第4話 ナユタ大陸
起きたばかりの少女は倒れたまま、まだ現状を認識しきれていないのか茫洋とした瞳で辺りを見渡した。
「あ、あ、うぁ……」
「ふむ。まだ言葉に慣れないようだな。私が誰かわかるか?」
ホムンクルスには言語能力が備わっていたはずなので、わからないということはないだろう。言葉を使えないのも単純に慣れていないからというだけですぐに使えるはずだ。
そもそも龍自体が言葉を扱える魔物なのでその点問題ない。
声を掛けられたホムンクルスの少女は寝ぼけ眼でメロスを見て、大きな目をさらに大きく見開いた。
「うわ、うわあああああああ!!! 助けて、助けて!」
存外に可愛らしい声でつんざくような叫びながら這いずって逃げようとするが、新しくなった体がうまく動かないらしく、じたばたとその場で泳ぐ仕草を続けている。卵龍の頃の記憶が子龍になればいくらか覚めた夢のように薄れるが、完全に消えるということはないため、今まさにそのときのことを思いだしているのだろう。
見ていて可哀そうになるぐらいの怯えようだったが、ショックで言葉を扱えるようになったのは唯一の僥倖か。防衛本能が働いたのかもしれない。
しばし待ってみたものの一向に落ち着きを取り戻す気配がないため、これ以上は時間の無駄かとメロスは少女に近付く。悲鳴がより一層大きくなった少女の頭にポンと優しく手を乗せた。
「静かにしろ」
一言で悲鳴がピタリと止まる。恐怖に固まって滲んだ瞳がメロスを見つめた。口をしっかり引き結んで静かにしている様は、どう見ても普通の子供だ。ホムンクルスと知っていなければ、これが龍だとは誰も思うまい。
想像以上の幼い仕草と怯え方に、体が少女になってしまったせいで心までもが同じになってしまったのではなかろうかと、メロスは僅かな疑念を抱いた。本来龍に性別はないので、ホムンクルスの性別に引っ張られたということは十分に考えられる。
「いや、確か……精神が体に引っ張られるとか、言ってたか?」
さすがに相当昔のことで、記憶もおぼろげだ。
しかし何にしろ、ここまで心が折れているのならやり易い。
「だがそれほど怯えるなど、本当に龍の子か? 実は蛇の子ではないのか」
わかり易い挑発に少女の目つきが変わる。
今まで潤んだ泣きそうな目しか見ていなかったせいで知らなかったが、本来は勝気で鋭い目つきをしていたのだと初めて知った。頭に乗せた手を振り払って今にも飛び掛からんと構えるが、幼い少女が精一杯頑張っているようにしか見えないので、勇ましさより微笑ましさばかりが先立っている。
「私は誇り高き深紅龍じゃ! このようなみっともない姿に変え、あまつさえ侮辱までするとは! 貴様を絶対に許さぬぞ!」
舌足らずにもならず言っていることは立派で、発する気迫は少女の姿をしていてもさすが龍と称えるに相応しい。が、足が笑っている。
「許そうが許すまいがどうにもできまい。龍の姿でさえどうにもならなかったというのに、弱く幼いその姿で何ができる?」
「くっ……」
悔しそうに呻いている少女にメロスが口元に笑みを浮かべながら近付くと、たちまち勝気だった目は負け犬のそれに変わり、涙を浮かべてへたり込んだ。
最初から心が折れていたのだ、立ち向かってきたこと自体が驚嘆に値する。
しかし虚勢も尽きたのか、もはや怯えきった表情をした少女は、これから何をされるのだろうと不安に打ち震えて、メロスを見上げるだけだ。
「二つに一つを選べ。このまま私のところにいるか、立ち去るか。立ち去るのなら龍の姿に戻してやろう」
少女の瞳に光が戻ったが、表情は訝しげにして疑心に満ちている。今までにされたことを思えば、至極当然であろう。
「……本当に、去っても構わぬのか?」
「構わない」
「ならば龍の姿に戻せ。私は立ち去ることを選ぶ」
これは完全な敗北宣言である。最初から勝負になっていなかったとはいえ、傲岸な口調で情けないことを言うものだ。ここまでくると龍の習性なのだろうか。
メロスは頷いて少女の額に手を当てる。一瞬ピクリと怯えたが大人しくされるがままになる。
変化は魔力があれば使用することができる。この少女の肉体では変化するために必要な魔力も賄えないだろうが、魔力は自分のものである必要はなく、メロスの魔力でも変化をすることは可能だ。
「下位スキル〈変化〉を使え。今のお前ならわかるはずだ」
メロスの指示に少女は困惑しながらも使おうとするが、うまくいかないのか唸っている。
スキルが使えていないこともあるが、メロスの魔力もうまく使えていないようだ。
「目を瞑れ、集中しろ。私の手から魔力が流れて来るのをイメージして魔力を使え。スキルは〈龍の吐息《ドラゴンブレス》〉をすぐに使えたように、これもすぐに使える技術だ」
言われた通りに目を瞑って集中する少女。これ以上はメロスから伝えられることはない。静かに少女の様子を見守る。
数分そうしていたが、やがて何かを掴んだのか、こう口にした。
「変われ、〈龍化〉」
たちまちにして少女は光に包まれて形を変え、あっという間に本来の姿である|深紅龍(カーディナルドラゴン)の姿を取り戻した。
正直驚いた。スキルをより高いレベルに変化させ、使用魔力と変化速度を速めさせるとは。自分に合ったスキルへと昇華させてしまった。
おそらく、以降はメロスの力を借りることもなく、〈変化〉を成立させてしまうはずだ。
「立ち去って良いのだろう?」
メロスの驚きを余所に、怯えて伺う深紅龍。女性の大人びた声だった。やはりホムンクルスに引っ張られているのだろうか。
「構わない。――ああ、そうだ」
逃げるように飛び立とうとした子龍に声を掛ける。
「ここには結界が張ってあって私とお前以外に入れない。それだけだ」
よくわかっていない様子の子龍だったが、頷いて旅立って行った。
小さくなる龍の姿を見ながらメロスは笑みを浮かべる。
「どうせ、帰ってくる。あいつはここでは生きられない。無事帰って来られたら名付けてやろう」
ここはナユタ大陸。化物の住まう処である。
◇◆◇◆◇
名もなき龍は宙を駆り、奥歯をギリと噛みしめる。血の味が広がったが、さして気にもならなかった。
そんなことは些事であるとばかりに脳裏を支配し続けるのは、名すら名乗らなかった黒髪の男に対する怒り。
一見若いように見えて物言いは年長者のそれ。目の前にいながら存在感が薄く、茫洋として物理的に捉えどころのない青年。そして恐怖の体現者。
あの男にはどうやっても勝てないと、恐怖が心の芯にまで叩き込まれてしまっている。思い出すだけでも身体が震え、悪寒が走るほどだ。
生まれたばかりの自分には到底引っくり返すことのできない差があることを理解していた。
龍が初めて黒髪の男を目にしたのは、未だ生まれ出でぬ、卵龍として発生した二日目のことだ。
今思えば揺蕩うものを餌だと勘違いし、咥えてしまったことが誤りの始まりだったのだろう。針が口に引っかかり外れなくなった。引っ張ってくる者がいることにはすぐ気づいたので、生意気な、とむしろ引き込んでやろうと水の中を縦横無尽に暴れた。
しかし糸の向こうはまったく動かず、突如として降り注いできた桁違いの力を前に動きを止めてしまった瞬間、まともに抵抗すらできずに地上へと引っ張り上げられ、無様を晒してしまっていた。
そこからは苦難の連続であり、極めつけは暗雲漂う空を割って現れた、神龍であった。
あれこそ――龍。
自然と暴力の体現者たる、超常の存在。あらゆる生物の頂点に立つ存在。
あれを見てしまえば、生まれたばかりの龍の些細な反抗の意思など圧し折られてしまった。黒髪の男とはまた違う、勝てないという心底から生まれた敗北感。
同時にふつりと生じた――怒り。
同じ龍でありながら、どうしてこうも差があるのだというぶつけようのない怒りも、確かに生まれていた。
しかしそれが明確な形になるより早く、深紅龍は岩盤に叩きつけられ気を失った。
次に気がついたとき、目の前に黒髪の悪魔がいた。
三日かけて思い知らされた実力差と、神龍さえ召喚してしまう底知れない実力と。それらが一挙に襲ってきたせいで、みっともなくも喚いて無様を晒してしまったが、黒髪の男が挑発してきたのに反発し、なんとか恐怖に打ち勝った。
近付かれれば簡単に折れる程度のものでしかなかったが、男から視線を外すことだけはしなかった。
もはや虚勢心だけで己を奮い立たせていた龍に、そして男は問いかける。ここに残るか、さもなくば立ち去るか。
答えは始めから決まっていたが、生殺与奪を握っている男が提示するものに罠を感じ、即座には頷けなかった。
しかし予想に反して龍は本来の姿を取り戻し、こうして自由を手に入れている。
別れ際に意味深なことを言っていたのが気にかかるが、どういう意味なのだろう。些細なことであればいいのだが、嫌な予感が拭えない。
「しかし……考えても仕方ないか。今はとにかく力を蓄えねば」
あの男を殺すために。
あれほどの醜態を晒させた男を、龍は決して許していない。
これ以上ないほどの、屈辱。今すぐにでも引き返し食い殺してやりたい誘惑に駆られるが、わずかに残っている理性がそれを必死に制していた。
現実は無情だ。今の自分ではどうやっても勝てないと体に叩き込まれている、ならば屈辱に耐えながら将来へ向けて力をつけ、伏し機を窺う以外に方法はない。
しかし、力をつけるにしてもどうするべきか。
目標は定まっていても、何をすればいいものかと龍は悩む。少なくとも普通の方法で強くなろうとしても、あの男の足元にすら及ばない気がする。
「……それにしても、山しか見えぬな。一体、ここはどこじゃ」
視界を遮らんばかりに連なる山々と、青々と茂った群青の深い森。山脈のせいで各地に影が落ちているせいで、雰囲気はどんよりと暗く、あまり長居したいようなところではない。どこまで飛んでも見えるのはそれらばかりで、地平線の影形すら見つけることができない。
「キュアアアアアアア」
突如、残響の長い鳴き声をさせて、山間から何かが向かってくる。
深紅の目を凝らすと、人が乗れるほどの巨大な鳥影が見えた。あれはカラスだろうか。
「ふむ。手始めに、あやつから蹴散らしてみるか」
黒髪の男に至る道のりの第一歩。
あの男には全く適わなかったが、龍という存在は大半の魔物よりも強いのが普通だ。
龍は迎え撃つことにした。
「黒髪の男には受け止められたが、お主には無理だろう。〈
口から高威力の光線を発射した。魔力をそれなりに使うが、龍の最強の攻撃技である。最初の一撃で決めるつもりであった。
「キュアアアアア!」
「ッ!!」
カラスは一鳴きすると全身が青い水へと変化する。命中したドラゴンブレスは水の体を貫いたが、何事もなかったかのようにカラスは飛翔し続ける。まるで効いていない。
――〈物理無効〉。属性すら乗せていない〈
龍の本能が警鐘を鳴らす。あれに勝つことは無理だ。
即座に身を転じて撤退した。が、カラスは思いのほか速くあっという間に追いついてきて、龍の上空を通過する。
過ぎ去り際、龍の背中に水滴が掛かった。何のつもりかと龍が睨めば、頑強な龍の鱗が煙を噴きながら溶けはじめる。魔力のこもった硫酸である。
慌てて体を回転させて水滴を弾き飛ばした。そのままカラスを避けるように方向を変えて再び逃走を続ける。
幸運にもカラスはそれ以上追ってこなかったが、この水滴は二度目はないという警告だろう。推測するに、カラスの縄張りを知らぬうちに犯してしまったのだろうか。
カラスが点にすら見えないほど逃げるに至って、龍はようやく安堵の息を吐いた。
黒髪の男に続いて二人目の天敵だ。あの男ほど絶望は感じなかったものの、ただでさえ傷ついていた矜持へ追い打ちをかけてきたことは変わらず、カラスにもいつか報復すると決めた。
しかしそれはそれとして、実際のところ自分の実力は如何ほどなのだろうと、龍は初めて疑問を抱いた。
黒髪の男と神龍はもはや想像の埒外だ。戦うことすらできずに殺される未来しか見えない。だが、さっきのカラスならば。相性が最悪だったせいで逃げる羽目にはなったが、どうにもならない相手とは感じなかった。
「経験の差、かのう……?」
生まれたばかりの自分には、力以上に、それが圧倒的に足りないような気がした。
「キュァァァ――」
遠くからまたあの声が聞こえ、ビクリとして振り向く。影もない。どこかでまた戦っているのだろうか。
龍はまた目をつけられては堪らないと、高度を下げた。森を掠めるように飛翔する。
遠くを見渡すことはできなくなったが、カラスと遭遇するよりはましだろう。
それにしても、この逃げてばかりの現状をどうすべきか。苛々しつつも我慢して飛んでいると、背中にトンと軽い衝撃が走って、すぐに激痛へと変わった。
何事かと背中を見ると、漆黒の狼が爪を立てて踏ん張りながら、背中に牙を喰い込ませていた。
「今度は狼か!」
上は空だというのにどうやって登ったというのか。
そして驚くはその牙と顎の強靭さ。子龍とはいえその鱗は頑強な鎧であり、容易く穴を開ける黒狼もまた脅威。
振り払うべく、一回転。離れない。
さらに勢いを付けてもう一回。離れまいとして肉に牙がますます食い込み、体が痛みを訴えてくる。
ならば地面に叩きつけてやろうかと下を見れば、背中のより少し小さいが黒狼が数匹。視線は確実に龍を狙っていて、実行しようものならたちまち骨になるだろう。
――ゾッとした。
黒髪の男を始めとした格上の者達相手からは感じなかった、純然たる恐怖の感情が湧いてきた。
こいつらは、龍を獲物としか見ていない。自分達の縄張りに無防備に入ってきた、美味しそうな餌。
殺されるのではなく、食われる。それが今までになく恐怖を煽った。
このままではまずいと焦燥に駆られて辺りを見れば、絶壁。
天の助けと全力の速度で絶壁に黒狼をぶつけると、ようやく鋭い牙が肉から抜ける。が、安心したのも束の間、追いかけてきていた黒狼が絶壁を使った三角飛びにて襲い掛かってきた。
咄嗟に身体を捻って躱したものの、次々と襲ってくる黒狼に堪らず、絶壁から離れる。
これでもう空中にいる龍へ手出しはできないはず。ほっと息を吐こうとした途端、今度は空中を蹴って三角飛びをしたきた黒狼に、大慌てで上空へと逃げ出す。三角飛びを失敗した黒狼が宙を噛みつけ落ちていった。何度も宙を蹴ることはできないみたいで、九死に一生を得た。
おそらく最初の一匹は群れのリーダーで、二回以上宙を蹴れたのだろう。でなければあんな何もないところで飛び乗ってくるのは不可能だ。
「ここは一体何だというのだ……?」
血を滴らせ黒狼の群れを見ながら呆然と呟く。飛んでいる龍を見上げながら追いかけてくる様は、まだ諦めていないとはっきり訴えてくる。
どれほど弱くても幼くても龍は龍だ。実力が低すぎるということはない。なのにこの短い間に、二度も命の危険に晒された。
そしてあの悪魔の囁きを思い出す――。
『ここには結界が張ってあって私とお前以外に入れない』
あの言葉は、あの場所以外は危険地帯だと言っていたのだ。逃げ惑い、狼狽えて、そして最後には戻ってくると確信した言葉だったのだ。
理解すると同時に、激怒した。どこまで私を馬鹿にするのかと、龍は怒り狂い、天に向かって咆哮をあげた。
「いつか、絶対に殺してやるぞ! 黒髪の男ッ!」
恐ろしいまでの殺意を滾らせる龍。己の矜持に賭けて、未だ届かぬ黒髪の男への報復を誓った。
――そのためには力を手に入れなければ。
龍は再び空を駆った、確実に黒髪の男を殺せる力を求めて。――しかし、ここがどこかも知らないままに。
ここはナユタ大陸。遥か昔からある人外魔境。
あらゆる魔物が喰らい合い、生き残りを懸けて殺し合う。強者すら弱者に成り下がる数多の化物の巣窟。
成龍でさえ一瞬の油断が命取りのこの場所で、一人の隠者が笑みを浮かべた。
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