肉をほぐしている。

 直人も正坐せいざしたまま、胸の前で両の手の平を逆さに合わせて、手首をほぐしてやる。

 次に、親指以外の指先をもう片方の手で抑え、前方へまっすぐに腕を伸ばす。肘を上と下へ交互に向けながら、左右で計四回。親指だけに抑えを変えてさらに四回。

 それを終えて直人は立ち上がり、今度はアキレス腱を伸ばしにかかった。

「マヤー!」

 ドタドタとした足音と、そんなドミニクの声。

 それと、単調な携帯電話の着信音が近づいてくる。

「マヤ、ケータイ鳴ってるヨ」

「あ、ありがとう」

 人混みを掻き分けてやってきたドミニクは、鳴り続ける携帯電話を真矢に手渡した。

「はい――ああ、お爺ちゃん。どうしたの?」

 受け答えをしながら、真矢は射場しゃじょうの隅に移動していく。

「……なんだろうネ?」

「……今が部活中の時間なのはわかってるはずだし、緊急の用じゃないかな?」

 チラリと、二人で真矢の声に聞き耳を立てる。

「うん――うん――あー、それは結構大変だね。大丈夫だったの?」

「……でも案外、ダイジョウブそうだネ」

「……だね。まあ、何事もないのが一番だよ」

 とりあえずは何事もなさそうで一安心だ。

「――え!? 大神くんの!? 今そばにいるから、出すよ」

 前言撤回。

 確実に何かがあった。

「大神くん、代わって」

 駆け足で近づいてきた真矢から携帯電話を受け取り、恐る恐る電話に出る。

「はい、お電話変わりました。大神です」

【ああ、どうもすいません。寮長ですが、実はさきほど、外壁塗装の作業中に業者の方が塗料缶を誤って落とす事故がありまして。それで今、大神さんの上の部屋から一階まで窓と壁が塗料まみれなんですよ】

「は、はあ」

 結構大事のようだ。

【ただ、大神さんの部屋の窓に缶が運悪く直撃しまして――】

「――ガラスが割れて部屋に塗料が流入したんですね。わかりました今すぐ帰ります」

 大変まずいことになった。

 もう練習どころではない。

「和泉さん。電話、あとよろしく」

「は、はい。私もあとから行きます」

 真矢に携帯電話を返し、

「部長。緊急事態なので一旦帰ります」

「え、あ、そう」

 凜に断りを入れ、

「ドミニク。部活が終わるまでに戻らなかったら、僕の荷物をお願い」

「お、オケ」

 ドミニクに荷物を頼み、

「橘さん、あとで道場の武器庫を使わせて下さい」

「た、たぶん大丈夫だと思うけど……何かあったの?」

「お爺ちゃんの弓がピンチです」

「よしきた。開けとく」

 問いただす飛鳥には、それだけ言って即座に納得させた。

 そうしてすぐさま道場を飛び出ると、直人は全速力で学生寮へ向かった。



     * * *



 直人が中学二年生になって間もなくのこと。

「直人や。儂ももう長くないじゃろう。じゃから、餞別せんべつとしてこれらをお前に贈る」

 一日に十分も立っていられなくなった祖父から、弓を受け継ぐことになった。

 竹素材独特の節が各所についた、優美な湾曲を描く弓を四じょう。弓の長さの基準・七尺三寸、約二百二十一センチの並寸なみすんと、七尺五寸――並寸なみすんより約六センチ長い二寸伸にすんのびを二じょうずつ。

 どれも、今買えば二、三十万円はする高価な弓だ。

「竹弓は生き物じゃて。自分が生きるのと同じように、手入れはしっかりとな」

「はい、お爺ちゃん」

 木や竹などの自然素材で作られる竹弓は、その日の気温や湿度によって弓の強さや引き具合が変化する。それを祖父はよく『呼吸する』と言い表し、弓を一個の生命として捉えていた。

「じゃが、二寸伸にすんのびはまだ早いな。もう少し大きくなってから使うといい」

「僕の背がお爺ちゃんを超えてから、だったね」

 当時の祖父の身長は百六十八センチ。

 十五歳になった今の直人よりも、わずかに背が高いくらいだった。

「うむっ。そして体が大きくなったなら、もう並寸なみすんは引いてはならぬぞ? 儂が使い込んで、かれこれ二十年は経っておるからのう。いつもより少しでも負荷が強くなった途端、すぐに壊れてしまうじゃろうて。なにせ最近の若者は――」

「――食の欧米化で手足が長くなってきている、でしょ?」

「ほっほっほ、その通りじゃ。じゃから儂の矢はやれんでな。もうお前には尺が足りん」

 自己の適正な矢の長さ――矢束やつかは、自身の喉元のどもとを基点に、水平に伸ばした左手中指の爪先までの長さで決まっていた。矢束やつか足踏あしぶみで両脚を開く幅と同等。そしてそれは身長のおよそ半分の長さになる……昔の規定では、そうなっていた。

 しかし現在では、安全のため矢束やつかに五センチ以上加えた長さが、その人の適当な矢尺やじゃくとすることになっている。そうでないと弓を引いてかいに至った時に、矢が弓とつるの内側に入ってしまい、暴発によって弓矢を破損させてしまう恐れがあるからだ。

 直人は一度、未遂にとどめたがその危険性をじかに味わったことがある。

 祖父の矢が使えないのは、そういう理由からだ。

「よいか、直人。お前はこれから、まだまだ大きくなる。心も体もな。今後も弓道を続けていくのであれば、たとえ学業に追われていようとも、日々の鍛錬は決しておこたってはならぬぞ?」

「うん。文武両道ぶんぶりょうどうだね」

しかり。しゃすなわち人生じゃ。おのが人生をより高く、より豊かにしなければならぬ。この餞別は儂の分身などとは思うな。いずれは自身の得物とするよう、修練を重ねて使いこなせ。生かすも殺すも、お前次第じゃということを肝に銘じよ」

「わかりました、師匠」

 小さい頃から、ずっとそうだった。

 祖父の言葉はよく響いてくるのだ。直人の心の奥底に。心地好く。

おのが道を信じて、前へ突き進め。信ずることを疑うな。さすれば直人。お前は儂が到達できなかった場所のそのまた向こうまで、きっと辿り着けよう」

 この時に言われたことを、直人は今も一字一句正確に思い出せる。

 忘れる心配がないくらいに、心にしかと刻み込まれているからだ。

「いつ何時なんどきも、心身共にすこやかでな」

 その日からほどなくして、祖父は亡くなった。



 以来、直人はこの日の遺言を守り続けている。

 心身の健康を損なうことなく、日々忠実に……これに『弓共々』と付けば良かったのだが、残念ながらすでに一つ、弓は失われていた。

 祖父の逝去せいきょから間もない頃に参加した大会で、自分でも知らぬ内に力んでしまっていたのが破損の原因だ。ひとえに直人が未熟だったせいである。

 再びそんなことを起こさぬよう、今は慎重に慎重を重ね、細心の注意を払っていた。

 だがまさか、自身の感知し得ないところで弓が事故に遭ってしまうとは……。

 さすがにこれは予想もしていなかった事態だ。

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