第20節

 ――――――――――――――――――――

 新星緩菜が我に返った時、自身は空中に浮かんでいた。

 厳密にいうと、空中に浮かんでいる球状の物体に、四肢でしがみついていた。

 ――――――――――――――――――――


「何や……これ」


 球体の直径は、両端に手が届くほどだ。ぼんやりとした赤い光を放っている。ウチを乗せて浮かんでいるのだ。道路からの高さは、電柱の先端を越えた辺り。

 空中から恐る恐る見下ろす。アスファルトの車道にはブレーキ跡が残っているけど、さっきの自動車は見当たらない。道路の隅に、ウチの自転車が倒れている。大通りではないから、今現在、人や車の通行は途切れた状態だ。


 まさか、轢き逃げ? いやぁ……えげつなぁああ。

 ほんで、この丸いやつは何なん。


 ウチは、事故の瞬間を思い起こしてみた。

 知らぬ間に交差点へ飛び出していた自分。そこへ勢い良く突っ込んでくる自動車。衝突する直前、ウチは自身の体から、得体の知れないものが解き放たれたような感覚だった。そして、自転車のハンドルを握っていた右掌から、赤い光が溢れだす。光は小さな球体となり、急速に巨大化。磁石みたいに、球体に吸い寄せられるウチ。自転車から手足を放して、しがみつく。自動車とぶつかった際、球体に大きな衝撃が加わり、ウチごと跳ね飛ばされた。ブレーキ音と、自転車が轢かれる音。無我夢中の間に発生した出来事だった。


 そうや。これ、ウチの手ぇから出てきたわ。

 ほな、この丸いやつが、魔法なん。……そうやんな。魔法なんやわ。やったわぁ! ウチ、ホンマに魔法使いになったんや!


 眼下の光景を見渡す。依然として、人や車の通行は無い。


 空中にいつまでも浮かんでたら騒ぎになるやろな。ひとまず下りましょ。そやかて、これ、どないして下りるん。


 球体が、無音で下降を始めた。


 あ、動かはった。いやっ、ちょっ、速いわ。止まりぃっ。


 急降下した後、速度が徐々に緩み、道路に接触する寸前で停止。ウチは鼓動が高鳴るのを感じる。上体をそっと起こした。自分の発生させた超常現象に、呆然とする。

 傍らに倒れている、ウチの自転車。事故で車輪が歪んでいるから、押して運べそうにもない。


 自転車は、どうしましょ。放置するわけにもいかへんやんな。


 道路に降り立とうとした。けれど、球体に体が吸い寄せられる。強引に滑り落ちるように着地して、正面からもたれ掛かる。


 この子、重力でもあるんやろか。


 球体を撫でてみると、ほんのり暖かい。押してみると、ゴムボールみたいな弾力がある。手で触って離す、という動作を繰り返す。


 吸い寄せられるわ。まるで、ちっさい星って感じやわぁ。

 ……ええこと思い付いた。


 球体に乗って跨り、上昇を始めた。民家の塀の高さくらいで止める。今度は自転車の方へ体の向きを変える為、球体を水平回転させた。続いて水平移動。自転車の真上に到達し、じんわり下降していく。ある程度近づいたら、自転車が浮き上がり、球体にくっついた。


 でけたでけた。この子、ウチの思った通りに動かはるし、やっぱり重力があるんやわ。

 さてと。このまま低空飛行で、ウチの家まで帰ってたら、目立ちすぎるわ。さっきより、もっと上の方に行こか。


 ウチと自転車を持ち上げている球体が、空に向かって急上昇する。付近の、十階以上ありそうなマンションの屋上を、見下ろせる高度に達して止まった。


 いいいやぁっ。ウチ高所恐怖症やあらへんけど、さすがに怖いわぁ。そやけど下の方にくっついてはる自転車が落ちひんから、上に乗ってるウチは安全やろな。他人に見つかったらあかんから、高度を下げるわけにもいかへんわ。

 たぶん、魔法が実際に使えるようになった人は、まだウチだけやろな。大っぴらにするのは、もう少し今後の状勢を見極めてからにしましょ。


 球体を水平回転させることで、自宅の方に体を向けた。


 ほな、帰ろ。思い切り、飛ばしてみよか。


 全身から湧き上がる、得体の知れない力を振り絞り、発進。徐々に加速していく。最終的な体感速度は、自転車を八割の力で漕いでいる感じの速さとなった。


 ……思たより、とろいなぁ。そやけど、凄いわ。漫画やアニメのキャラになった気分やわ。


 眼下には、生まれ育った大黒の街並みが流れていく。空を舞う鳥みたいな視点からの光景だ。

 やがて自宅のマンション近辺に到達した。上空から駐輪場を目がけて、垂直に降下していく。自転車が地面に着く間際で、ピタリと停止させた。弾力が四肢に伝わる。球体からの重力に逆らい、降り立った。体の正面を向けて寄り掛かる。周辺を見回したところ、人影は無い。

 試しに後ずさりしてみる。ある程度離れると、球体に吸い寄せられないようだ。


 この子、どないしたら消えはるんかなぁ。


 自転車を持ち上げたまま、浮かんでいる球体。ウチは、右手を開いてかざした。心の中で、消えろと念じてみる。けれども無反応だ。


 自転車は駐輪場に停めておいて、不燃物の日に捨てるとしましょ。ほんで、この子、消えへんのか。家の中に持って入らなあかんの。これ結構場所とるやん。玄関のドア通るかな。

 ちっさくなりぃよぉ。


 右手をぎゅっと握ってみる。

 突如、球体が閃光を放ち、轟音をあげて爆発した。ウチは、眩しさに顔を背け、身構える。

 薄目で前方の様子を窺う。ウチの自転車が砕け散っていた。

 マンションの住民らが、窓や玄関のドアを開けて、次々と顔を出す。


 単なる乗り物とちゃうんやな。危うくウチがバラバラになるとこやったわ。


 肝を冷やしたウチは、苦笑いを浮かべ、地面にへたり込んだ。


 あかん、座ってる場合やあらへんな。騒ぎになる前に、ここから離れよっ。


 立ち上がり、走り去る。その時、マンションの敷地内に一台の普通自動車が入り、駐車場に停まるのが見えた。記憶に新しい車だ。そして車体の前側が、若干凹んでいる。


 あの車、ウチを轢き逃げしたやつや! 運転してた人の顔も、うっすら覚えてる。


 運転席のドアが開き、背広姿の青年が出てきた。中肉中背。片手に鞄。眼鏡を掛けている。

 彼は、車体の凹みを暫く見つめた後、歩き出した。同乗者の気配は無い。ウチは遠くから眺める。


 あいつや。もっさい男やわ。よーし、せめて自転車代は弁償してもらいましょ。


 青年の元に駆け寄り、強い口調で話し掛ける。


「ちょい、あんさん。待ちなはれ」

「ひぃっ。あ、君は、さっきの」


 目が合った途端、青年は顔をこわばらせ、眼鏡の位置を直した。


「あんさん、自分が何をしたか、分かってはるんでしょうな」

「ご、ごめんよ。人をはねたの初めてで、怖くなって、つい逃げてしまった」

「あんさんは車やのに、ウチより遅くここに来はったなぁ。どこ行ってはったん」

「一旦現場から離れたんだけど、後で気になって引き返してみたんだ。けれど、君の姿も自転車も、無くて。……申し訳ない」

「謝って済むなら、警察は要らしまへんなぁ」

「ひえっ、どうか、通報は勘弁してくれっ」


 青年は鞄を脇に抱え、両掌を合わせる。


「君は高校生、かな。ここは車社会の田舎でしょ、免停になって車が使えなくなると、移動が不便になるのは、分かるよね。就職活動をしてる人にとっては、仕事の選択肢も狭まる」

「あんさん、会社員ちゃいますん」

「いや無職だよ。僕は今日、就職の面接を受けてきたところなんだ。もし通報によって僕の名前や大まかな住所が報道されたら、不採用の確率が上がるだろう。只でさえ、長年のニート生活による空白期間があるんだ。親からは、もう三十なんだから小遣いぐらい自分で稼げって言われててね。そこら辺も考慮して、どうか通報だけは。この通り、お願いだ」


 三十歳まで親から小遣いもろてたニートなんて、ゴールド免許でもお祈りされるんちゃう?


 合掌して哀願中の、青年を見定める。


 こいつの態度からして、ウチの出した球体には、気づかへんかったみたいやな。大方、ウチが魔法を使う直前から、こいつは目ぇでも閉じてたんでしょ。


 不意にウチは、良い香りを感じ始めた。


 あら。ええ香りやな。何の匂いやろう。


 どこからか漂ってくる。ウチは、匂いの元を探りながら、周囲を窺う。その際、マンションの影から出てきた、一人の少年に、目が留まった。気だるそうな顔で、こちらに歩いてくる。

 ズボンのポケットに両手を突っ込んでいる彼は、ウチの傍で立ち止まった。


「誰かと思ったら、オマエかよ」


 現れた人物、クラスメイトの瀬良木は、眉間に皺を寄せていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る