補完の短編集
ドミニクの入寮日:0.8
フランスのシャルル・ド・ゴール国際空港を出発して二日半以上。
日本の電車に揺られること、四時間。バスに乗ること、さらにもう一時間。
疲労のピークを通り越したところで、ようやくドミニクは目当ての学生寮に辿り着いた。
「ムゥ……」
くたくたになった白のブラウスと、むくんだ足でパンパンに張ったジーンズ。肌寒さを凌ぐためだった紺のジャケットは、両袖を腰に縛って留めている。
乱れた
外観塗装のための足場と、防護ネット。建物の形は『U』の字型っぽい感じで、この学生寮の名前はドミトリー・
……うん、合ってる。
「良かった……ここダ」
ここまでガラガラと引き摺ってきたオレンジの旅行鞄に腰かけ、深い溜息をつく。
だが、気を抜いて休むのにはまだ早い。入寮の手続きやら何やらが待っているはずだ。
自分の意識がある内に、さっさと済ませてしまわなければ。
気合いを入れ直し、ずしりとくる旅行鞄を持ち上げる。
たった数段の階段を息が上がるほどの労力をかけて登り、ドアの取っ手に指を掛け、引いてみたが――開かない。押しても駄目だった。
「えぇ……メンドーだよォ……」
鍵がなければ内側からしか開けられない、半ロックのドアだった。
仕方なく、すぐそばの壁面にあったインターホンを鳴らす。ほどなくして学生寮の関係者らしき年配の女性がやってきて、鍵を開けてくれた。
「はいはい。どちら様でしょうか?」
「えっト……二日前? に来るはずだった、新入生のドミニクでス。遅れてスイマセン」
声色に疲労は隠さなかったが、一応は取り繕った返答をする。
「あー、今朝お母様から連絡があった方ね。念のため、部屋番号を確認してもいい?」
「二〇八号室でス……。……ふぁ……」
アクビがまた出る。今度は目に涙も溜まった。
眠気がとうとうやってきたか……思考力が徐々に削がれていく。
「はい、確かに。私は寮母の和泉と言います。旦那の寮長共々、よろしくお願いします」
薄目で女性の姿を確認しているが、ぼやけて見えた。
「よろしく、お願いしまス……」
寮母さんのおじぎと、ドミニクの握手は噛み合わなかった。
結局どちらもやり直してから、寮の中へと招かれる。
「なんだか大変だったんだってね? あ、靴はそこの下足箱に。スリッパを履いてね」
自動ドアをくぐり、指示された下足箱へ靴を入れ、客人用スリッパを履く。
「ホント、大変でしタ……」
大変だったのは他でもない。空の交通事情だ。
乗るはずだった便が天候不順で急に飛べなくなり、天候の回復を待って粘った挙げ句、一晩空港で寝泊まりすることに。翌朝、待ちきれないあまり日本への直行便を諦め、大西洋を越えてカナダのバンクーバーを経由し、太平洋も飛び越えて行くプランを練る。
そうしてバンクーバー行きの便に乗ったはいいが、元々乗るはずだった日本への直行便が飛ぶとわかった時は、すでに飛び立ったあと。後の祭り。
着陸してから
時差ボケは幼少から耐性があったため苦ではなかったが、ここまでくるのに、直行便のおよそ倍近い時間をかけてしまった。
今は精神より肉体の方が明らかに参ってしまっている。
「ロビーが散らかってますけど、今しばらくは我慢して下さいね」
「ダイジョウブ……ちゃんと見えてないから、気にならないヨ」
それで大丈夫と言っていいかは微妙な所だが、ともかく大丈夫だと思う。
そんな思考をしてしまうドミニクを案じたのか、寮母さんが旅行鞄を代わりに持ってくれた。
「めるすィ。ありがとウ」
生返事で申し訳ないが、今はこれで精一杯だ。
二人でエレベーターに乗り、二階へ向かう。
「それにしても、日本語お上手ね~。助かるわ~」
薄れゆく意識の中、ドミニクは二〇八号室へ案内された。
道中、寮母さんから部屋の諸注意を聞かされた気はするが、よく覚えていない。
「――なんですが……うん。やっぱり疲れてるね。今、シーツ敷いてあげますからねー」
やった覚えのないベッドメイクがされていたことから、諸注意よりも先に寮母さんが気を利かせ、横にさせてくれたようである。
さすがは日本、おもてなしの国。
だがしかし、まだ夢の中へ旅立つわけにはいかない。
寮母さんが出て行ったのだろう、ドアの閉まる音のおかげで意識が戻った。ドミニクは気怠い体を起こし、ベッドの上で胡座をかく。
(……でも、さすがに今から学校に行くっていうのもナァ……)
左手首につけた時計を確認してみれば、今は午後二時五十分。
明仁高校での入学式は、今日の午後一時からだった。
ちなみに新入生の登校時間は十二時半までである。完全にアウトだ。
今は式の真っ最中どころか、もう終わっている可能性の方が高い。だからドミニクは学生寮の方へ来たのだ。
……ここまで来る電車の中で、すでに覚悟はしていた。
すっぽかすつもりはなかったのだが、事情が事情だ。母から学生寮へ連絡も来ていたことだし、学校の方へも連絡済みだろう。元から両親も入学式には来られなかったのだし、一人で式に参加したところで虚しさを感じるだけだ。
(うん、もうしょうがないネ)
よし、諦める。諦めた。
今日のところは、入寮して最初にやるべきことを果たすとしよう。
気持ちを切り替えるため、ドミニクは――今日で何十回目になるかわからないが――自分の両頬を叩いて気合いを入れた。目を閉じて深呼吸をし、眠気と疲れを一時的にだが誤魔化す。それでも足りなかったので、背を逸らし、両手を挙げて背伸びをした。
そうしてベッドから降りると、部屋の戸口まで歩き、戸口を背にして立つ。
部屋の照明をつけ、改めて部屋を見回ってみる。
奥行きのある簡素なワンルーム。フローリング張りの床面積はパッと見で十畳ほどか。
部屋に入ってすぐの右手側には洗面台。鏡の扉を開ければ、小物の収納スペースもある。
その隣の柱を挟んで奥、天井まで届く白い箱状の洋服用クローゼット。下部に収納棚もあるが、靴は四、五足で満杯だろう。クローゼットの容量も十着が関の山だ。フランスに置いてきた私物の一割も入らない。
とはいえ、日本の家具事情は事前に母から聞いていた。かさ張る私物は引っ越し業者に頼み、大事な私物は旅行鞄に詰め込んで持って来ている。
(良かった、全部持ってこなくテ)
クローゼットの隣には、
フランスの学校では手すり程度の台が『勉強机』だったので、少々その大きさに面食らった。教科書や筆記用具を乗せれば一杯だった机が、まさか人一人が
実際に乗りはしなかったが、ドミニクの体の幅で二つ、奥行きは一つ半あった。
そして部屋の最奥部には、横向きに置かれたベッド。
疲れて帰ってきたらそのまま飛び込んでしまいそうな魔性の配置であり、腰かけるにもちょうど良い高さだ。ベッドの土台部分はその高さを利用して大、中、小の引き出しがいくつか設けられている。ここの収納はタンス代わりとして使っていこう。
シーツや布団、枕、それらにかけるカバーはすべてリース寝具の物だ。三年契約で一括払い。寮母さんがベッドメイクをしてくれたおかげで、装いはすでに万全だった。
タンス、ベッドと視線を上げて、次に来るのは窓。
今は遮光カーテンが閉じられているが、どうせ開けたところで、窓の外は塗装作業用の足場と防護ネットで覆われいる。それに、景観を楽しもうにも付近には二階建て住居がたくさんあるため、二階のこの部屋からでは大していい眺めは望めない。
塗装作業が一段落するまでは、部屋の換気はエアコンの送風で凌ぐとしよう。
エアコンの取り付け位置は部屋の最奥部、左隅。居住者に直接風が当たらないようにするなら、まあ、これが妥当な配置か。
(うん、こんなもんかナ)
多少文句はあるが、備え付けの調度品がこれだけあるなら良い方だろう。
二、三畳ほど余った部屋の左半分は、フリースペースとしてこれから有効に活用していくとしてだ……さて、最初は何から手をつけよう?
「まずは、着替えヨウ」
そうしよう。そうしましょう。
フリースペースに腰をおろし、旅行鞄を開けて中身を広げていく。
入学案内の入った封筒と入浴用のポーチ、歯磨きセット、バンクーバーに着いた時に着替えた私服と下着をまとめた真空パック、空港で一泊した時の私服と下着をまとめた真空パック、そして、今着ている私服と下着を詰めていた真空パックの空き袋が三つ。
この真空パックは母の勧めだったのだが、存外、役に立った。ただ脱いだまま中に突っ込んでいたら、鞄のふたが閉まらなかったかもしれない。母の知恵袋、恐るべし。
だが、どうしよう。もう手元には着替えがなかった。
ここまでの長時間の移動で、服には埃や汗のニオイが染みついているのだ……改めてそう考えてみたら、無性に気持ち悪くなってきた。なんとかして着替えたい。
「あ、荷物!」
そうだ、引っ越し業者に頼んだ荷物が届いているはずだ。
その中になら着替えが入っている。早く取りに行こう。
ドミニクは気怠い体を動かし、立ち上がる――
コンコン。コンコン。
――と、部屋のドアが優しくノックされた。
「お休みのところ――あ、もう起きてたの? でも、ちょうど良かったわ」
こっそりと入ってきたのは寮母さんだった。
「事情が事情だから、コレ」
ひょいと寮母さんが掲げた手には、ハンガーにかけられたセーラー服とスカートが二組あった。黒い長袖のものが冬用、白い半袖のものが夏用だ。
「入学式には間に合わないってわかったから、学校から制服とジャージが届いてたの」
もう片方の手には、綺麗に折りたたまれた青色のジャージが携えられている。冬用の上に夏用の白い半袖と短パン。そして一番上には、学年章の白いスカーフリボンが一つ。
「オゥ! アタシの制服だネ!」
そうだった。荷ほどきよりも何よりも先に、制服の試着をしなければ。
ドミニクはすぐさま服を脱ぎだした。
「あら? そんなに待ち遠しかった?」
「モチロン!」
さっきまでの気怠さなどなんのその。
子供向けのCMで聞くような「うきうき」とか「わくわく」といった謳い文句そのままに、ドミニクの脳は眠気より好奇心を優先し、疲れた体を機敏に動かした。
あっという間に、水色のキャミソールとショーツの下着姿となる。
「おやまあ。外国の子って、本当に発育がいいのね」
「ソウ? 早熟なだけだよ、きっト」
ドミニクは脇下からすくい上げた自身の両胸を、軽く揺さぶってみた。
今のカップサイズはBだったか、Cだったか。正確なところは忘れてしまったが、胸を見下ろした時に〝足先が見えない程度〟には膨らんでいる。
このくらいならドミニクの学年ではさほど珍しくはなかったし、日本人女性の平均もBかCくらいだと、平均的な胸だと自称していた母が教えてくれた。
……でも、待てよ? よくよく思い出してみれば、母が持っていた日本製ブラジャーはみんな、自分にはかなり小さかったような気がする。
いつだったか、興味本位でつけてみた際にサイズ感は把握しておいたのだ。
「だけど服のサイズ、大丈夫かしら?」
「エッ!? だ、ダイジョウブだと思うケド……?」
そういえば、セーラー服のサイズを決める際に「日本の子供規格はまず合わない」と、両親が口を揃えて言っていたっけか。日本にいた頃、規格の違いで色々と苦労したらしい。
だからこのセーラー服は、しっかりと採寸してもらったオーダーメイドの品だった。
採寸したのは二、三週間ほど前だ。学校に発注する際、今後の成長を見込んで丈にゆとりを持たせているはずだから、小さすぎるということはないはずである。
……しかしふと、ドミニクの脳裏に一つの懸念がよぎった。
合格通知を受け取ったあとの、摂生の緩い食生活が。
(だ、ダイジョウブ……ダイジョウブだっテ……)
まずい、色々と危険な感じがしてきた。
ドミニクは内心冷や汗をかきながら、寮母さんからセーラー服を受け取る。
先に両腕を入れて、頭に被る。もそもそと頭を中へ進ませ、寮母さんの手を借りて穴から脱出。服のシワを伸ばしながら格好を整えていく。
「…………。うん、大丈夫そうね」
襟首、肩幅、胸囲、袖丈……よし、大丈夫。
「フゥ……良かっタ」
汗をぬぐうそぶりを一つ。
その動作を見て微笑む寮母さんが、白いリボンを襟の下へ通していく。
「この分なら、夏用の制服とジャージも大丈夫そうね。……それと、思わずやってしまいそうになったけど、リボンは自分で結べるかい?」
「実は、こういうのやったコトなくテ……。中学のはホック式のリボンだったシ……」
「よしきた。孫ので散々練習させてもらったからね。任せな」
今日の所は寮母さんのデザインと感性で結んでもらう。
練習したというだけあって、淀みない手際だった。
「よーし、できた」
仕上がりは、キュッと締まった蝶結び。
二つの輪の大きさも、垂れた両端の長さも均一だ。
「じゃあ次、スカートは?」
「ウィ。スカートならダイジョウブ」
トントン。
とそこへ、部屋のドアを素早くノックする音が。
「寮長です。寮母さんはまだ中にいますかね?」
ドアの向こうから、くぐもった声が聞こえてくる。
「あら、あなた。どうしたの?」
寮母さんはドアを少し開け、部屋の外にいる旦那さん――寮長と話す。
「親御さんの応対だ。さすがに数が多そうでな、手伝ってくれないか」
「あら、もうそんな時間なのね。すぐ行きます」
ドアを少し開けたまま、寮母さんはドミニクの方を振り向く。
「そういうわけだから、お手伝いはここまでね」
「メルスィ。あとは自分でやれるから、心配しないデ」
ドミニクは笑顔を返し、寮母さんを見送る。
「あ、そうだ。荷物よ、荷物。ブレッソンさん、あとでロビーに取りに来てね。私らは応対できないけど、受付窓口にエプロンをつけた女の子がいるはずだから、その子に言って受け取ってちょうだい。荷物は一目でわかると思うわ。外国の箱だから」
「ウィ。ありがとうございましタ」
矢継ぎ早にそう言い残し、寮母さんは部屋の外へと出て行った。
ドアが閉まり、二人分の足音が遠ざかっていく。
寮長さんは「親御さんの応対」と言っていた。つまりは今、入学式を終えた学生たちが寮へ帰ってきているということになる。混雑は必至だ。
荷物を受け取りに行くのは、もう少し時間が経ってからにしておこう。
ドミニクは落ち着いてスカートを
「ヨシ。さすがアタシ」
無理なくジッパーも上がり、ボタンも留まった。
お腹周りも大丈夫だったことを確認すると、鏡を求めて洗面台の前へ。
袖口と襟を改めて正し、プリーツの折れと乱れを直す。内股に足先を揃え、腰と背を正し、顎を軽く引いて、自然に降ろした両手を前に組んだ。
こうした方がいいと判断した自身の感性に従い、ドミニクは静止する。
(うん、我ながら似合ってル)
なんの変哲もない、ただの立ち姿。
それはパッと見で、海外ドラマに出てくるような女子高生の姿のようだった。
事実、ドミニクは女子高生だ。だが成人した女優が演じているドラマの役とは違い、ドミニクには純粋な若さはあっても、大人の色気というものは持ち合わせていなかった。
長旅の疲れで顔色に覇気はなく、そして今はノーメイク。スカートも膝丈に合わせただけ。
これでは、とても色気のある格好とは言えないだろう。
しかし、キチッと整えられた姿というのは、それだけで清らかな色香を纏うものでもある。それが、大人の色気に匹敵する魅力を与えてくれていた。
ドミニクが持ち得ていたのは、
それが日本の『和』を象徴する一因だと、ドミニクは信じて疑わない。
たとえ身のこなしは素人でも、多感な幼少期に体感してきた『美』は一級品なのだ。
弓道という『美』に魅せられた父の存在も大きいが、ナオトと一緒に弓道を学んでいたドミニクもまた、同じ信条の元で教えを受けてきたのだから。
(
真なるものは美しく、善なるものも美しい。
そう教えられて、ドミニクは育ってきた。
(――だよね、ナオト?)
自身のセーラー服姿に満足し、鏡に向かってニコリと一笑する。
その作り笑顔が、五年前に空港で別れた時のナオトの顔と重なり、ふと思い出された。
あの日の一部始終は、今でも鮮明に思い出せる。
しょうがない事だとはわかりつつも、別れの喪失感から逃げるようにして、ナオトは困った笑みを浮かべていた。
涙で視界が
(……早く、会いたいナ……)
フランスにいた時と違い、今は会いに行こうと思えばすぐに行ける距離にあるのだ。
山を三つ越えることになるが、まあ、バスで三時間もあれば着くはずだ。ここまでの空の旅路に比べたらなんてことはない。軽い遠足のようなものである。
……そう考えたら、少し胸の鼓動が速くなってきた。
「フゥ……」
洗面台に両手をつき、深く息を吐いて呼吸を落ち着かせる。
……もし、今のこの姿でナオトに会いに行ったら、彼はどんな顔をするだろう?
初めて会った時みたいに、緊張してしまうだろうか。
遊んでいた時のように、明るく笑ってくれるだろうか。
いやいや、再会の感動の方が強いに決まってる。自分だってそう思う。
しかも飛び級でナオトと同じ学年に、肩を並べられるようになったのだ。
この姿は、それを示すためのほんのキッカケにすぎない。
再会して、この姿を見て、飛び級の話になって、それから昔を懐かしんで――
うん、きっと流れはこうなるはず。
この姿を褒めてくれたらそれはそれで嬉しいが、何よりもまず、この五年の空白を埋めるために色んな事を話したい。語り合いたい。
(……でもその前に、やることはやらないと、ダネ)
物想いにふけるのはここまでだ。
物事を中途半端にしておくのはよくない。やるべきことをすべて済ませてから、次のことを考えよう。それからでも遅くはない。
「よっシ」
ドミニクは自身の両頬を再び叩いた。
きびすを返し、広げっぱなしの旅行鞄の元へと戻る。鞄の中に入っているものを全部取り出し、先に出していた物と一緒に選別し始めた。
入学案内の封筒と筆記用具は机へ。
歯磨きセットと入浴用ポーチは、洗面台に一時保留としておこう。
真空パックに入れていた着用済みの着替えと、今し方脱いだ服はあとで洗濯に持っていかなければ――ああ、しまった。そうだ、洗濯用洗剤をまだ買っていない。
今日中に買いに行くとして、他にも何か入り用の物がないかメモしておかないと。
洗剤とスリッパと、フリースペースに敷きたい安めの
まずは生活必需品から揃えよう。
一人で持てる量にも限度があるし、ひとまずは洗剤とスリッパからだ。
(……あレ? そういえば洗剤って、荷造りした時に入れたっケ?)
液体洗剤は漏れる心配があったからやめたけど、粉末洗剤なら大丈夫と思って、二、三回分を真空パックにして入れていた気がする……気はするが、日本の洗剤で慣れなさいと母に取り出された記憶もある。
はて、どっちだったか?
最初に入れたのが液体洗剤だから取り出されたんだっけ?
そのあとで入れたのが粉末洗剤だっけ?
あれ、逆かな?
「……取りに行った方が早いヤ」
荷物を受け取ってくればすぐにわかることだ。
一階のロビーは混雑の真っ最中だろうが、こういう時、日本では『思い立ったが吉日』と言う。『善は急げ』とも言うのだし、この機を逃す手はない。
まずは荷物の置き場所を確保しないと。
せっかく出した中身をまた旅行鞄に放り込み、壁際に寄せて手早く片付ける。
二度手間だが、今はしょうがない。
(さっさと済ませヨウ)
ドミニクは部屋を出て、来た時と同じくエレベーターに乗って一階へ向かった。
着いた一階は案の定、新一年生たちとその両親らでごった返していた。寮長夫妻が手短に応対して帰らせているが、焼け石に水な状態だ。
もしドミニクの両親が入学式に来れていたら、自分もあの中の一人だったに違いない。
その混雑からなるべく離れ、足早に受付窓口へ。
途中、色んな人の好奇な視線がドミニクに注がれていく。
日本人ばかりがいるこの場に、西欧人のハーフがいるのだ。目立っても仕方がない。その好奇の視線は甘んじて受け、進行方向にいる者へは流し見程度に視線を返してやる。
そうして受付窓口の目と鼻の先にある、東館・男子棟用の多目的ラウンジのそばを通り過ぎて――そこでふいに、足が止まった。
「――――!?」
最初から止まろうと思って止まったわけではない。
「…………?」
最後に視線を交わしたのは、ラウンジにいた青いジャージ姿の少年。
これから部活があるのか。それともただのジョギングか。ストレッチの途中で身動きを止めたままの少年と、ドミニクはもう一度視線を合わせる。
短めの黒髪、幼さの残る顔。目線の高さはドミニクよりもわずかに低い。自身の体格より大きめのジャージを着たその姿には、なんだか母性本能をくすぐられる。
過去に、これとほぼ同じ印象を抱いた男の子と出会ったことがあった。
その子がドミニクと同じ年月を経てきているとするなら、この少年のようになっているかもしれない。そうなっていてもおかしくない。
そう。この少年にはナオトの面影がある。
一目見て、ドミニクはそうだと感じ取ってしまったのだ。
だがまさか、ナオトがここにいるわけがないとも考えてしまう。可能性としてはあり得なくもないが、それにしたって、出来過ぎではないだろうか。
会いたかった人物にその日の内に出会えるなんて、すぐには信じられない。
「……もしかして、ナオト?」
その疑念を解消すべく、ドミニクの口は自然と動いていた。
そう問われた少年が、無言のまま驚いた様子でうなずく。どう言葉を発していいものかと悩むその表情は、まさしく十年前と同じ、初対面の時のナオトだった。
あの時は、ドミニクも緊張していて表情も体も強張っていた。
言葉もほとんど通じなかったし、どう切り出そうかと探り探りの状態だったのだ。
だけど今は違う。緊張はしていたが、それ以上に嬉しさの感情の方が大きい。念願だった再会の喜びが
「ナオトー!!」
飛びかかるようにして、ドミニクはナオトに抱きついた。
抱きとめてくれたナオトはその場で一回転し、勢いをいなす。
この瞬時の判断力はさすがだ。
小さい頃、ドミニクは幾度となくナオトのこの判断力に助けられていた。
オニゴッコで転びそうになった時は、捕まるのを承知で助けてくれた。毒のある草花や虫に触りそうになった時は、手を伸ばす前に忠告してくれた。人混みではぐれそうになった時なんかは、父よりも先に気づいて手を繋いでくれたこともあった。
その紳士振りは、今も健在なようである。
(ナオト……! 本当に、ナオトだヨ!)
回転が止まると、ドミニクは溢れる
「……えっと、テーブルに足とかぶつけなかった?」
「ウィ! ナオトなら大丈夫って信じてタ! ホラ!」
言って、ドミニクは「レ」の字に折った足をバタバタと動かしてやる。
「まあ、怪我がないならよかったよ」
ナオトはそう安堵し、ドミニクを床に降ろしてくれた。
回った勢いで脱げ飛んだスリッパを回収し、ドミニクの前に揃えて置いてくれる。
「メルスィ、ナオト。それと、久しぶリ」
「うん、久しぶり。元気だった?」
そうして背比べを交えつつ、この五年間の経過を簡単にだがナオトに伝えた。
でも、まだまだ話し足りない。
どれから話そうか迷うほど、話題が次から次へと浮かんでくるのだ。
「ヨシ! ツモル話もあるし、続きはアタシの部屋で話ソウ!」
そう言ってナオトを誘ったのだが、横から邪魔が入ってしまった。
「はいはい。
そんな言葉と共に、何かの帳簿がドミニクの頭上に振り下ろされた。
「――オゥ! な、なニ……!?」
「受け取りのサイン、お願いします」
帳簿とペンを差し出してきたその少女は、リンという名前のようだった。
さっぱりとした雰囲気を持つ少女で、いかにも日本の女子高生という感じだ。ナオトと同じ青いジャージを着て、黒いエプロンを身につけている。受付業務を担っていることから、寮母さんが言っていた女の子というのは彼女のことらしい。
「お疲れ様です、リンさん――いえ、もうリン先輩ですね」
「あはは、遂に先輩呼びかー。なんだかむず痒いけど……もっと言って」
ドミニクが帳簿にサインをしている間に、彼女はナオトと和気藹々とした会話を続けていく。先輩呼びを喜んだ上に、部長とも呼ばせて堪能するとは……。
……これは、ナオトに色々と聞かなければ。
もちろん所属する部活は弓道部だろう。だが二人の慣れた話しぶりからして、ドミニクが日本を離れていた五年の間に、弓道に関わる何かで出逢ったに違いない。
そう考えが至ると、なんだか遅れを取ってしまったような気がしてきた。
……用心しないと。きっと、他にもいる。
なぜかはわからないが、ドミニクはそう確信した。
「ヨシ、終わっタ! ナオト、手伝っテ! それから話ソ!」
内に湧いた焦りを振り払うように、ドミニクは帳簿とペンをリンへ突き返した。
ナオトの手を引いて、受付窓口の脇に積み重ねられていた段ボール箱の山へ近づく。一目でわかる自身の荷物――フランスの引っ越し業者のロゴが入った段ボール箱――をとりあえず二つ、ナオトへ手渡した。
ドミニク自身も一つ抱え上げ、足早に自分の部屋へ戻ることにする。
機嫌が悪い時のムスッとした表情が、到着を待つエレベーターの扉に映り込んでいた。
それから数時間後。
ドミニクの確信通り、ナオトの『同い年』と遭遇することとなる。
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