第五章 新たなる願い

第34節

 降り頻る雨の中、俺は、自転車通行可の歩道をひた走っていた。学生寮前を西に右折した以降、直進している。車道は片側一車線。道路沿いの左右に、民家が軒を連ねる。


 新星さんはチャリだったけど、まだ大して遠くには行ってないだろう。でも俺、新星さんちの場所、知らねーぞ。ニュースで中継されてたあのマンション、どこにあるんだよ。


 今のところ、新星さんの姿は見当たらない。異臭は、依然として俺の進行方向から感じる。


 もしも俺がケータイ持ってたら、新星さんに、電話かメールで、連絡取れるのにっ。持ってたとしても、電話番号かメルアドを、新星さんが教えてくれたかは、定かじゃないけど。


 早くも路面は水浸し。飛沫を上げて、闇夜の中を駆け抜ける。新星さんの居場所は不明だが、兎にも角にも、異臭の漂ってくる地点へと急いだ。肌にべとつく衣服が、重くなってきた。


 よーし、近いぞ。もうすぐ着きそうだ。


 雨水で視界が滲む中、目を凝らす。前方に、交差点が見えてきた。この十字路を、俺は以前から買い物で通ったことがある。昼間と異なり、現在、車両用信号機は赤が点滅している。

 図らずも、交差点前の歩道に、一台の自転車が倒れているのを発見した。加速する俺。傍まで駆け寄ると、無意識に足が止まった。肩で息をしながら、眼前の光景を、見下ろす。



 倒れている、真新しい自転車。傍らには、脱ぎ捨てられたような、衣類の上下と、靴。雨の打ち付ける歩道に、放置されていた。

 全て、紫を基調とする色の物だ。新星さんの私物に間違いないことを、俺の記憶が証明した。



 何で新星さんの物が、こんなことになってんだ。

 彼女は、どこに居るんだ。


 辺りを見回す。時折、交差点を車が一時停止して通過する。周辺の歩行者は少ない。俺以外の通行人は皆、たぶんバド状態だ。よって俺以外の誰も、異臭には気づかないのだろう。通り過ぎていく者たちの、視線を感じる。

 俺が知っている、新星さんの姿は、どこにも無い。


 おい……。俺は、新星さんを消してやってくれと、頼んだ覚えはないぞ。


 不可解な状況に、呆然と立ち尽くす。乱れていた呼吸は、治まってきた。一定の間隔で点滅し続ける赤い光が、水浸しのアスファルトを、妖しく照らす。

 異臭が漂ってくるのは、この場。具体的には、地面からだ。

 とりあえず新星さんの自転車を、起こして停めた。次に、落ちている衣類と靴を、自転車の前カゴに入れることにした。

 靴を手に取る。中にソックスが入っていた。不思議なことに、靴はソックスごと脱げたような状態だ。

 妙だと思い、両手に靴を持ったまま、今度は新星さんのズボンに目を向ける。すると両裾の先端から、何やら黒いものがはみ出ていることに気づいた。

 異様に濃い、影。足の形をした、影だ。足首から先が、うごめいている。

 俺は咄嗟に数歩後ずさりした。恐る恐る、新星さんの衣服に近寄り、上着の方も注視する。

 両袖からは、手の影が。襟からは、頭部の影も。衣服は一見、抜け殻となって潰れているが、中身は胴体で繋がっているかのように、黒ずんだ五体の影がある。影に立体感は無く、服の内側や路面に映っている。衣服は、雨粒による衝撃で僅かに変形するのみ。露出した各部位の影だけが、音も立てずもがいているのだ。髪型はセミロングで、やや癖毛だ。


 にい……ぼし……さん? この形は、新星さんだろ。この服からして、彼女に、間違いない。

 さっきから感じてる異臭みたいなのは、この影から匂うぞ。臭っ。臭いぞ、新星さん。失礼だけど、だって臭いんだもんっ。


 俺は靴をカゴの底に置いた。一旦、バドしてみる。異臭と共に、新星さんらしき影も消えた。歩道上に視認できるのは、彼女の私物のみである。再度ブルムした。


 ブルムしてる時だけ見えるってことは、この変な影も第六感が関わってるのか。

 うーん……。察するに、新星さんは、メビウス絡みの特殊な状態になったんだな。原因なんて、俺が知るか。こんな影の情報は聞いてないもん。望月さんなら何か知ってるかも。

 ともかく新星さんを、連れて帰ろう。服は……折っても大丈夫なのか? これ。服がぺしゃんこなのに、五体は動いてやがる。たぶん、内臓とか骨とかの概念は無いんだろう。


 俺は新星さんの衣服を、袖や裾から、襟の方へ、適当に小さく折り畳んだ。彼女の手足は巻き込まれて、服の中に包まれた模様だ。濃い影は、頭部だけが路面に残っている。畳んだ衣服を持ち上げて、カゴに入れた。路面上の影を見る限り、新星さんの全身が、自転車のカゴに納まったようだ。


 影だけ見てると、生首をチャリのカゴに入れてるみたい。こえーなぁ、もう。


 自転車を出し、学生寮へハンドルを切る。サドルに跨り、ペダルに右足を掛けた。


「よし。帰るぞ、新星さん」


 来た道を引き返す俺。相変わらず、激しい雨が降り続いている。


 まいったな。この後、どうすんだよ。新星さんを、服ごと俺んちに持って入るのか? 雨の中、道路に落ちてたんだから、服は洗濯してあげよう。だけど新星さんもろとも全自動洗濯機に入れてスイッチオンするわけにはいかんだろ。生身の人間だったら死んじゃうって。

 そうだよ。死んだわけじゃないんだ。新星さんは、まだ生きてるんだ!

 だからその、お洋服をだな。ぬ、脱いでもらおうか。


 学生寮に着いた。自転車を駐輪場に停め、新星さんの衣服を、畳んだまま取り出す。足元に置いて、広げてみた。駐輪場は、地面がコンクリートであり、屋根付きなので雨を凌げる。付近に街灯があるので、影が明瞭だ。薄い方と濃い方の、双方を見分けやすい。

 両袖を摘まんで、上着だけをそっと持ち上げていく。白い地面に映っていた、両手と頭部の濃い影が、服の中に引っ込む形で隠れたのか、地面からは一旦消えた。そして腰の部分にだけ短い地割れが発生して広がるかの如く、濃い影が頭部側へ面積を増していく。

 重さは、単に濡れた服といったところだ。肉体との摩擦が起きているような抵抗感は無い。

 俺はゆっくりと立ち上がり、新星さんの上着を脱がし終えた。ブラジャーも一緒に脱げたことが分かった。新星さんの上半身が、全て濃く投影された為だ。上着で潰れていた部分は、本来の体型に戻っている。

 影の形状から判断すると、現在の新星さんは、両足を伸ばして座っている体勢だ。上体は前後に反復動作しており、髪が揺らめいている。


 立てない、のか。今の新星さんは、服を自分では動かせんのか? どうも、服を着てる部分は、服が重しになってて動けんみたいだ。

 いうなれば、こゆーい影のできる、極めて軟質且つ軽量で、異臭を放つ、透明人間って感じだ。どんなモンスターだよ。斬新でオリジナリティーに富んでるぞ新星さん。

 ブルムしてる俺ですら、視覚では、新星さんの肉体を認識できない。けれど実際には肉体がありそうだ。変な影が映ってるんだもん。


 新星さんの左手側に、俺はしゃがんだ。彼女の上着を、傍らに置く。新星さんの上半身の影は、彼女の右手側にある。

 映し出された角度的に、大きな胸の膨らみが確認できる。くっきりとした影なので、身体の輪郭が分かりやすい。

 俺は、揺れる濃い影を見ながら、自分の右手を、新星さんの額がありそうな位置にかざす。影の動作からして、肉体同士が触れ合うと、新星さんはそれ以上前屈しない。そのまま彼女を後屈させていき、仰向けに寝かせた。新星さんの全身の影が、姿無き肉体の真下に来る形となった。

 俺に、彼女の感触は無い。濃い影と異臭が、第六感で分かるだけという、儚いものだ。


 俺は新星さんの体を、五感では感知できないんだろう。けど動かすことはできるんだな。


 俺は地べたに、両膝と両肘をつく。右手は、新星さんの頭部が凹まない高さで浮かしている。


 新星さん、呼吸は、してるんだろうか。


 俺は、右手で新星さんを寝かせたまま、左手を彼女の口元に近づけていく。

 顔の真上に達した途端――新星さんの口付近の影が、灰色に光った。

 俺は慌てて左腕を引っ込める。

 新星さんの影は、口の辺りから、帯状の光を放った。直前まで俺の左手があった空間を、垂直に一瞬で貫く。


「んおぉっ!」


 明暗複数ある灰色の帯が束になってコントラストを産み出すグラデーションの光線。いわば、直線的なモノクロの虹といった印象だ。太さは、人の口が大きく開いたほどのけいに相当する。

 光の帯は、駐輪場の屋根で途切れている。すぐに消え、屋根に損傷や変色は無かった。


 何だよ、今の……。


 新星さんの方を見やる。影の口付近は、既に光が消失していた。


 今のに当たってたら、俺どうなってたの。ねぇ、新星さん。


 俺にとって、現在の新星さんは、未知の生物も同然だった。冷静に、慎重に、対策を練る。


 服を洗濯するには、脱がす必要があるわけだ。けれど全部脱がしたら、新星さんがどんな行動をするか分からん。さっきの灰色の虹みたいなのを、俺に撃ってくる恐れもある。くらったら俺は死ぬかもしれん。死にたくないから、不用心な手出しは禁物だ。

 さぁどうする。何か時間帯も相まってテンション上がってきたぞぉ。初見の中古ゲームソフトを買ったら解説書が無かった為に、敢えてネットの情報にも頼らず自力だけで攻略する時の気分に近いわ。俺は基本的に解説書を隅々まで読んでからプレイするけど、無ければ別だ。


 落ち着こうとする反面、心躍る自分。現実世界で体験するファンタジーは、自身の親しんできたどんな娯楽よりも、“夢中になれるもの”だった。

 俺が右手を離し、新星さんがむくりと起き上がる。

 衣類を洗濯する為の案は、すんなり閃いた。


 重しは、服じゃなくてもいいんだろ。


 俺は腰を上げ、新星さんの自転車のカゴから、彼女の靴一足を取り出した。予めソックスを抜き取る。先程と同じ要領で新星さんの上体を寝かせ、片方の靴を、彼女の胸に向かって、真上から地面に置いた。


 これで新星さんは倒れたままだ。さて、ズボンを脱がしちゃお。


「……失礼します」


 動揺しながらボタンとファスナーを開け、両裾を摘まんで、半歩ずつ後ずさり。下半身の濃い影も、全て露わになった。パンツも一緒に脱げたようだ。もう一方の靴を、腹の位置に置く。

 胴体は微かに揺れており、五体が付け根からもぞもぞと動く、新星さんの影。


 罠に掛かった動物みたいで、不憫だな……。見るに忍びないわ。


 不意に俺の足元で、何かが地面に落下した音。俯くと、見覚えのある紫の財布が。新星さんのものだ。抱えているズボンから、抜け落ちたようだ。


 あっ。そういや幻銭は、この財布に入れてあったんだよな。新星さんのことが気掛かりで、頭に無かったわ。


 財布を拾い、小銭入れを開けて覗く。包み紙が、硬貨に紛れている。摘まみ出して紙を開くと、案の定レシート。出てきたのはギザ十だ。刻印されている年を、確認する。


 おぉ、良かった。幻銭だ。無くなってたらどうしようかと思ったぞ。


 俺は、幻銭を元通りに仕舞い、衣類をまとめて抱えた。


 新星さんをここに放置してたら、ブルムした天道使に見つかるかもしれん。天道使って不必要にはブルムしないみたいだけど、新星さんのことを嗅ぎ付けられたらまずい。異臭を放ってるだけに。ひいては幻銭のことがメビウスにバレる恐れもある。

 第一ここは学生寮の駐輪場だぞ。未着帯者の学生が出入りする場所だ。新星さんが、灰色の光線を一般人に吐くかもしれん。赤の他人がどうなろうと俺は知ったこっちゃねーけど、騒ぎになるのは避けたい。巻き添えをくらうのも御免だ。


 雨は小降りになってきた。俺は、自宅にある、役に立ちそうな物を、脳内で探す。


 やむを得ん。新星さんを、俺んちに匿おう。お互いの安全を、確保する為に。

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