第5話 弟子入り
ピチャン。
あの日もこんな風に釣りをしていたなと思いつつ、メロスは釣り糸を垂れる。あのときと違って今日はすでに夕方、なのに一向に釣れる様子もない。
ただし暇かと問われればそうでもなく、見ている光景は急流ではない全く別の物。
仙術スキル〈千里眼〉。
同じエリア内限定であり、一定以上の実力者相手には弾かれてしまうという欠点はあるものの、条件を満たせば距離に関係なく目の前にいるかの如く見ることができる。
「見る」スキルなので「聴く」ことはできないが、人相手なら読唇できるので問題ない。しかし、さすがに人外では読唇も役に立たないが。
それはともかく、メロスが見ているのはあの
あの龍が登竜門を越え、神龍に打ちのめされ、|人造人間(ホムンクルス)に封印され、メロスと別れてから十日。
そう、もう十日経っているのだ。
深紅龍が意外と頑張っているという話ではない。あの子龍は三日目で折れてここを目指し始めたのだが、途中で襲われて逃げているうちに帰り道がわからなくなってしまったのだ。一言にすると、迷子になっている。
やるだろうと思っていたが、本当にやったときには笑ったものだ。
それ以来あの龍は涙目になって、あの結界の場所を探し続けている。ただ、泣いているのは恐怖というより、悔しさやら怒りやらが我慢の限界を越えてしまったせいだが。見ているだけでもわかる龍の表情は、なかなかに恐ろしげである。
結界を探している間ももちろん襲われないわけがなく、その度に近付いたり離れたり、傷を増やしながらふらふらと移動を続けている。
ざっと数えていたが襲われた回数は百近く、襲われればどうやっても逃げられない魔物に狙われた回数は十一回。そちらはメロスが裏から対処しておいた。生まれたばかりの子龍ではどうやっても喰われるしかなく、これもまた修行の一環と捉えているメロスには不要な相手だったからだ。
子龍を強く育てるための訓練は、すでに始まっているのである。
なぜ子龍を育てるようなことをするのか。ただの暇潰しである。同時に強い興味を惹かれたからでもある。やるからには全力で取り組むつもりだ。
それ故に最初の修行は『逃げること』。
自らが決して強い存在ではなく、上には上がいるのだとその心身に叩き込む。同時に見ただけで相手の強弱に、およその見当を付ける目を磨く。強者ほど強さを隠すものだが、全く見抜けないのは大問題なのだから。
子龍を襲う魔物達は弱い方の魔物ばかりだが、子龍にとってはどれも強者ばかりで、どうすれば対処できるか図る訓練にも丁度いい。
死なないよう、傷つき過ぎないよう、今日もまたメロスは遠くから見守っている。
◇◆◇◆◇
十五日目である。ようやく子龍が結界の場所まで辿り着いた。遅かったのか早かったのか、判断に困るところだ。とりあえず、死なずに戻って来られたことを評価しようか。
着いた時点で疲れ切っていた子龍のために、メロスは一日置いてから子龍の所へ向かった。
「久しいな。戻ってきたのか?」
トグロを巻いて、打ちひしがれている子龍に声を掛ける。
あちこちに傷を作って血を流し、埃や砂で汚れ、死んだように動かないまま、閉じられた目から涙が零れ続ける。
まさに悲壮という言葉が相応しい状態で、子龍は結界の中にいる。
「聞いているのか?」
再度、声を掛けると龍の目がゆっくりと開き、緋色の瞳がメロスに向いた。鈍い動作で頭をもたげた。
雄大な体躯は恐怖に震えている。目からは涙が未だ零れている。全身でメロスから今すぐにでも離れたいと訴えていた。
なのに唯一、瞳の色だけがメロスの思っていたものと違っていて、ん、と小さく首を傾げた。
ナユタ大陸を飛び回ったことで龍としての威厳も気迫も消え去り、最強の誇りさえ叩き折られた子龍に残っているのは、恐怖や怯懦、疑心に嫌悪などの、負の感情ばかり。……だと思っていたのだが。
強い怒りや殺意に埋もれるようにして、何かまったく違う感情が窺えるような気がして仕方なかった。
勘違いかもしれないが、そう判断するには違和感があった。
「随分打ちひしがれているが、どうかしたか?」
反応を確かめるため、そう口にする。
「…………」
「言いたくないか。まあ、負け犬そのものの姿を見れば予測はついたんだが」
「……ここは、どこじゃ? 山しかないし、襲ってくる魔物は皆強くて……強くて……」
今までのことを思いだして辛くなったのか、ポロポロ、ポロポロと涙を零し、地面に点々と跡を残して、吸い込まれていく。
感じていた違和感が鳴りを潜めた。
(情緒不安定だっただけか、馬鹿らしい)
想定通りではあるが、強く恨んでいるはずのメロスに泣き言を言う姿を見て、そう判断した。さほど気にすることでもなかったな、と気を取り直して告げる。
「ここはナユタ大陸。世界一の広大さを誇る大陸だ。暗黒大陸とも呼ばれ、常に生き残りを懸けて、魔物達が殺し合っている。その魔物を相手にすれば成龍ですら危ういのに、生まれたばかりの子龍が、ふらふら飛び回れるようなところではないな」
ただ、普通の子龍なら
龍が喜びそうな事実は伏せたまま、メロスが真実を告げると龍の涙の勢いが強まった。
「な、なんで……りゅうは、さいっ、さいきょうなの、に」
「最強なのに手も足もでなかったことが、納得いかんか」
「だっ、まけ……、はずっ、……そん……うっ、……」
子龍はもはやしゃくりあげるばかりで、何を言っているのかよくわからなくなった。
ただ、何となく言いたいことはわかる。
「勘違いするな。最強の生物が龍であることは疑いない」
「だっ……、だっ……」
「この世界の成龍は、全て二メートル級の卵龍から生まれた龍ばかりだ。なぜならそれ以上の大きさだと、登竜門を登れないからだ」
しゃくりあげながらも、龍はメロスの話に耳を傾ける。
「何故龍が最強と呼ばれるのか。それは高々二メートルクラスの卵龍が、ナユタ大陸でさえ生きることのできる魔物へと成長するからだ。そして発生する卵龍の最大は七メートルと言われ、その卵龍が神龍へ至ったと伝わるからこそ、世界最強と呼ばれるのだ」
「七メートル……」
「所詮人の世の最大に過ぎん。世界最大の卵龍から生まれたのは、まさしくお前だ。高々七メートルで神龍となれるのだ、卵龍のときで十メートルを越したお前がどこまで至るか、想像もできん。わかるか? 龍は弱くない。そしてお前は、どこまでも強くなれる逸材だ」
メロスは一旦言葉を途切る。龍が言葉を噛み締め、理解するのを待つ。
「……私は強くなれるのか?」
もはや泣いておらず、表情には疑心が表れ、縋るような目をしている。
「なれる。私が保証しよう」
「……わかった」
そう呟いて俯く。
何をわかったのか。メロスはそう聞こうとしたとき、龍は顔を上げた。
表情がまるで変わっていて、疑心は覚悟に、縋ろうとしていた瞳には、強い意志の光が。
だが何より強烈なのは深紅の瞳に浮かぶ押し殺した殺意と怒気が。目を離すことなく見ていたというのに、別人かとすら思うほどの変容。
「頼みがある」
力の籠った短い一言は、震えていた。
「何だ」
「私を、強くして貰いたい。誰よりも、何よりも、強く」
「……辛いぞ?」
「弱いことほど辛いことはないわ」
「お前は私に怨みがあるのではないのか?」
ぶわりと、龍からの殺気が一際強まった。
「今も殺したいと思うておるわ! あれだけ私を虚仮にし、矜持を傷つけた貴様を許せるものか! ……だが手段など問うつもりはない、強くなれるならな。憎い相手にも頭を下げて見せよう」
「面従腹背、か。なるほど……そこまでの覚悟があるか。いいだろう、お前を最強の名に相応しい龍にしてやろう」
深紅の龍が獰猛に微笑んだ。
メロスもまた、面白いと微笑んだ。
計画通りだと、微笑んだ。
龍は産まれたときから龍としての矜持を持っている。それは最強であれという、何よりも強い衝動のようなものだ。それを己の意思で止めることはまずできない。
そして矜持はときとして傲慢さに変わる。教わる相手に対して内心で馬鹿にしていれば、決して成長は見込めない。傲慢さは教えを受けようという者に、最も必要のないものだ。
だからメロスはその性根を叩き直すべく、徹底的にその心を折り続けた。これ以上ないほど敗北を植え付けた上で、生まれたばかりの龍を命の危険さえある場所に放り出し、そこでまた敗北させる。
最強種である龍が、全く勝てないでいるのだ。納得できなくとも現実が自らを、弱者であると位置付けてしまう。
そして誇りがあるだけに、生まれて一度も勝てない状況に対して、心が完全に折れた。
それが結界の中で丸まっていた状態だ。自分は弱者であるのだという否定しえない事実を、心の芯にまで叩き込まれた状態である。
魔物や強者への恐怖、逃げることしかできなかった怯懦、龍が本当に最強なのかという疑心、弱い自分自身への嫌悪。
負の感情が渦巻き絶望しか見えない中、一つの希望が示される。
――神龍の伝説である。
発生する卵龍の最大が七メートルと言われているのは確かだが、神龍云々の伝説は、口からでた出任せである。
しかし出任せだと知るすべもなく、たかが七メートルで神龍にもなれるのだと示されて、十メートル級の子龍が希望を抱かないはずがない。
そこまでいけば、龍の感情の動きなど容易く読み取れる。
神龍に至る道への模索。
しかもその道はあまり多くない。
何よりも、この結界から出てしまえば神龍どころか一月と持たず死んでしまうことは、この十五日間で嫌というほど学んでいる。生殺与奪を握られている。
その前提に立ち、龍にできること――。
選択はいくつかあっただろう。しかしナユタ大陸におけるメロスの保護を得、同時に神龍へ至るための踏み台として、弟子になることを選んだ。狂わんばかりに吹き荒ぶ、己の中にある怒りを押し殺して。
ある意味で、もっとも龍にとって都合のいい展開。
近くにいることでメロスの弱点さえも探ることができるのだから。
しかしそれは、メロスにとって理想の展開でもあった。
この龍はホムンクルスであっても、本質的に人ではない。近くに置いておくのもいいだろうと思え、同時にこの渇いた世界に一時の色をつけるのも悪くはない。
唯一の計算外は、龍の復讐心が想像以上に深かったことだが、それを相手にするのも面白いと、メロスはにやりと笑う。
「始めに名を与える。
「……よかろう、私は今日からティーナと名乗る」
「不満そうだな。まあいいが。口調については特に咎めんが、師としての命令は絶対だ。これが聞けんようなら師になる話はなしだ」
龍の顔に若干の苦味が走った。
「……仕方ないか。了解した」
「次に姿だ。龍ではなく人の形を取れ。ホムンクルスは人型、半魔型、魔物型の三通りの姿を取れるが、人型以外で活動しても成長しない。ホムンクルスがそういうものだからだ」
「なんだとッ!!」
「ん、怒ったのか? なら出ていくか? 私はどちらでもいいぞ」
烈火の形相となったティーナ。ふるふると震え、怒りに耐えているのがよくわかった。
その怒りがどれほど正当なものであっても、決してぶつけることはできないとわかっているメロスは、本当に楽しそうに笑った。
「安心しろ、人型での成長は他のタイプにも反映されるからな。むしろホムンクルスになったことで、普通の龍では到達できない境地に至れるのだ。感謝してもらいたいぐらいだな」
「――フゥゥ――フゥゥ……」
ティーナの口から長く深い息が洩れる音だけが聞こえた。
抑えきれなかった怒りを放出しているかのような姿に、メロスはにやにやと笑い続ける。
「で、どうするんだ?」
追い込むように聞くと、龍の姿が光に包まれた。まるで龍の怒りを表すかのような赤い光で、この間見た普通の輝きとは全く違っている。赤光の中で龍は姿を変えて、メロスの半分もない背の人型に。
光が収まった。そしてメロスはおや、と首を傾げる。
黒かったはずの髪と瞳が、龍体と同じ深紅へと変化していたのだ。元より勝気な印象のあった子ではあったが、なおそのイメージが深くなった。
「ふむ。龍にホムンクルスの身体が馴染んだということか。魔力が安定しているな」
「私は、お前を絶対に許さない。いつか必ず、殺す」
小さな手をぎゅっと握りしめながら、怒りに打ち震える体を抑えての宣言。五歳ぐらいの少女がいくら凄んでみたところで、メロスにささやかな痛痒さえ与えないが、予定よりいい状態になっていると内心で頷いた。
かつて卵龍のときに見た惰弱さは一切見えず、むしろ才気と復讐心によって獰猛とも呼べる牙が、ティーナの中に見える。
普通なら根を上げるような厳しい修行でも、彼女は乗り越えてしまうだろう。
「やってみろ、弟子」
メロスはにやりと笑う。こうして新しい
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