真矢のライバル【前編】:0~2

 私が弓道を始めたのは、幼少の頃にテレビで見た弓道の特番がきっかけだ。

 日本語の達者な外国の格闘家が、日本の武道に挑戦するという内容のシリーズだ。まだ小さかったから詳しい内容までは覚えていないけれど、矢が放たれる時の弦音つるねと呼ばれる綺麗な音だけは、今でも印象に残っている。

 その綺麗な音に憧れを抱き、私はいつか、弓道を始めてみたいと思っていた。

 それが叶ったのは、中学一年生の夏休み。

 地元の弓道会が主催する『夏休み・中学生弓道教室』に参加したのが始まりだ。弓道教室の期間が終わっても続けたいと願った私は、そのまま弓道会に所属することとなる。

 最初の半年は、まとに向かって弓を引くことはやらせてもらえなかった。

 ひたすらに基礎の鍛錬ばかりだったが、私は飽きることなく修練に励んだ。講師の先生が弓を引く姿を見るのは興味深かったし、たまに出くわす弓道会の会員方との交流も楽しかった。

 だけど、私のように中学生で会員になる子はまったくおらず、弓道教室に参加する以外では同年代の子と話す機会は皆無だった。中学の同級生たちをそれとなく勧誘もしてみたけど、最初の内は基礎練習ばかりだと知ると途端に渋り、結局は失敗に終わった。

 こればかりは仕方がないかと諦めていたが、やはり寂しさはあった。

 そうして通い始めてから一年が経った頃、新しい出会いがあった。

 大神おおかみ直人なおとという、私と同い年の男の子がやってきたのだ。

 彼の祖父は有名な範士せんせいで、地元で武道全般の塾・教室を開いていた。しかし亡くなられたのを機に、所有する武道場が取り壊されてしまったのだという。彼はどうにかして弓道を続けようと、毎日遠くから山々を越えて練習に参加していた。

 私と同い年ということもあってか、同じ時期に入会してきた一つ歳上の月嶋つきしまりんという女の先輩と共に、一緒にチームを組んで大会に出ることがよくあった。

 だがその当時、大神くんはすでに弓歴七年を数えるベテランの若手だ。……日本語がおかしいと思うが、これは当時の私が思ったことそのままである。

 彼の弓を引く姿は、大人と比べても遜色がなかった。

 柔よく剛を制すとはよく言ったもので、体格は男の子としては小柄な部類ながら、大人が引くような強い弓も難なく引きこなしてしまうのだ。

 もっと凄いのは、初心者の私が使うような弱い弓でも引き方が変わらないことだ。

 それを知ったのは、大神くんと初めてチームを組んだ大会でのこと。

 彼が男子個人の順位決定戦に残った際、今まさに決定戦を始めるぞという時に、彼の弓にヒビが入って使えなくなってしまったことがあった。

 急遽私の使っていた弓で臨み、入賞を決めた瞬間のその姿は、今でも忘れられない。

 そのことがあってから、大神くんは私の目標になった。

 同じ弓を引く私も、修練次第では大神くんみたいに引けるはずだと。

 ……今思えば、彼と話すときにどうしても敬語混じりになってしまうのは、この頃からだったのかもしれない。同い年であると同時に、密かな心の師匠でもあったのだ。

 大神くんと一緒に練習するのは、楽しかった。

 同い年の近しい仲間がいると、自然と練習にも身が入る。それに、心に決めた目標がすぐそばにいてくれるのが本当にありがたくて、とても嬉しかった。

 それがいつしか、片想いの恋心を抱くまでになっていたとは。



 それを自覚できたのは、月嶋先輩のおかげだ。

 私が中学三年生に進級して間もなく、先に中学を卒業した先輩が、進学先の高校で弓道部を創設したという話を聞いた。明仁高校という所だ。

 そこと提携している学生寮が私の実家だったおかげで、逐一弓道部の情報は入っていた。

「真矢ちゃん、来年ウチの弓道部に来ない?」

 先輩以外の部員は、名前を使わせてもらっただけの幽霊部員なのだという。

 創設一年目は誤魔化せると思うが、二年目は即戦力が入らないと厳しくなる、と。

「――直人くんも呼んでみようと思うんだけど」

 先輩のその何気ない誘い文句が、とても魅力的に聞こえた。

 大神くんが一緒なら、いいかな……って。そう思ってしまったのだ。

 どのみち高校に進学して弓道部に入ると、学校という部活動での所属になるため、弓道会を一旦辞める必要があった。そのことは前々から聞かされていたので、大神くんと会えなくなるくらいなら、いっそ弓道部に入らないという可能性も視野に入れていたところだ。

 でも同じ弓道部に入るというのなら、願ってもないことである。

 内心でガッツポーズを握ったのは、これが初めてのことだった。

 最良の結果になるようにと、私はすぐさま受験勉強に力を入れ始めた。

 必然的に大神くんと会える機会は減ってしまったが、それは大事の前の小事と割り切った。

 それに大神くんはまだ進学先を決めかねているようだったし、余計なことを言って悩ませないよう、一緒に練習する時間は弓道のことだけに集中するようにした。

 しばらくして、大神くんは無事に明仁高校を推薦で合格する。そのことを弓道会の人と話しているのを聞いた日が、彼との弓道会での最後の練習になった。

 次は私の番だ。

 提携する学生寮のオーナーの孫という強力な後ろ盾に加え、女子の入学を積極的に誘致している学校の方針、そして入試の自己採点は四百五十点という充分な学力。

 ……え、えっと、その、うん。

 どう考えても、これで合格にならないわけがない。

 人事を尽くして天命を待つとはいうが、正直、入試は自分でも出来過ぎだと思っている。

 親の七光りとか裏口入学だとか言われなくて済んだと考えれば……まあ、いいか。

ラヴの力だよ、ラヴ

 結局は月嶋先輩にいじられてしまったけれども。

 ……と、とにかく。

 こうして晴れて、私は明仁高校に通うことになった。



 だが、最良の結果とはならなかった。

 弓道部に『ライバル』が入ってきたからである。


     * * *


 入学式があった日のこと。

 弓道会での最後の練習を終えた真矢は、市営弓道場を出たところで直人と再会した。

 真矢は式が終わってすぐ道場へ来ていた。クラスが別だったこともあって学校で出くわすこともなく、こうして言葉を交わすのは直人の合格がわかった日以来である。

 三週間ほどのことだが、ずいぶんと長く話していなかった気がする。

「こ、こんばんわ。突然でビックリしました」

 短めに整えた髪、純真さを残す顔立ち……三週間前に見た時のままだ。

 学校指定の青いジャージ姿であるところを見ると、一度学生寮に帰ったあとで、ランニングか何かのついでに道場へ立ち寄った感じだろうか。

「僕も。和泉いずみさんはどうしてここに?」

「私も、月嶋先輩に誘われて明仁高校に……あれ、聞いてませんか?」

 同じ弓道部に所属することを明かした真矢は、軽く弓道部の内情も説明する。

 凜と共に弓道教室の出身者や同級生らに誘いはかけたものの、結局、即戦力として来てくれたのは真矢と直人の二人だけだった。

 それを知った直人は、少し落胆した様子を見せる。

「でもその分、私たちが頑張れば良いんですよ」

 そう言って、真矢は胸元で握った両手でガッツポーズを取った。

「……それもそうだね。頑張ろう」

 それに促されるまま、直人も同じように握った両手を真矢の方へ近づける。

 互いの両拳を突き合わせ、ググッと押し合い、拳を離す……これは真矢が直人とチームを組むようになってから始めた『気合入れ』の儀式、みたいなものだった。

 緊張が高まる試合の直前には、よくこうして互いの呼吸を合わせていた。

 今のは「数少ない経験者として、一緒に一年生を引っ張っていこう」という意味合いを込めたつもりだ。直人もそれを察してか、真矢と同じような力加減で応じてくれる。

 気持ちが一つになったのを実感し、真矢は思わず微笑んだ。

「よし、と。じゃあ帰りましょうか」

 真矢は直人との再会に心躍らせながら、一緒に帰路についた。

 途中、これからの弓道部の展望を口にする。

「一年生、どれくらい入ってくれるかなー?」

「男女とも、五人は最低限欲しいところだね」

「ですねー。チームが組めるくらいには欲しいですもんね」

「あ、そうだ。一応、一人は確実に入ってくれそうだよ」

「そうなんですか? 幸先いいですね。その人、大神くんの友達ですか?」

「まあ、幼馴染み、かな? 小さい頃に引っ越しちゃったんだけど、さっき寮でバッタリ再会したんだ。お爺ちゃんの武道教室にも通ってたから、下地は大丈夫だと思うよ」

「へー、大神範士せんせいに学んでたんですか。期待が持てそうですね」

「でも、今まで勉強ばっかりで鍛錬はできてないと思うから、どうなるかな……。たぶん和泉さんと凜先輩に任せっきりになると思うし、今からよろしく御願いしておきます」

 直人の言葉を聞き、真矢の胸中に一抹の不安がよぎる。

 任せっきり、ということは……男性の直人がじかに指導できない人ということだ。

「……ということは、女の子なんですね?」

 真矢の歩く速度がわずかに落ちる。

 隣の直人は自然とそれに合わせてくれた。

「うん。彼女はドミニクって名前なんだけど、お父さんの血が濃いせいか欧米人寄りの骨格なんだ。僕より背も高いし、二人だけだとちょっと指導が難しくなるかも」

 やはりか。

 しかも幼馴染みのハーフとは……正直、驚いた。国際交流、待ったなしである。

 だがとりあえず、コーチの飛鳥もいるのだし、指導の面ではあまり心配することはないだろう。なんとかなるはずだ。

 おかげで、他に懸念していたものも合点がいった。

 五日ぐらい前に学生寮宛てに届いていた、外国からの荷物――送り主の名前があまりに達筆で解読できなかったアレは、ドミニクのものだったのだ。

「――ああ、良かった」

 真矢は一人で納得し、安堵しながら何度も頷いた。

「? ドミニクの荷物を、和泉さんが受け取ったってこと?」

 事情を掴めない直人がそう尋ねる。

 それもそのはずだ。直人とはこれまで、弓道に関することしか話してこなかった。真矢の実家のことを知らなくて当然である。

「ええ。言ってませんでしたが、私の実家、あの学生寮なんですよ」

 言ってから、真矢はふと思った。

 想い人に実家を紹介し、遠回しにだが招き入れていたというこの事実……よくよく考えてみれば、結構大胆なことをしているな、と。

「そうだったんだ。じゃあ、あの寮長さんは和泉さんのお爺さん?」

 直人と話す内にそれに気づいた真矢は、早まる鼓動を誤魔化しにかかる。

「はい。親子三世代、住み込みで運営して何とか回してます――って、ああああああああ!!」

 急に立ち止まって大声を上げてみたが、それは誤魔化そうと思ってそうしたのではない。

 本当に、今まさに、思い出したのだ。

 懐から使い古した携帯電話を急いで取り出し、時間を確認してみる。

 今は、十八時二十分だった。

「私、給仕の仕事があるんでした! 先に行ってます!」

 真矢は脱兎のごとく駆け出し、全速力で家へと向かう。

 夕食の時間は十八時三十分からだ。

 だが市営道場から学生寮までは、あと十分かそこらで帰り着けるような距離ではない。

 道場を出るのも少し遅かったし、直人ともこんなに話し込んでしまうとは思わなかったし、着替えもあるしで……ああああもう駄目だ、絶対間に合わない。

(もおー!)

 家族との打ち合わせで、真矢が弓道部としての活動がある時は、給仕の仕事は免除にしてもらうことになっていた。しかしそれの適用は明日からなのである。

 今日まではしっかり出ると約束していたのに、この失態とは……。

 動きづらいはかま姿で、真矢は懸命に足を走らせた。



 隣を走る直人に見守られて、十八時三十五分、どうにか寮まで帰り着く。

 帰り着いて早々、真矢は玄関ロビーの仮設郵便受けに崩れるようにして寄りかかった。息も絶え絶えに肩を上下させ、乱れた呼吸を整えていく。

 喉の奥から感じる血の味は、中学でやった体力テストのシャトルラン以来だ。

 ……なぜ、一緒に走ってきたはずの直人がほとんど疲れていないのか、不思議でならない。

「あ、ナオトー!」

 そんな声に視線を動かしてみれば、くだんの人物がそこにいた。

 タンクトップと短パンの、ほぼ下着と変わらないその艶姿あですがた。浮き出る鳩胸、くびれたウエスト、そして小股の切れ上がった脚線美。それらを惜しげもなく周囲にさらしている。

 シャワーを浴びてきたばかりなのだろう。金色ブロンドの長い髪はしっとりと濡れ、肌の露出した部分はほのかに汗ばんでいた。赤みの差した色白の肌と相まって、同じ女子高生とは到底思えないほどの色香を醸し出している。

 ……正直、寮の風紀が乱れかねないほどだ。

 だが注意しようにも、今の真矢にはそんな余裕はない。

「ドミニク、そんな格好じゃ湯冷めするよ?」

「そうかナ? 大丈夫だと思うけド」

 言いながら、直人は自身の着るジャージの上着を脱いでドミニクに手渡した。

 ドミニクもドミニクで、大丈夫だとは言いながら自然な動作で直人のジャージを受け取り、タンクトップの上から袖を通して着てみせる。

 その間に、直人は彼女の足下に落ちていたバスタオルを拾っていた。手で払ってホコリとシワを取り除き、床に面していた方を内側にして小さく折り畳んでおく。

 ドミニクがジャージを着終わったところで直人はバスタオルを返し、受け取った彼女は短パンの背中側にバスタオルを挟み込み、尻尾のようにぶら下げた。

 そこでようやく、直人は自分の靴を脱ぎ始めて――

「真矢ちゃーん。息が上がってるところ悪いけど、早く着替えて厨房入ってねー」

 受付窓口にいた凜が、急かすようにそう声をかけてきた。

 ――そうだ、給仕の仕事だ。じっくりと二人を見ている時ではない。

「……す、すぐ行きます……!」

 真矢は荒い息のまま応じた。



 ……彼女が、ドミニク・葵・ブレッソン。

 大神直人の幼馴染みで、のちの弓道部の広告塔。

 そして、真矢にとって最大の『ライバル』となる存在だ。

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